恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

弔い問答 その3

2010年03月10日 | インポート

『月刊石材』掲載のインタビュー記事、3回目。聞き手は青森市・やまと石材社長の石井靖氏です。

□気持ちを掬いとれるかどうか

石井靖社長(以下、石井) 石材業界でも「業界の生き残り」といった話になりますが、先ほどのお話で、「世間一般から必要とされない業界だったら、そもそも本当は必要ないんじゃないか」と。私もそう思うんです。

南直哉(以下、南) 私は何度も言ったことあるんですが、「仏教は永遠だが、教団はそうじゃないから」といった話をすると、若い人たちはみんな不安な顔して聞いていますよ。

石井 お寺様でもそんなこと言う。

南 永平寺での生活が長かったですから、最後は講師みたいなこともやっていました。「道元禅師が教えた仏教は永遠だけれど、曹洞教団は違いますよ」と。私はそう思います。

 寺の住職になるために僧侶になる、というのはダメなんです。僧侶というのは、ライフスタイルですからね。僧侶という生き方を選んだら、縁があったから住職になりました、というのが本当でしょう。

 だから教団も寺も滅びたって、いっこうに仏教にとっては何の問題もない。お坊さんがいて信者が集まったら、その場所が寺です。仏教は滅びっこないです。なぜなら普遍的な問題を扱っているから。

 教団と寺とは違うんです。社会的条件が変わってリアリティを失えば、その教団は滅びていくんです。奈良時代の寺が未だに続いているんですから、そう簡単になくなることはないですが、何割かの寺がなくなることは間違いないですよね。次の時代にリアルに生き残れる僧侶と、その寺と教団が続いていくだけで、今の業界なり今の教団を、そのまま維持していかなければいけないといったことは、毛ほども考えることはないです。

石井 そうなんですね。バブル時代にガーッとなった時、お墓の業界だって大型霊園を造って、お寺さんに経営主体になっていただいて、実は石屋さんが販売するという方法なんですけど、それだって今よりは「家族として」とか、檀家制度の上にのっかった販売でしかなかった、という感じでした。

 では、マンション形態の『クレヨンしんちゃん』の先にある家族に、仏壇をどう押し込むかという話でいくと、従来の仏壇が何となく部屋の雰囲気、インテリアにあわないという話があって、一方で、フローリングの部屋にも合う仏壇などもあるんですが、南先生はその辺をどう思われますか?

 どうでもいいんです。

石井 ああ、やっぱり。

 というのは、これから先、仏壇を置くとすれば、仏教が必要な人、あるいは仏法が必要な人だけです。「先祖の家」として置くかどうかわからないですよね。「先祖の家」として置く人は、仏壇がなくても何かを置くでしょう。

 ある若い女の人から私のところに電話がかかってきて、「大好きだったおじいちゃんが亡くなった。おじいちゃんのお骨をちょっとだけわけてもらって持ってきたけど、私は今学生で東京のアパートにいる。どうしたらいいですか」と言うんです。その時に、「今すぐ仏壇屋に行って仏壇を買ってきましょう」といったことは、馬鹿げていますわね。下宿に大きな仏壇を置いたら馬鹿でしょう。しかしその子は遺骨の入ったもの、ビンか何かを持っている。何とかしたいわけです。「どうすればいいんだろう」と言うわけですから。そうなれば、それにふさわしいことを言ってあげれば、そこでおじいちゃんを祀っているんですから、いわゆるどんな形態であれ仏壇です。仏壇でなくても、少なくとも霊壇でしょう。つまり、この人の気持ちを掬いとれるかどうか、が問題です。

石井 買う買わない、の問題じゃないですね。

南 そうです。業界の立場でいえば「新しいマンションに、どうやって仏壇を置いてもらいましょうか」という話になる。その発想ではいつまで経っても事は進まんのですよ。

 問題は、単身者や夫婦だけの人が、「死者を供養したい」とか「祀りたい」と思った時に、その気持ちを汲み取ってあげられるようなものをサービスする事が大事で、ただ仏壇を持ち込むのがいい、という話ではないと思うんです。そういった人がたくさんいるとするならば、その人たちをネットワーク化して何かをするなど、いくらでも考えようはあると思います。消費者優先というのはそういうことです。

 仏壇が押し込めるか押し込めないか、これは我々にとっても大きな問題ですけれども、個人の心情に寄り添った教えを提供出来るか出来ないか、が今後の仏教を決めるんです。同じように個人の感情に寄り添ったサービスを提供できるかどうか、が業界を分けるんです。

石井 そうですね。

 もっと言えば、パーソナル仏壇を提供できるかどうかです。

□お墓を建ててもらえるかどうか、という「問い」を、どう「問題」として構成するか?

