かつて何度か発言したように、私はいわゆる「霊魂」の「実在」については、肯定も否定もしないという、釈尊直伝の「無記」の立場をとっています。
したがって、ある人物が「霊言」(イタコさんの「口寄せ」もその一種です)といわれる特殊な行為を通じて、すでに死んでいる人間の発言を仲介したとしても、その「真偽」それ自体は判断できないと思いますし、しません。
以前、歴史的大宗教者にかんして噴飯ものの「霊言」を読んだことがありますが、いかに噴飯ものであろうと、「真偽」については判断不能です。実際に「霊言」を発した本人が「だってその時はホントにそう言ったんだもん!」と言うなら、これを真に受ける必要はないにしろ、嘘だと断定する根拠もありません。検証の手段がないからです。したがって、「霊魂」の「実在」同様、「霊言」の「真偽」についても、「無記」を通すしかないわけです。
ですが、たとえそうであっても、つまり、「真偽」はともかくとしても、「霊言」による政治的問題・経済的問題・社会的問題についての発言は避けるべきだと、私は考えます。そう考える理由はただひとつ、発言の責任を誰にも帰することができないからです。これは、民主制あるいは共和制による政治体制を基本とする社会においては、致命的な欠陥でしょう。
たとえば、すでに死んでいる「坂本竜馬」が、ある人物を介して「霊言」として、現代の政治・経済・社会問題に関して意見を述べた場合、その発言責任を、まさか死んでしまって今いない人間にとらせるわけにはいきません。では「霊言」を実際に発した人物の責任とするか? できないに決まっています。それはあくまで「坂本竜馬」の発言のはずで、「霊言」者はただの伝言人に過ぎないからです。この種の「無責任発言」は、メンバーの議論によって共同体の意志を決定するシステムの場合、どうみてもまずいでしょう。
共同体内部の諸問題について、まったく無責任に発言できるのは「神」か、「神的存在」とみなされた人間だけであり、その意志によって共同体を統治運営するなら、それは祭政一致体制を意味します。私はこの体制を支持しません。
はばかりながら、私は、多くの欠陥があるにしろ、相対的に、代議制(議会制)民主主義に基づく政治制度がよいだろうと考えています。それは統治者と被統治者が互いに相対化しあい、ということは、互いを「他者」としながら、自らの存立の根拠にしているからです。つまりこれは、「絶対の中心」「絶対的権力」が比較的成立しにくい政治システムだということです(当時最も民主的とされたワイマール体制からナチスが生まれたという教訓を肝に銘じた上で)。ということは、「諸行無常」の政治システムとしては、少なくとも今のところ、一番ふさわしいと思えるわけです。
「絶対に正しい統治」を理想としては認めつつ、それに一歩でも近づくべく、「よりましな統治」を現実の目標として、欠陥だらけのシステムを辛抱強く、手間をかけながらメンバーの努力で改良していく。この過程こそが民主主義の本領であり、もしそうなら、それは「修行」という行為と共通する構えを持つ営みと言えるでしょう。
ちなみに、釈尊存命時代の初期教団は共和制的体制で運営されていたようです。どうしてそうだったのか、歴史的事情は定かではありませんが、私はさもありなんと考える次第です。
追記:過日の紀伊国屋ホールでの講演に大勢の方にご来場賜り、まことにありがとうございました。深く感謝申し上げます。