恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「業」について

2016年05月30日 | 日記
 仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。「業」は「自己」の実存理解において、決定的な意味を持つ、というようなことを時々言ったり書いたりしてきたので、ここで私が「業」をどう考えているか、ざっと説明しておこうと思います。

「業」の辞書的理解を紹介しておくと、およそ次のようになります。

 サンスクリット語では「カルマン」と言い、「行為」を意味する。「業」思想とは、ある人間のある行為が彼の実存の仕方を規定し拘束することを、善因善果・悪因悪果という倫理的因果関係において理解する思考様式である。仏教では「自業自得」を主張し、その限りでは実存の「自己責任」論を採用している。多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた。

 これに対して、現在の私の「業」理解を簡単に提示します。

 現在の「自己」の実存が、その時点での既知未知に関わらず、当人に責任のある行為、あるいは当人に責任のない事柄によって規定・拘束されている事実を自覚し反省して、ついに決断とともにこの事実を「自己」の実存条件として引き受けるとき、「自己」実存は「業」として認識される。すなわち、「業」とは「業」の自覚のことであり、この自覚がない限り、「業」は無意味であり、端的に「無い」。

 こう考えるならば、ある人物の「業」は徹頭徹尾、彼自身の自覚の問題なのであり、第三者が彼の「業」についてアレコレ言うこと(「君が今不幸なのは、前世の悪い行いの報いだよ」)は、極めて僭越かつ無礼であるだけでなく、ただの妄想か悪質な冗談にすぎません。言い換えれば、「自己」を「業的実存」として自覚し理解するとき以外に、「業」は存在の余地がありません。

 しかし、第三者に言われたことを、当人が「確かにそうだな」と納得するなら、それは彼の「業」の認識になります。

「業」の自覚と反省は、「自己」の実存を因果関係において理解しない限り不可能です。この場合、その理解は、「自己」が何を目的として構成されていくのかによって、根拠づけられます。

 つまり、ある行為なり事実の解釈の仕方とその意味は、「ニルヴァーナ」を目指している「自己」と「科学的真理」を知ろうとしている「自己」とでは、まったく違うものになります。

 ということは、仏教の「業」理解は、「実存」の自己理解のことであり、その意味では「自業自得」と言えるでしょう。仏教者として将来に何を志し、その志に照らして過去をどう反省し、反省の上に今いかなる決断をするか。この営為において捉えられる実存においてのみ、「業」は語られなければならないのです。

 しかしながら、私の「業」論においては、「自己」に責任のない事柄も「自己」を規定する以上、「業」として認識されます。では、その事柄とはどんなものか。

 まずは自然環境、社会秩序、宗教文化、政治体制など。そして決定的に重要なのは言語。これらのものは、「自己」の実存を根本的に拘束しますが、「自己」責任とは無関係です。そうではなくて、多くの「自己」が共同で制作したものであって、いわば「共同業」です。

 実は、この「共同業」にあたるものとして、古来仏教に「共業(ぐごう)」の概念があります。ただ、これは「器世間」、すなわち自然環境のみを意味します。私はこの概念を拡張して「共同業」を定義しています。

 以上が、私の「業」理解であり、当面はこれでやっていきます。