石井 これもお聞きしたかったんですけど、今の核家族化の先にあるものの危機感は皆ありまして、例えば、三段重ねのお墓にとらわれることのない、もっとお客さんがお参りしたくなるお墓の形でいいんじゃないかと思いまして、従来型ではないお墓を私のところもたくさん建てました。ところが今になって三段以外のお墓が増えて、霊園がおもちゃ箱をひっくり返したようだというようなこともあるし、私自身も見ていて「本当に日本人の心が安らぐか」という疑問も出始めているんですが、その辺はどうお考えですか?

 ほうっておけば、収束するところに収束すると思いますよ。

石井 行き過ぎ、流行みたいなものもあるけど。

 ものすごく申し訳ないですが、本音を言えば、それは仏教にとってはどうでもいいことなんです。

石井 はい、それをお聞きしたかったですね。

 申し訳ないですが、お墓がどんな形であろうと、少なくとも私が理解する仏教にとってはどうでもいいことなんです。霊園風景の統一感というのは、霊園の問題です。

石井 仏教の問題ではないですよね。

 仏教の問題ではない。ですから「この霊園には豚がいるし、こっちには犬がいるし、あっちにはオートバイがあるけどまずくない?」というのであれば、「こちらの霊園では墓石は統一させていただきます」って言えばいいだけなんです。

 「この墓で、この霊園はけしからん」という必要は、我々には全くないです。「こんな所でお経を読みたくない」という人がいるなら、別の坊さん、私みたいな者を呼ぶ。「どちらでもやらせていただきます」というのを呼んでくればいいだけの話です。

石井 なるほど、私もそう思うんです。南先生がおっしゃるように、根底にあるものを考えずに、形がどうか、和がいいとか洋がいい、国産がいい、中国がダメだとか言っているうちに、そのうち誰もお墓を建てなくなる。「その方が怖い」というのが私の危機感なんです。

 試行錯誤というのはとても大事で、問題を解決する場合に、答えが最初からわかってやるような人はそうはいないんです。それよりも一番大事なのは、問題が構成できるかどうか。「問題は何なのか」がわかるかどうか、が先なんですよ。

石井 ご著書の中にもありましたが、「問い」を「問題」にしてあげるということですね。

 そうそう。そちらの業界で言ったらまさに「これからお墓は建ててもらえるかどうか」という「問い」を、どう「問題」として構成するかの方が先なんです。「正しいお墓は何か」なんてことは、考えることじゃないんです。それは後からくる話だと思いますけどね。

 私は出家して今年で二十五年なんですけれども、非常に腑に落ちないのは、坊さんがしゃべっていることを聞いていると、最終的には仏教の何と関係があるのかわからない時があるんです。「それのどこが仏教なんですか?」ということが全然わからない場合があるんです。「そもそも仏教の問題なんですか?」と。

 その話が確かなことであったとしても、「あなたがなぜそれを考えるのかがわからない」と言って、よく聞いてみると「師匠がそう言った」「えらい人がそう言った」みたいな話なんです。「で、あなたは?」って言うと何もない。

 だいたい日本でどうやって死者を葬るかは、仏陀には関係ない、お経に書いてあるわけがないでしょう。永平寺の高僧が「本来、本来これは」と言う。黙って聞いていましたが、耐え切れなくなって「ではその本来は、どこが本来なんですか?」と言ったらえらく怒られました。「こういうことは、やっぱり年上の人間にはそう簡単に聞いちゃいけないんだな」と思ったことがありましたが、この人たちは、一体どこを根拠なり出所にしてものを言っているのかなと。仏陀はお墓にしても「自分の葬り方は在家に任せろ」と言ったぐらいですからね。まさか日本のお墓まで気にしているわけがない。

石井 「こんな形にしなさい」みたいなことは。

 そう、「こうしなきゃいけない」とかね。だからそういうことを聞いていると、それはそれで何を言っているのかなと思いますよ。

 講演会などで話をすると「大変面白いお話でしたが、仏様の話はしなくていいんですか」と言われてビックリしたことがあります。私は最後の最後まで仏教の話をしていたつもりなのに「落研(落語研究会)のご出身ですか?」「お話は大変結構ですけれど、仏教の話は最初から最後までなかったですね」などと言われて、すごく驚きます。

 私に言わせると最初から最後まで仏教のことを話しているつもりが、一言も仏教に聞こえないときがあるんですよ。わかるでしょう、言っていること。私はどんな話をしても、話の最終的な出所には仏教の教義があるんです。少なくともあるつもりでしゃべっている。そういう人間からすると、あんまり安直に「本来仏教は」と言われると、疑ってしまうんです。だから「本来、仏教のお墓は」とか言うと、「ストゥーパを建てる」といった話か、ということですよね。

石井 本当ですね。