恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

話の変え方

2014年06月30日 | インポート

「たとえば坐禅について、君は小難しい理屈を言うかと思うと、頭を冷やすためにするだの、リラックスの方法だのと、妙に簡単な話をする。方便と言えばそうかもしれないが、悪く言えば二枚舌じゃないのか?」

「対機説法という言葉があるのを知っているか?」

「ああ。お坊さんが相手に合わせて、つまり相手の立場や理解力に合わせて教えを説くことだろう」

「ぼくはね、相手に合わせて説くんじゃないの。相手の問題に合わせて言うの」

「どう違うんだ」

「『悟り』とか、『身心脱落』とか言い出す相手なら、小難しい理屈で話せばいいじゃない。だけど『最近煮詰まってて、頭を空っぽにしたい』とか、『職場のストレスがひどくて、何とかしたい』とか言う人に、『悟り』もへったくれもないでしょ。坐禅がそれなりに役に立ちそうだと思ったら、問題の範囲内で紹介すればいいだけさ」

「なんだか不誠実だなあ」

「そう思うのは、君が仏教の『真理』みたいなものがあると思うからでしょ。お坊さんたる者、たとえ言い方を変えてでも、その『真理』がきちんと伝わるように説かないとダメ、みたいに」

「そうだよ」

「ところが、僕は『真理』なんてどうでもいいの。『真理』を説かれて面白くもなく役にも立たず、共感もできないなら、その『真理』がダメなのさ。僕の場合、およそ見たり聞いたり読んだりすることに堪えるのは、面白いか、役に立つか、共感するか、そうでなければ生活上必要なもの。それだけ」

「仏教もそうなのか」

「そのとおり」

「それじゃあ、なんかインチキ臭いぞ。時々、まったく畑違いの分野を生業にしていた人物が突然出家して、道徳とも処世術ともつかぬような話を仏教で粉飾して言い出したりするけど、あれと同じになるんじゃないか?」

「なぜいけないの? そういう話が役に立つ人もいるでしょう。その彼に、すごく偉い老師が弁舌を尽くして『真理』を語っても、通じなかったら無意味でしょ。彼に通じないのは、言い方じゃないよ。彼の抱えてる問題に関係ないからさ」

「でもなあ・・・」

「ただね、『粉飾』話をそうだと見破る方法はあるな」

「どういう?」

「自分の立場を権威づけたり、自分の言いたいことを言うのに仏教を利用しているだけの者は、仏教の最も基本になる教えをリアルに語ることができない。たとえば『空』とか『縁起』とかについて。ほとんどが受け売りか、いつかどこかで聞いたような話だ。『空とは、とらわれない心のことだ』『縁起の教えとは、ご縁を大切に日々感謝して暮らすことだ』なんていう類のもの」

「ではリアルに語るというのは?」

「仏教の言葉が語り手自身の体験に刺さっている。だから、その痛みから発する言葉で、教えをいくらでも具体的に語ることができる」

「わかりやすいということか?」

「違う! わかりやすい仏教などないし、そんなものは要らない。あるべきはリアルな仏教だ」

「では、仏教のリアルとは」

「<私が存在する>、そのことの『苦』に刺さるかどうかだと、僕は思うね」

追記:次回の講座「仏教・私流」は9月30日(火)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。