恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

対人困難

2009年06月24日 | インポート

 テレビに出るというのは怖いことで、先日、東京でタクシーに乗ったら、いきなり「南さんですね」と呼びかけられ、仰天しました。NHKで話をしたときの番組を見たんだそうです。実にテレビの影響力というか、告知力というか、それは活字の比ではないなと痛感しました。

 本物の有名人なら、マスコミで顔を知られるなど、まったく当たり前のことで気にするほうが変でしょうが、きわめて中途半端に世間に顔が出た人間としては、なんだかゾッとするような体験でした。

 さて、そのせいか、最近、私の顔を見る前提で、恐山までお越しくださる方が、目立つようになってきました。そこで問題なのは、私の不在です。すでに前回の記事で追記したとおり、私は福井県内の住職寺とかけもちの恐山院代(住職代理)で、毎月かならず1度は不在の時があります。

 したがって、面談を希望の方も、法話を聞きたいと思われる方も、事前に私の在・不在をご確認いただかないと、申し訳ないことになりかねません。つい最近も、そのような遠方からの参拝・宿泊の方がおられ、ご迷惑をおかけしてしまいました。どうか、院代に御用の方は、是非、事前に電話によるお問い合わせをお願いいたします。

 もう一つ、近頃むずかしいなぁ、と考えていること。それは思うところあって私に会いに来てくださる方の中に、なんとなく、私から「無条件的・全人格的肯定」(言葉をむずかしくしてすみません)を得ようとしている感じの人がいることです。つまり、露骨にいうと、本来「親」とか「恋人」からしか得られない類いのもの、それもひょっとすると期間限定、賞味期限つきでしか得られない人間関係を、私に望んでいるのではないかと思わざるをえない方がいるわけです。

 そのことをハッキリ言葉や態度に出すわけではありません。そうではないのですが、話しが深いところまで進むと、「全人格的肯定」への強い欲求が見え隠れすることがあるのです。また、冷静に考えても、彼らの抱えている問題の核心が、まさにその欠如にあるとしか考えられない場合があるのです。

 しかし、これは、宗教者としての私の手にあまると言わざるを得ません。宗教家は、「師」あるいは「友」として、他者と関係するものです。「師弟」なら「教え」の共有が前提でしょうし、同じ道を行く「友」なら、互いの「人格的自立」において成り立つ関係でしょう。「無条件的・全人格的」は無理でしょうし、おそらく本人にとっても、宗教者にとっても、宗教にとっても、それは幻想であり有害なはずです。少なくとも、仏教においては、そうでしょう。

 このことは、おそらく精神科医やカウンセラーのような職業の方にも共通する問題だろうと思います。

 というわけで、私は常に、「親」とも「恋人」とも、そして時と場合によっては「神」(なぜなら、世の中には、自分を神か、神と等しい者だと名乗る御仁がいるからです)とも別の形で、「無条件的・全人格的肯定」を代替する方法、ということは、それを失ったとしても生きていけるテクニックがないものかと、ある意味で傲慢な、同時に見果てぬ夢のようなことを、自分にも必要なものとして、考え続けているのです。

追記:次回「仏教・私流」は、7・8月を休講し、9月10日(木)午後6時半から、東京赤坂・豊川稲荷別院で行います。