恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

伝統と創造

2010年07月10日 | インポート

 ある社会において、独特の思考様式と行動パターンを持つ集団が形成されると、当然、その集団と社会の間に差異ばかりか、矛盾や摩擦さえ生じます。ある集団において「稽古」や「修行」とされるものが、社会の「常識」においては「いじめ」や、場合によっては「狂気の沙汰」のごとく受け取られるようなものです。

 ただし、その差異や矛盾、摩擦が「面白い」とか「意味がある」と認められれば、集団は存続し、単に存続するばかりではなく、発展していく場合があるでしょう。周囲に経済的利害も発生してくるはずです。

 かくして存続し発展し、利益も生むとなると、集団はその思考様式と行動パターンを維持し堅守することになります。さらに時代が変わり社会状況が変わって、矛盾や摩擦がもっと大きくなっても、なお認められ続けるとなれば、まさにその様式やパターンは「伝統」と認知されるでしょう。

 このとき大事なのは、矛盾や摩擦があっても社会が「伝統」を認めるとするなら、それは集団が「認めさせる」力とリアリティを持つからだ、ということです。つまり、その社会において、矛盾や摩擦を凌駕する、圧倒的な存在感と説得力を発揮できるからです。

「伝統」は単に「伝統」であるがゆえに、認められるわけではありません。遺跡のように、そこにあるから有難られるわけではありません。自らのリアリティを問い続ける意志と努力、言い換えれば、「伝統」を再解釈し再創造して、社会に提示する行為自体が、「伝統」なのです。だいたい、遺跡にしてからが、「現代社会」おいて学問的に解釈されてはじめて、価値を生じるわけでしょう。

 したがって、「外部の有識者」をただ集団に入れてみても、あるいは「閉鎖された」集団をただ開いても、「伝統」は活性化したり復活したりしません。「外部の有識者」を消化する覚悟と力、開いたところから流れ込むものを吸収する意志と度量が、残っているのかいないのか、出てくるのかこないのかが、問題なのです。

「賭博問題」に揺れ、「葬式はいらない」と言われてビックリしている、昨今の大相撲と「伝統」仏教教団の有様を見ていると、このことがわかっている「指導者」が、あまりにも、あまりにも少ないと思えてなりません。