久々に禅問答をひとつ。
ある雨の日、老師が修行僧に問いました。
「門の外の音は、何だ?」
「雨だれの音です」
すると老師は言いました。
「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」
「では、老師、あれは何の音ですか?」
「おっと、もう少しで自分に迷うところだった」
修行僧はさらに問います。
「もう少しで自分に迷うところだったというのは、どういうことです?」
老師はおもむろに答えます。
「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」
さて、この問答、例によって解釈は様々でしょうが、私はこう考えます。
一般に「あれは何だ?」という問い方と、それに対する「あれは〇〇です」という答え方は、「あれ」と指示される「対象」がそれ自体で存在していて、それを眼や耳などを通じて感受した自分が、「精神」を正しく使用して、対象の「それ自体」性を担保する「本質」を見抜き、何であるか判断する・・・・・という枠組みを前提しているでしょう。つまり、対象と精神はそれ自体で存在する実体として対峙している、というわけです。
「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」とはこのことで、自分の判断を根拠付ける精神的実体(これは往々にして「真の自己」と考えられるものです)があると錯覚して、それとは切り離された「対象」が、またそれ自体で存在すると誤解するのだ、と言っているのです。
このとき、「さかさまに考える」という老師の言葉で私が思うのは、たとえば「私はしとしとと雨が降っている音を聞いた」と言われる事態は、実際の言語化の経過が言葉と逆だろうということです。
つまり、先ず最初に「しとしと」と形容される事態が発生して、それを「降っている」こととして把握する機序が発動し、その把握を「聞いた」という言葉で対象化して、対象全体を「雨の音」と概念化することにより、当の概念化する主体の現成が自覚されて、「私は」という主語が立つ・・・・、実際の経過がこれほど単純で図式的であるはずもありませんが、言語の秩序と言語化の流れが、ベクトルとして食い違っていることは、間違いないでしょう。そして、この言語化の過程で、「対象」と「精神」が仮設されるわけです。あらかじめ「私」と「雨の音」それ自体が存在するのではない、ということです。
さて、続く問答では、答えを否定された修行僧が、当然ながら、老師は何だと答えるのか、質問します。ここで老師が、「いや、お前が迷って雨だれの音などと言っているものの正体は、空で無我で縁起なのだ」などと即答するなら、「あれは〇〇だ」という〇〇の部分に当てはめている以上は、その時点で、「空」も「無我」も「雨だれの音」と変わりません。つまり、「精神」の判断する「概念」にすぎず、先述の枠組みは維持されたままです。
逆に、老師が何も答えず沈黙し、その沈黙を後世の者がしたり顔で、「そこには言葉にならない真理が現れている」などと解説するとすれば、老師に聞こえたものが本当に「真理の音」か、あるいはただの気の迷いや妄想だったのか、他のだれも判断できないのですから、解説そのものが妄想です。それどころか、「言葉にならない真理」がそれ自体で立ち上がり、「根源的実体」として凝固してしまいかねません。
そこで老師は、「もう少しで自分に迷うところだった」と言うわけです。何か言っても言わなくても、今ここで起きている事態を捉えきれないのです。だから、「言おうとはしているのだが、言い切れない」というところで、自制するわけです。それが「もう少しで」ということなのです。
したがって、真意を問われた老師のお終いの言葉があるのです。
「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」とは、「さとりの世界」、すなわち「対象」と「精神」の二元対峙の枠組みを外した、「空」とか「縁起」と呼ばれる事態は、それを体験することは可能だし、そのテクニックも伝わっているが、いかんせん事態そのものは完全に言語化しがたいし、さりとて沈黙に逃げることもできない、という意味なのです。
「言語化できない」と言い切ってしまえば、それがそのまま「言語を超えた真理」に転化しかねない。だから、たとえその事態をそのまま言語化できないとしても、その言語化に挑み続け、常に宿命的に失敗し続け、それでもなお言葉を更新し続けるしかない。その無限の行為において、「空」「無我」と呼ばれている事態を指示し続けるしかない。これが老師の言いたいことなのです。
仏教の思想的問題の核心が言語であると、私が考えるゆえんです。