恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「仏教は科学」ではない

2014年06月20日 | インポート

 あるものがそのようなものであることの根拠、これを「実体」と言うなら、仏教はそれを認めません。その「実体」を「我(アートマン)」と呼ぶとすれば、すべての存在は「非我」だと言うことは、人間はいかにしても「我」を認識できないという意味になり、認識できないならそれを論じることは全く無意味でしょうから、もはやそれは無いも同然、すなわち「無我」ということになるでしょう。

 この「非我」「無我」「空」という考え方は、仏教のごく初期、ゴータマ・ブッダの言葉にも表現されている教説ですが、この教説が陥りやすく、かつ最もわかりやすい解釈は、要素分割主義的なアイデアです。

 すなわち、「車」そのもに「実体」はなく、部品の寄せ集めで「車」になっているように、この世のあらゆる存在は、五蘊(色・受・想・行・識)の寄せ集めに過ぎない、と考えるのです。この考え方は、ゴータマ・ブッダの弟子とされる者もすでに説いています。

 議論をさらに大規模かつ精緻に展開すれば、『倶舎論』の「五位七十五法」になるでしょう。つまり、五蘊をさらに七十五の要素(ダルマ・法)に分割して、その組み合わせで、あらゆる存在を理解したことにするのです。

 この方法は、観測可能な対象を量的単位に分割して、その相互関係を数学的手法で記述して理解しようとする、「近代科学」の手法とよく似ています(したがって、「仏教は(心の)科学である」という類の、安直で何を言いたいのかよくわからない主張にも、「三分の理」程度はあると言えるでしょう)。

 しかし、この考え方においては、言うまでもなく、「ダルマ」は「非我」や「無我」ではあり得ません。これが「実体」でなければそもそも理論にならないからです。

 後に大乗仏教から批判されたのは正にその「実体」視する考え方であり、その意味では、大乗仏教がカウンターで提出した「空」の理解は、ゴータマ・ブッダの教説への回帰と言えるでしょう。

 ここで私が特に重要だと考えるのは、単に「ダルマ」は「実体」でないと主張することではありません。問題はその考え方自体にあります。

 要素分割主義は、分割する思考の「正しさ」を無条件に前提にしています。ですが、この「正しさ」にはいかなる根拠もありません。

 つまり、要素分割主義の肯定は、分割を考える思考に根拠を設定して「実体」視することになり、ここに根本的な錯誤があります。

 思考は言語の機能です。ということは、要素分割主義は、ついには言語機能の全面肯定になり、およそ仏教の考え方に背馳します。

「<われは考えて、ある>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ」

「ことばで表現されるものを(真実であると)考えているだけの人々は、ことばで表現されるものの(領域の)うちに安住し(執着し)ている。かれらは言葉で表現されるものの(の本質)を知らないから、死にとりつかれてしまうのである」

 ゴータマブッダの言葉とされる、これら初期経典の翻訳(中村元訳)が原文に忠実なら、どうみても要素分割主義的理解はダメでしょう。結局、翻訳文のようなアイデアの理論化は、ナーガールジュナの登場を待たなければならなかったのです。