恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「自己」という分裂

2016年05月10日 | 日記
 初期仏教を示すパーリ経典には、こういう一節があります。

「自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、心の荒みなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい」(『スツタニパータ』岩波文庫)

 この文章を解釈するとき、多くの場合、「自己によって自己を観じて(それを)認めることなく」の一文における前者の「自己」を「本来の自己」「真の自己」と考え、後者の「自己」を、それ自体で存在すると錯視された実体的「自己」、すなわち「自我」と理解しています。

 つまり、「こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、心の荒みなく、疑惑のない」状態において現前する「真の自己」こそが、実体と錯覚された自我的「自己」の虚構を看破する、という趣向でしょう。

 しかし、私はそのように考えません。この一節の核心は、「自己によって自己を観じ」るという事態が不可避的に発生する、われわれの実存の構造にあります。

 これを言い換えれば、誰もが使う「私」という言葉で、他の誰でもない何者か、というよりも、否応なく現前している何事かを指示せざるを得ないという矛盾なのです。さらに言うなら、「私」という単語を意味あるものとして言うことができ、意味あるものとして聞いている、ある存在の仕方です。

 すなわち、「私」という言葉を発する行為と、その言葉で意味されようとする事柄の分裂こそが、「自己」と呼ばれる実存なのだと、私は思うのです。おそらくは、この根源的分裂の発生は言語活動の開始と同時でしょう。

「真の自己」だの「自我」だのは、実存そのものであるこの「分裂」を観念的に解消しようとする作業の結果であり、それ自体が錯覚です。

 問題は、「分裂」の解消ではありません(それは「死」か「ニルヴァーナ」でしかありえない)。そうではなくて、生きている間に我々ができることは、所詮、「分裂」の自覚と取り扱いなのです。