草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

テロや侵略に対して日本国民は結束すべきだ!

2015年01月21日 | 安全保障

いかなることがあっても、日本は侵略やテロに屈してはならない。いざとなれば一億が火の玉となって国を護るのである。白虎隊から特攻隊まで、世界のどこにも負けない覚悟があるのが、日本民族なのである。小馬鹿にすれば、当然のごとくしっぺ返しを受けるのである。それを知らずに、テロの標的にしたり、侵略をすれば、死を恐れない民族の魂が呼び覚まされるのである。許せないのは日本人がテロの標的になったり、日本が侵略されるのを喜んでいる日本人がいることだ。まさしく売国奴そのものである。自らの安全を他国に委ねるのは亡国の極みである。安倍首相がアメリカなどと一緒に、イスラム過激派「ISIS」の包囲網に加わったのは、国際的な責務からして当然であり、それをもって批判の材料にするのは間違いだ。日本だけが第三者の立場にとどまっていられるほど、世界は甘くはないのである。日本は国家として、テロや戦争に備えなければならない。憲法九条のお題目を唱えているだけでは、国民の命を守ることなどできないのである。安倍首相はことの重大性に鑑みて、大変な政治決断を強いられる。しかし、日本国民は安倍首相を支持し、この難局を切り抜けなければならない。間違っても足を引っ張ってはならない。今回はまず小手先であり、これからはなお一層深刻な事態が予想される。日本人は国家として身構え、結束すべきなのである。

 

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国際法の違反はナチスのホロコーストと原爆投下だ!

2015年01月20日 | 国際問題

日本がアメリカを始めとする連合国と戦ったのは事実だが、あくまでも国際法に乗っ取ってのものであり、それだけで悪の国家と決めつけられるのは、一方的なプロパガンダである。敗者を裁くにあたって、善悪の定義を持ち出すのは、勝者の奢りでしかない。その一方では、人道的な観点からの戦争犯罪は問題にされなくてはならない。ナチスによるユダヤ人虐殺やアメリカによる原爆投下などである。それは勝ち負けとは別であり、戦後70年を迎えて、真摯に反省すべき戦争犯罪である。とくにアメリカは広島や長崎で21万人もの日本人を抹殺したのである。その大半が罪もない民間人であった。昨日、安倍首相はイスラエルにあるホロコースト記念館を訪れて、死者の冥福を祈った。いかに日本が日独伊軍事同盟結んだとしても、ナチスによるユダヤ人虐殺には手を貸さなかった。それは人道的に容認できなかったからだ。もちろん、戦争において日本が何もしなかったと弁護するつもりはない。日清、日露戦争までと違って、大陸での戦いが泥沼化するなかでは、士気の乱れがあったことは否定できない。それでもホロコーストや原爆投下のようなことはしなかった。戦争そのものが悪なのであって、そこに善悪を持ち込むのは勝者の論理なのである。中共や韓国の言うことを黙って聞くのではなく、時には歴史の真実を日本は世界に語るべきであり、多くの日本人が安倍首相にそれを期待しているのである。

 

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岡田民主党は経済安保政策で安倍内閣に建設的な提案を!

2015年01月19日 | 政局

岡田克也という政治家は、金持ちのボンボンで恵まれ過ぎている。頭はそれなりにいいようだが、国家国民のこととなるとまったく心もとない。まず一番にやるべきは、アベノミクスの良いところを評価し、マイナス面を指摘することだ。雇用を拡大し景気を回復させるには、金融緩和と財政出動が車の両輪である。しかし、成長戦略となると、グローバリズムの餌食になりかねない。労働組合もそこでは抵抗勢力の一翼を担うべきだし、維新の党のように、新自由主義のお先棒を担ぐべきではない。安倍首相に期待した瑞穂の国の資本主義を、自民党と民主党が競い合うのである。さらに、安全保障政策では、自民党と合意を形成すべきだ。集団的自衛権の行使の容認は、内心では賛成であっても、口にできない雰囲気が民主党にある。特定アジアの影響力が強いからだ。その勢力を排除しなければ政権復帰は難しい。今やるべきはアベノミクスへの歩み寄りと、安全保障政策での大転換である。反自民であればどことでも組むのではなく、政策をリードするのが筋である。岡田代表にそれだけの能力があるとは思えないが、民主党にもまともな政治家かはいる。そうした人材を埋もれさせてしまう前に、新たな脱皮が求められているのだ。安倍首相をこき下ろすのではなく、建設的な提案をする政党として、民主党が生まれ変われるかどうなのである。

 

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格差社会から脱却するにはまずは教育の整備だ!

