恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

やはりダメだ

2017年05月30日 | 日記
 オリンピックが東京開催に決まった直後に、このブログで言ったとおり、やはりこのオリンピックはダメだ。

 本音が「経済成長」、つまり金儲けであるにもかかわらず、東京とまるで関係ない震災の「被災地復興」を看板に持ち出して誘致するなどという、邪なやり口で始めておいて、まともなオリンピックになるわけがない。

 成る程という大義名分も理念も持ち合わせないから、人心が収攬できないし、共感も醸成できない。案の定、決定直後から粗末な不手際が続き、未だに金でもめている。

 都周辺で競技会場を予定されている県が揃って費用負担を忌避するのは、県民を説得する自信が全くないからであり、それは結局、説得的な理念、人心が帰趨する大義名分が欠落しているからだ。

「正にこういうわけで、誘致したオリンピックです。ぜひ、県としても協力したいのです」「そうか。だったら我々も一緒に頑張るか」

 こういう流れになるには、真っ当な理由が必要なのだ。「復興五輪」というなら、最低限、開催までに仮設住宅を全部無くし、福島の原発廃炉と郷土での生活再建に目途をつけなければならない。その上で、

「あのとき、支援をいただいた世界の皆様に、御礼を申し上げ、復興の状況を見ていただくために、国を挙げて東北にオリンピックを呼ぼう」

 せめてこの程度のことを言うのが、「まともな大義名分」というものだろう。それもできずに「復興五輪」など、片腹痛い。

 それに、今やオリンピックは政治的に悪用されている。

 迂闊に花見に行ったら犯罪になりかねないような、詰めの甘い法律を作る名目にされたり、杜撰で拙速な改憲議論の期限を切る理由にされるようなオリンピックは、もはや有害である。

 言論・表現・思想・信条・結社の自由を確実に護持することの重要性に比べれば、オリンピック開催などものの数ではない。国家の基本的な枠組みを決める法律を議論することは、オリンピックとまるで無関係な話で、こんな時にこんな話が持ち出されるなら、オリンピックの方を切るべきなのだ。

 このオリンピックは、行う必要がない。このままではおそらく、一時の気晴らしの後に、大きなダメージが残って終わる。まだ遅くない。恥を忍んで返上するのが、賢い選択というものである。