恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「栄光なき天才」たち

2011年06月20日 | インポート

 およそ試験が試験であるためには、次の二つの条件が必要です。

①試験問題には事前に決められた一定の答えがあること。

②出題者が受験者ではないこと。

 この二つがそろわないと、試験すること自体が無意味です。

 すると、受験者とは、あらかじめ答えを知っている者が出す問題を、いかに効率よく解くかの技術を競う人間ということになり、これは基本的な構図として、他人の支配や命令に手際よく従う能力を競うのと同じことになるでしょう。

 ということは、試験によって計測するのに最も適しているのは、官僚か官僚的な(あるいは官僚化した)職業の場合です。私が思うに、「秀才」とはそのようなことに長けた「技術者」でしょう。

 これに対して「天才」とは、すでにある「答え」を見つけるような人間ではありません。そうではなく、普遍的で根源的な「問い」を、彼の生きる時代と社会の課す条件の下、自ら取り組むべき「問題」として構成し、結果的に、それまで誰も思いつかなかった方法で、挑み続ける者のことです(「結果的」と言ったのは、必ずしもそうしたかったのではなく、そうせざるをえなかった、ということです)。たとえば「人間とは何か」という「問い」を、その時代の科学的な、あるいは宗教的な、芸術的な視点で「問題」として構成し、それに独自の方法で取り組む場合です。

 このとき、成果の有無は、「天才」に関係ありません。成果があれば「栄光ある天才」でしょうし、なければ「栄光なき天才」なのだと、私は思います。

 では、「凡人」とはどういう人間か。私に言わせれば、「問い」が立ち上がらなかったり、「問題」を回避したがる者のことです。

 すると、私の定義にしたがえば、「天才」は他人に従うことができません。「秀才」は他人を評価することができ、また、できなければなりません(解答するという行為は、問題の質の評価であり、出題者の能力の評価でもあります)。ですが、「凡人」はそもそも他人を発見できません。誰に従っているのか知らないまま、誰かに従うことになります(「長いものに巻かれる」状態)。

 ところが、「凡人」も、突如として、好むと好まざるとにかかわりなく、決定的な「問い」に襲われるときがあります。誰かがすでに答えを知っているわけでもなく、他人が教えてくれる方法があるわけでもなく、否も応もないままに、その「問い」を自らの「問題」として引き受けざるを得ないときがあるのです。

 だとすれば、そのときは、「凡人」は、「問題」に取り組んでいる限りにおいて、「天才」たりえるはずです。「天才」の相貌が宿るはずです。たとえ「栄光」がなかろうとも、私はその彼に深い敬意を禁じ得ません。

 ところで、蛇足ながら申し添えます。「天才」か「秀才」か「凡人」かは、彼の「幸福度」や「善良さ」とは、まったく関係ありません。