恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「分かれ目」はここ

2012年03月20日 | インポート

 最近、某女性タレントの「占い師」との同居をめぐって、久々に「洗脳」とか「カルト」といった言葉がメディアを飛び交いました。

 ただ、おそらく多くの方が気づいておられるとおり、この言葉は注意深く使わなければなりません。つまり、「教育」や「指導」「宣伝」などと、どう違うかが微妙だからです。

 根拠に乏しいことを信じ込まされて疑わずにいたという点では、原発の「安全神話」だって大差ありませんし、そもそも紙切れ一枚と食料を交換できる制度(貨幣経済)など、洗脳の最たるものです。

 私が「洗脳」とか「カルト」という言葉を考える場合、着目するところは2点だけです。すなわち、ある考え方や行動様式を受け入れた場合、

一、それとはまったく逆の考え方や行動様式が、常にそれなりの根拠を持って成立しうるのであり、どちらが正しいかを断定しうる「客観的な」基準など存在しないことを、まるで認めない。

二、その考え方や行動の仕方を受け入れた結果、それまで築いてきた人間関係が急速に失われ、途絶え、貧しくなり、気づいたら周囲に同じ考え方の者しかいなくなっている。

 私に言わせれば、この2点を結果として引き起こすことが「洗脳」であり、それを強いる組織が「カルト」です。教えの内容や組織の仕組み、さらには「信者」の人柄などは関係ありません。

 思うに、いかに珍妙な「教え」や「信仰」を持とうが、この2点が無ければ、「洗脳」でも「カルト」でもありません。逆に、政治・経済・教育、あらゆる社会活動の領域において、この2点が見られる場合には、その活動は麻薬並みに要注意であり、「解毒剤」の準備が必要でしょう。