2015年01月19日 | 経済

オバマ大統領が20日、一般教書演説で裕福層への課税強化を議会に提案する。新自由主義のお膝元のアメリカで経済政策の見直しが進んでいるのだ。今のアメリカでは上位10パーセントの金持ちに年間所得の半分が集中しており、それだけ格差社会が深刻になっている。アメリカという国家は、アメリカンドリームを実現できるのが魅力であった。金持ちと貧しい階層が固定化されるようでは、アメリカはかつてのようなエネルギーを失ってしまう。そこにオバマ大統領は危機感を抱いたのだろう。競争は資本主義の活力をうむとしても、ハンディなき競争でなくてはならない。その点では小さな政府を主張する共和党とも一致点が見出だせる。しかし、オバマ大統領がそれをやるのであれば、国際的な経済政策も転換すべきだろう。グローバル化は同時に、アメリカの裕福層による世界支配でもあるからだ。その両面を是正すべきなのである。今後の世界経済を活性化するためには、各国で共通した経済政策が求められる。企業への課税はほぼ横並びでなければならない。さらに、金融による資産の形成は情報の差が大きく影響する。情報の非対称性が所得格差になるわけで、その面でも教育の整備が急務である。新自由主義が敗北するのは予想されたことで、まったく驚くにはあたらない。これから何をすべきかなのである。裕福層を締め上げるのもいいだろうが、それ以上に教育への投資が必要なのである。

 

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非常時に求められるのはカール・シュミットの「決断主義」だ!

2015年01月18日 | 思想家

危機の時代にあっては、決断が求められる。優柔不断ではいられないからだ。そこで注目されるのがカール・シュミットである。ナチスに協力したシュミットが今なお色あせていないのである。左右から見直しの動きが出ている。シュミットが日本でも再評価され始めたのは、次々と著作が翻訳出版された昭和44年あたりからだ。その当時、多田真鋤は『政治・文化・歴史 保守主義の世界観』において「現代日本においても政治的決断があまりにも不足している。国民の意思を尊重するのが民主政治であることに間違いはないが、国民に迎合することもまた民主政治ではない。政治的決断、変革期に対する認識、指導力を欠如した政治に対しては、シュミットの政治理論は一服の清涼剤の役割をはたすのである。ワイマールの悲劇は決して過去完了ではないのである」と書いた。それからまた歳月が経過した。現在まで政治改革の大合唱はあったが、戦後体制のぬるま湯に浸かったままである。逆に市場原理主義なるものに迎合し、日本の国柄はメチャクチャにされてしまった。このまま日本が滅びるのか、それとも再生するかは、政治的決断にかかっている。リアリティを欠如した憲法論争に終始し、迫りくる侵略に対処できないのでは大問題である。シュミットの「決断主義」は近代民主主義の根幹を問うことである。もはやそれを避けては通れないのであり、国家として身構えるというのは、非常時における決められる政治である。そこで登場するのがシュミットなのである。

 

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アベノミクスをまともに論じられない経済学者を嗤う!

2015年01月17日 | 思想家

経済学者の言っていることがどこまで信用できるか。経済学という学問が本当にあるのかどうか。アベノミクスを肯定するか批判するかにしても、そこまでの議論が行われていない気がする。西山千明の『近代経済学の哲学的基礎』を読んで、あくまでも学問である限り、絶対はないことを確認した。西山もまたカール・R・ポッパーの「科学は通常理解されているように『既知』によって『未知』を解明するものではなく、『未知』によって『既知』を解明しているものだという、一見パラドシカルにおもわれる重要な事実に気づくのである」という立場である。西山が与しないのは、一つの仮説によって説明しようとする愚である。それ自体思い込みである場合が多く、それを普遍化すれば、まさしく宗教である。そうではなくて、西山が指摘するように「例外なく各理性が具有する限界を知ることによってもたらされた『研究の自由競合』」が重視されるべきで、経済学においても問われるのは、人間としての謙虚さである。西山はそれを分かりやすく解説している。「批判的合理主義は、科学のすべての分野における現象の一般的概念化の不可避性を主張するとともに、こうして科学諸理論が一般的概念化の過程を経ることによって必然的に内蔵することになる限界の存在を強調するのである」。今の日本の経済学者は科学的立場から、どうして「『未知』によって『既知』を解明」できないのだろう。アベノミクスがどんどん先を行っているのに。

 

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「ヘイトスピーチ」の規制は言論と表現の自由を縛るだけだ!

2015年01月16日 | 祖国日本を救う運動

ヘイトスピーチを規制する動きが高まっている。日本語では憎悪表現とも訳されるが、言論の自由との兼ね合いもあって、ゴリ押しすべきではないだろう。日本国民のなかに特定の民族への反感が高まっているのは、それなりの理由がある。日本人を不当に貶める言動を、中共や韓国が行っているからだ。これに対して日本の政治はあまりにも無力であった。そこへの反省がなくて一方的に言葉狩をすれば、中韓を付け上がらせるだけだ。さらに、戦後の日本では在日と呼ばれた人たちが、サヨクと組んで少数派の自分たちの権利を主張し、やりたい放題のことをしてきた。それへ抗議するために、行動する保守が立ち上がったのである。日本人にとっては、民族という概念は、肌の色や人種とは無縁である。ユーラシア大陸の東方に位置する島国日本は、海に守られてきたとはいえ、純粋ではあり得ない。いくつもの民族の血が混ざっている。それでも一つの民族として歩んで来れたのは、天皇を中心とする万世一系の国柄であったからだ。無理にそれは強制されたものではなく、自然と形づくられたのである。それを敵視するのであれば、日本人との共存は難しいのである。あくまでも現在の法律で対処すればいいのであって、新たな法律をつくれば、言論や表現の自由を縛ることになる。損をするのは日本国民であり、拙速はよい結果をもたらさないのである。

 

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西洋かぶれの直訳革命家でなかった北一輝!

