恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

真理と常識、あるいは問題

2017年03月30日 | 日記
 思うに、「真理」は深さが、「常識」は拡がりが肝要でしょう。

「真理」は多数決で始まりません。誰かがそれを「真理だ」と強く信じれば、そのときに「真理」は成立しています。彼以外の大多数が認めなくても、その時の彼には「真理」以外の何物でもありません(無論、後日「誤りだった」ということになるかもしれませんが)。「真理」は結局「真理だと思う」強度に依存するのであって、いわば質的概念です(「それでも地球は動いている」)。

 これに対して「常識」はまさに多数決です。「常識」がそういうものである所以は、大抵の人がそう思っているということであり、量的概念だと言えましょう(昔の天動説、いまの地動説)。

「真理」は、時には「常識」に試され、抵抗され、それを突破して「常識」になる場合もあります。「時代」を動かすのは、そういう変化です(「コペルニクス的転回」)。

また、「常識」は「真理」に挑戦されれば、それを吟味し、淘汰して、最後に残ったものを新しい「常識」として受け容れるでしょう(地動説の「常識」化)。

 普通、人間の行動の「理由」や「根拠」として意識されるのは、まずこの「真理」か「常識」でしょう。自らの行動が「正しい」と確信できるのは、どちらかに依拠している時だと思います。

 ところが、仏教は「真理」を無条件に受け容れません。「絶対に正しいことがある」とは、決して言いませんし、言うべきではありません。同様に、「常識」も疑います。「常識」は、あくまでも特定の時間と場所に、一定の条件下で、暫時成立するものだと考えます(いま「常識」の地動説が「絶対正しい」根拠はない)。

 すると、この考えに忠実ならば、仏教者は「決然とした行動を、断固としてやり通す」ということは苦手かもしれません。つまり、自分の行動を無条件に「正しい」と確信し難いからです。

「真理」でも「常識」でもない、行動に踏み切る理由があるとすれば、それは「問題」です。目の前に、具体的で差し迫った「問題」が出てきたなら、自分の考えが「正しい」かどうかわからなくても、行動を起こさなければならないでしょう。

 予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、「問題」がある以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。おそらく、多くの人たちは日々そうやって生活を営んでいるのでしょう。

「真理」や「常識」に距離を置く仏教者も、ブッダの教えを参照しつつ(経典とは、とどのつまり「参考文献」です)、同じく試行錯誤を方法として、問題に取り組むのが真っ当だろうと、私は思います。