「某氏が最近出した本に『南さんは輪廻の教えを否定している』と書いてあると聞きましたが、そうなのですか」と、質問されました。当ブログでも何度か書いた問題ですが、あらためて現時点の見解を述べさせていただきます。
輪廻が実際に起こる出来事かどうかは、死んだことのない今の我が身にはわかるはずがありません。私が言いたいのは、「輪廻」というものの考え方はナンセンスで、仮に「輪廻からの解脱」が言語内存在としての人間に起こるとするなら、それは「輪廻という考え方からの解脱」ということ以外にありえない、ということです。
そもそも「輪廻」という概念が意味を持つのは、まず前世・現世・来世がそのものとして実在し、その間に何らかの同一性を一貫して保持するものあって、それが「生まれ変わり死に変わり」するーーー という考え方を核心とする場合のみです。これが、私が議論する場合の「輪廻」の定義です。
つまり、「前世は犬だったが、現世で人間に生まれ変わった」という事態で、この犬と人間の「見かけ」の違いの根底に、「霊魂」のごとき、個別で実体的な存在の同一性を前提しない限り、「輪廻」の言説を語る意味がありません。「輪廻」する当のものは「霊魂」的実体ということになります。そうでなければ、「前世には犬がいて、現世には人間がいた」というだけのことで、ああそうですか、で終わる話でしょう。
しかるに、この同一性は、「客観的事実」それ自体としては、いかにしても証明できません。だいたい、今日の自分と昨日の自分の同一性を証明することさえ不可能なのに(昨日の自分はもういません)、前世と現世の間での証明など、冗談にすぎません。
これに対して、よく持ち出されてくる話は、同一なのは、個々の「霊魂」的実体などではなく、それ自体実在する「大きな命の流れ」や、「根源的な識の流れ」なのだ、というものです。
この話は、よく川と渦巻きのたとえ話で語られます。大きな川のあちこちに渦巻きが出来ている。その個々の渦巻きが、それぞれの人間であり、意識なのだ。
個々の渦巻きは時に消え、また別のところに表れる。しかし、川自体は個々のそれらを超越して、変わることなく流れていく、輪廻とはそういうことなのである。
この言い方はすなわち、輪廻する当の主体は川なのだ、ということでしょう。「あそこに出来た渦巻きと、ここにある渦巻きが、『実は同じ』なのだ」という、その同一性を担保するものが、川というわけです。
となると、今度は、現にいま刻々と「流れている」川の「同一性」とは、「客観的事実」として何なのか? 川の何について「同一」と言っているのか? と問われることになります。
この「何?」については答えないとすれば、言い換えれば 流れているものそれ自体は、脱人称的で、概念的に限定しうるいかなる個別性も持たないというなら、「生まれ変わり死に変わり」のような「変化」の認識は成立しませんから、「輪廻」の定義から外れることになります。
所詮、このたとえ話は馬鹿げています。「生まれ変わり」がなく、ただ流れているだけなら、「流れている」と言えばよいわけで、「輪廻」などという余計な概念が介在する必要がありません。
この類の話をするなら、何を目的に、どういう意味の概念を使い、いかなる方法によって語り、何故その方法を選択したのか、これらを明らかにしない限り、議論としてナンセンスです。
子供に道徳を叩き込むために、「生まれ変わり死に変わり」の「輪廻」話を採用し、善因善果・悪因悪果の道理を使って語る。その理由は、私が「信じている」からーーー そう言われれば、なるほど、あなたはそうなのね、ですむわけです。そして、こういう様式の言い方以外は、「輪廻」を語る言葉遣いとして、間違いになります。それは、「ファンタジー」と「理論」を混同するのと同じことになるでしょう。
ちなみに、「ファンタジー」と「理論」を分けるのは、その言説をめぐる人々の合意手続きの違いにすぎません。所詮ものは言い様ですが、どう言うかの合意の仕方が問題なのです。
ある人問うていわく、「あなた、本当は輪廻の主体を何か考えているんでしょう?」
私答えていわく、「ふふふ・・・鋭いですね。はい、輪廻するものがあるとするなら、それは言語です」
ある人いわく、「それを言っちゃあ、おしまいですね」