2015年01月15日 | 思想家

日本はどこに向かうのだろうか。荒れ狂う暴力の海に漂って難破し、沈没して海の藻屑と化すのだろうか。明治43年に石川啄木は「時代閉塞の現状」について書いた。「かくていまやわれわれ青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその敵の存在を意識しなければならぬ時期に到達したのである」と主張したのである。それは幸徳秋水らを処刑した大逆事件を念頭に置いたといわれる。日露戦争の後で日本は国家目標を見失い、それによって動揺した啄木らは、幸徳らに同情の念を抱いたのだろう。しかし、啄木を幸徳の一派と考えるのはあまりにも早計過ぎる。超国家主義者北一輝と相通じるものがあるような気がする。北もまた幸徳と交際があった。大杉栄のところには弟の玲吉をフランス語の勉強に通わせている。それでも幸徳らと一線を画したのは、西洋の直訳である革命思想は肌が合わなかったからだ。日本の土俗的民衆にこだわうとした啄木とそこは共通性がある。それは同時に国際的に孤立を強いられつつあった日本を強固な国家につくりかえ、国家間の戦いに勝利することでもあった。観念的な国際主義は北にとって無縁であった。「階級闘争ニヨル社会進化ハアエテコレヲ否マズ。シカモ人類歴史アリテ以来ノ民族競争国家競争ニ眼ヲ蔽イテ何ノイワユル科学的ゾ」(『国体論及び純正社会主義』)と言い切った北の弁は、平成の世にあっても色あせていない。法華経の「大地震裂して地涌の菩薩出現することを云う」とは「地下層に埋るる救主の群」であり、北は危機の到来を前にして対外的にも剣の必要性を訴えた。啄木、北も過去の人ではないのである。

 

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今こそ憲法を改正し日本の国柄を明確にすべきだ!

2015年01月14日 | 思想家

日本の政治が目指すべきは憲法の改正である。それを実現しなければ、日本は破滅に向かうだろう。あろうことか現在の憲法を擁護する勢力は、アメリカを味方につけようとしている。日本に占領憲法を押し付けた張本人がアメリカであり、そこに働きかけることで、戦後の既得権益者としての、自らの立場を守ろうとしているのだ。まさしく国を売る行為である。しかし、アメリカとて反省をしていないわけではない。ここは堂々と正論を主張すべきなのである。日本の国柄に合致しない憲法が日本を損ってきた。小森義峯が『正統憲法復元改正への道標』書いている通りで、「神仏を尊び、祖先を敬い、天地万物の恩恵に感謝し、日本の歴史・伝統・文化を重んずる」のを明記した憲法でなければならない。それが忘れられてしまったから、日本人は混乱をしているのである。小峯は一旦は正統憲法である大日本帝国憲法に復元し、その上で改正をすべき、と主張している。教科書にまで「天皇主権」から「国民主権」と記述されており、それが誤解を招いている。大日本帝国憲法であっても、実際に天皇陛下が政治を行われるわけではない。第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、あくまでも統治権の総覧と解釈すべきだ。さらに、非常時においては天皇を戴くというのが日本の国柄であり、それが今も続いているのだ。それを明らかにすることが憲法改正の根幹でなくてはならない。アメリカなどの外国に媚びることなく、日本の真の姿に復帰すべきなのである。

 

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ネット民の知識人批判は既得権益者への批判だ!

2015年01月13日 | 思想家

ネットをやるようになって、一番痛感したことは、普通の人たちが持つ知識人への違和感である。それは勝ち組への負け組による反発でもある。人類が言葉を使用するようになってから今日まで、言葉をあやつる者たちが支配する社会が続いてきた。シモーヌ・ヴェイユはそのことを理解していた。実用性を欠く定式文であるにもかかわらず、日々労働にいそしみ、まともに暮らしている人たちよりも、はるかに優位な立場を与えられたからだ。「事物をあやつる人々より言葉をあやつる人々が優位を占めるという状況は、人間の歴史のあらゆる段階にみいだされる。附言すべきは、総体として祭司または知識人といった言葉の組み合わせや組み立てにたずさわれる人間が、つねに支配者の側、つまり生産者に対立する搾取者の側に立ってきたことである」(『シモーヌ・ヴェイユの言葉』冨原眞弓訳)。格差社会といわれるが、その背景にあるのも知識人の優遇である。誰もがネットで発表できるようになったために、当然の如く知識人への風当たりが強まったのである。日本の場合はそれが、進歩的文化人やそれに連なる者たちへの批判となった。大学教授やジャーナリストの特権を与えられているのに、自分たちが負け組であるかのように、表面を取り繕っているからだ。偽物のサヨクが没落したのはそのせいだ。ネット上の不満分子を知識人は「ネトウヨ」と嘲けているが、深刻な問題を孕んでいることを忘れてはならないのである。

 

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