恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「笑い」という無常

2015年05月20日 | 日記
 今を去ること30年前、修行道場に入門した日、一緒に上山した修行僧は56歳。刑務所の刑務官を退職して出家したテンシュウさんでした(住職だった父上が急逝したのです)。

 飢えと寒さに泣きながら厳しい先輩にしごかれている、といったイメージが流布する禅寺ですが、入門当初は実際、ことのほか厳しい。要領の悪かった私たち二人は、連日夜遅くまで絞られたものです。

 そんなある日、やっと寝ることが許されて、禅堂で作法通りに枕を並べて横になったとたん、テンシュウさんが、

「なあ、ジキサイさァん・・・」

 と東北訛りで話し出したのです。沈黙が絶対の禅堂です。先輩に聞かれたらただではすみません。

「ちょっ、ちょっと、テンシュウさん! しーっ!」

「あーっ、あったけぇ風呂にゆっくりつかりてえなァ・・・」(新入り修行僧の入浴は、監視付きカラスの行水)

 テンシュウさんは、最早がまんも限界と言う調子で、溜息交じりの話をやめません。

「あれまあ、さあ、ジキサイさんさァ、ここの修行が終わったら、二人で温泉に行くべえ」

「ちょっと、聞こえちゃいますよ!」

「それにしてもなあ、ここは刑務所よりひでえ・・・」

 これには私もびっくりして、

「えっ、ほんとに?」

「そうだあ、刑務所なら肉も食えるし、昼寝もできるう・・・」

 疲労困憊の上、脚気で足が腫れ上がっていた状態にもかかわらず、私は思わず笑い出してしまいました。

「アハハハハッ、そっかあ、刑務所以下のところなのかここは!」

 私が声を殺して笑っているのをみて、今度はテンシュウさんのしわだらけの深刻顔が破けました。

「そうだあ、あはははは・・・」

 私たちの経験など、しょせん大したことはありませが、ひょっとすると、人間はどんなに悲惨な境遇でも笑うことができるのかもしれません。それは、弱く頼りない人間の内奥に潜む、ある力であり希望かもしれません。

 自分自身の悲惨を、どこか外から見つめる別の視線を人は持ち、その悲惨さえ無常なものだということを、笑いは教えてくれているのでしょう。

 道場では歯を見せるなという戒めがある一方で、禅問答には「呵呵大笑」する修行僧がしばしば登場します。その大笑は、案外、重い何かを代償にしている。私にはそう思えるのです。