恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

和尚のトラウマ

2013年02月10日 | インポート

 昨今の青少年の様子を見て、またぞろ学校で「道徳教育」を強化したり、はたまた「徳育」なるものを始めようと考える人たちがいるようですが、彼らの気持ちは察しますが、おそらく無駄でしょう。

 なぜなら、道徳は、理解するのではなく、感じるものだからです。学校の授業による「教育」では、所詮は理解までしか及びません。

「命の尊さ」や「親のありがたさ」や「友達の大切さ」を、いくら生徒に「教育」しても、彼らは感想文に「・・・のお話で、命の大切さがよくわかった。これからは一瞬一瞬を無駄にせず生きていこうと思う」などと、おざなりに「わかったこと」を書くだけで、解いた問題の答えを忘れるように、忘れるでしょう。

 学校で「命の尊さ」を教えたければ、教えられる彼らが「尊ばれている」と感じることが先なのです。

 さらに言うと、「道徳教育」を叫んだり、実際に行ったりする人たちが、人並み以上に道徳的であることは、まずほとんどありません。この事実が致命的です。

「数学」の教師は、少なくとも生徒よりかなり能力が高くないと、教えられないし、生徒も彼から学ぼうとしません。

 ところが、「道徳」は、教師の道徳レベルが並か並以下でも、生徒に「教える」ことができるし、そうせよと職業的に迫られているのです(これは無論、教師個人のせいではありません)。

 小学校も低学年なら、さほど疑いも抱かずに教師の言うことを鵜呑みにするでしょうが、思春期ともなれば、このへんの「道徳」事情は、わかりすぎるほどわかるでしょう。

 したがって、およそ学校の「道徳教育」には無理があり、大した効果が期待できないのです。

 さて、あらゆる学校で居心地が悪かった私は、いまや教師や級友のほとんどを忘れています。特に教師は、顔と名前を鮮明に思い出せる人が、一人しかいません。その一人が中学時代の「雲井」(雲居か?)という数学教師です。

 私は、担任でもなかった彼から、「数学」ならぬ「道徳」を、一撃で骨の髄まで叩き込まれました。

 その日の数学の時間、期末テストが返されました。見ると、87点。あとちょっとで、ずいぶん久しぶりの90点。ここで90点をこえると、全体でかなり結構な成績に。いけない欲が出ました。

 私は、5点が配当されている間違った解答の「3」を、こっそり「8」に細工して、雲井先生のところに持って行きました。

「先生、採点違ってるんですけど」

 彼は、別の生徒の質問に答えていたのを止め、私の答案に目を落としました。

「ふーん・・・」

 そう言うと、ふいにニヤッと笑って、くるりと大きな丸をつけ、チラッと流し目で私を見ると、

「これ、前は間違ってたんじゃねぇの?」

 私は、失禁しそうになりました。鉄球のような軽蔑が膀胱を直撃し、間髪入れずに熱湯のような恥辱と自己嫌悪が逆流して、尿と一緒に口から噴出するかと思いました。

 以後、私はルール違反のような、自分が犯した不正を誤魔化すことができなくなりました。けっして「正直者」ではないのです。ですが、ちょっと不正を誤魔化そうと考えると、とたんにあの「ニヤッ」がフラッシュバックして、強烈な尿意が・・・。

 あのとき、雲井先生が私を怒鳴りつけ、ぶん殴っていたら、あるいはクドクドと説教し続けていたら、私はこれほどのトラウマを負わなかったでしょう。

 しかし、少なくとも私にとっては、学校における、あれ以上の「道徳教育」はあり得ませんでした。

 追記:次回「仏教・私流」は2月26日(火)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて行います。