恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ブッダ「誕生」

2018年08月10日 | 日記
「君は、ゴータマ・ブッダの伝記的経典にある、いわゆる『梵天勧請』の話を随分と重要視しているな。どうしてだ?」

「ああ。ヴェーダ経典のブラフマンにあたる神が、悟りを開いたゴータマ・シッダッタに説法を請うエピソードだな。そのとおり、あの話と、それに続く最初の説法、『初転法輪』の話で、初めてシッダッタ青年はブッダになったんだ」

「悟ったときではない?」

「違う。『悟り』と称される何らかの体験、あるいは境地は、それ自体ではまったく無意味だ。幻覚や妄想と区別がつかない。大事なのは、その体験の後、彼が何を語り、どう行動したかなのだ」

「つまり、ある体験をどういうコンテクストに乗せるかが問題なのだな」

「そもそも、ブッダは自身の『悟り』体験やその内容について、一切語っていない。少なくとも経典にない」

「だから、彼以外の者が何を語ろうと、結局はお伽噺にしかならないわけか」

「そう。『梵天勧請』の話では、悟りの直後、シッダッタ青年は、誰にも自分の悟りは理解できないから、まるきり他人に話す気はなかったということになっている。ならば、この話のキモは、そのまま何も言わなければ、コトは結構な体験をしたシッダッタ君の自己満足エピソードで終わり、仏教にはならないということだ」

「ということは、その時点でまだブッダではない」

「本人には悟った者としての自覚や実感があっただろう。しかし、それなら、『自称ブッダ』に過ぎない。『自称芸能人』のうさん臭さと変わらない。『私』が記憶と他者の承認で成り立つように、『自称ブッダ』は他者から『彼はブッダだ』と認められねばならない」

「それが『梵天勧請』エピソード核心か」

「もう一つ。ブラフマンが勧請している以上、彼の『悟り』と称する体験とその教えは、ヴェーダの教えより優越しているという意味になる」

「つまり、ヴェーダ教説との差異こそが肝心なのであって、共通するものは二の次ということだな」

「だからこそ、その体験後にユニークでオリジナルな何かを語り、誰かを納得させねばならない」

「そうか。だから初説教になるわけで、昔の修行仲間に話をしてみたら、そのうちの一人がいきなり悟った(実際には、よく理解した、程度の意味だろう)」

「というか、ブッダが『彼は悟った』と認証した。シッダッタ青年以前に悟った人間はいないのだから、彼が認証するしかない。つまり、『悟り』の内容が明かされない以上は、先に『悟った』と自称する人が、何かを語って、聞いた側に何らかの変化があった時に、それを『悟り』と認証する手続きが最初から必要なのだ」

「ということは、『悟り』は一人で開けないのか?」

「そう。それでは『悟り』にならない。つまり、サンガと『悟り』は同時に成立する」

「その時点で、ブッダがブッダになり、彼の言葉は妄想ではなく教説になったというわけか」

「したがって、『悟り』自体はどう語ろうと無意味だ。あるいは、どう語っても勝手だ。後は『教説市場』でどれだけの支持を集めるかの問題に過ぎない」

「言い過ぎじゃないの?」

「でもねえ、ブッダと同じ修行をしていたわけでもなく、無論ブッダと『同じ悟り』を開いたわけでもない者が、話を聞いただけで『悟った』んだよ。ならば、話の中身はともかく、『悟り』体験そのものは大した事件じゃないね」

「言うねえ」

「うん。ともかく、ぼく、『悟り』や『真理』の話は全部ひっくるめて眉唾物にしか聞こえないの」