恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「情けない」話

2007年05月31日 | インポート

 今回は恐山の円空仏を紹介しようと思ったのですが、写真が間に合わず、次回に致します。あしからず。

 先日、「仏教・私流」の講義の後、質問の時間に、長く講義をお聴きいただいている方から、「あなたの話は仏教の思想に集中していているが、神聖さとか敬虔さとかの感性的側面や、宗教の持つ論理を超えた次元については、どう思うのか」という主旨のお尋ねがありました。

 私は修行僧時代にある老師から、「君は論は立つが情が薄いねえ・・・」と嘆かれたことがあります。やはりそうなのかなあ。自分では必ずしもそうではないと思っているのですが。

 言わせていただくなら、今の私は、「感性的側面」を無視しているのでも、無意味だと思っているのでもなく、当面自分の切実な問題として議論する対象にはならない、と考えているのです。つまり、「私流」のテーマにはできない、ということですね。

 また、「論理を超えた次元」については、本当に論理を超えているなら、それを語ること自体が無意味でしょうから、まして講義なんぞできません。巷で堂々と「論理を超えた次元」を語っている御仁は、そういう「錯覚」を語っているのでしょう。少なくとも、「錯覚」と「次元」を区別するいかなる根拠もありません。

 以前、ある修行道場で、老師が弟子たちに禅の教えを語っていたときに、いきなり平手でバーンと机を叩き、驚く弟子たちを前にニヤリと笑って、「わかったか。これが真実だ」と言ったのだそうです。

 これは、いかにも無知な若僧を脅かすには十分なやり口ですが、この話を聞いたとき、私は正直、下らないなと思いました。

 この「バーン」が効くのは、修行道場という場所で、師と弟子という立場の人間が、禅の話を説いている・聞いているという状況を了解しているとき、つまり一定の意味的空間、論理的文脈のある空間を共有している場合のみです。もしこれを道端でいきなりやったら、ただの「騒音」であり、「これが真実だ」は寝言かたわ言にしか聞こえないでしょう。

「論理を超えた次元」は、論理を論理で裏切り、破綻させることの繰り返しで示唆できるにすぎません。つまり、論理との関係においてしか、この「次元」は語ることができないのです。もし本当に論理を超えたなら、それは沈黙になります。その意味で、坐禅は仏教の方法論的沈黙だと、私は思います。

 最後にお知らせ。6月の「仏教・私流」は16日午後6時半より、豊川稲荷赤坂別院にて。どうぞよろしく。