恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

どうでもよいこと

2012年03月30日 | インポート

 自分が誰であるかを決めるのは他者です。その他者が誰であるかを決めるのは別の他者です。ということは、自己であろうが他者であろうが、誰であるかを決めているのは、そこにはいない「誰か」という他者であり続けます(現実にそこに別の他人が居合わせて、「この人は〇〇さんだよ」と私に目の前の相手を紹介しても、同じことです。彼は「〇〇さん」であることを、さらに別の他人から聞いているのだから)。

 この極めてストレスフルな状況に耐えかねて、不在の「誰か」を決着させようとするなら、もはや他者ではなく、自分で自分が誰であるかを決められる存在を持ち出さなければなりません。これがすなわち、「絶対者」、たとえば「神」の定義の一つです。

 ということはつまり、「絶対者」は、私たちの前に現れるとき、「自称絶対者」として現れるほかありません。ところが、「自称芸能人」を信じない我々が、まさか「自称絶対者」を信じるわけがありません。だから、「絶対者」は「絶対に」我々の前には出現しません。出現しない限りでしか、信じる意味がないのです。

 かくして、「絶対に」出現しない者が「存在する」とはどういう意味なのか、考えなければならず、途方もない理屈が必要になります。

 他方、自己の存在は限りなく他者に流れ出ていきます。言い換えれば、「自分がいる」とは「他者ではない」という出来事だけなのであって、それ以上のリアリティは持ちません。その上さらに、上述のごとく、「自分である」ということは、際限ない他者の決定の累積によることなのであって、「自己決定」の余地は微塵もありません。

 そうなると、たとえば「自分らしさ」などということをあれこれ考えるのは、「自称自分」のごとき馬鹿げた迷妄でしかなく(それは他人にとってまったく無意味です)、ましてや「自分らしく死ぬ」など、死ぬときには自意識さえまともに持たないのですから、そんなものは生きているうちのタワ言にすぎません。

 結論。「絶対者」と「自分」について考えることは、結局のところ、どうでもよいことで、考える「対象」としては、くだらないでしょう。考えるに足るのは、「絶対者」や「自分」について考えることの、というよりも、それらをどうしようもなく考えてしまう、そのことの「意味」です。

追記:次回「仏教・私流」は、4月18日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて行います。