去る6月、峰たけしのペンネームで『先人に学ぶ憂国の言葉』を長崎出版から出したが、ようやく売れ始めたようだ。あくまでも読書ノートでしかないが、書き手としては、これまでのどの本よりも愛着を感じている。しかし、最近の日本には、論評に値するような思想家は皆無で、わざわざノートに書きとめたくなる文章にも、ほとんど出会うことがない。それだけ凡庸な時代になったのだろうか。たまたま書斎で蔵書を整理していたらば、山田宗睦の『危険な思想家 戦後民主主義を否定する人々』という本が目に飛び込んできた。光文社のカッパブックスの一冊で、高校生のときに、むさぼり読んだものである。初版発行が昭和40年3月1日となっており、昭和45年頃、東京に出かけたおりに、ない金をはたいて、神保町の古本屋で買ったのを覚えている。「まえがき」で、進歩的文化人を擁護していた山田宗睦が「戦後を擁護するとともに、戦後を殺そうとするものたちを告発した書物として書いた」と気負っていたのが印象的であった。サヨクの言説に飽き足らなかった身としては、それが危険思想家に入れあげるきっかけともなった。そこに登場する文化人は、マルクスあたりの解釈にあけくれている文化人と違って、レベルが高かったからだ。美的教養人の竹山道雄、雑誌「心」を中心にした心グループ、左翼からの転向者で、純粋な心情を保持し続けた林房雄、危険な美の使徒と呼ばれた三島由紀夫、行動する文学者の石原慎太郎とあっては、影響されない方がどうかしている。若いときと違って、今の日本を見渡して、危険な思想家などは、どこにも見当たらない。凡庸な者たちが囃し立てているだけだ。つまらない時代になってしまったものである。民主党の内紛劇も単なる泥仕合だし、お子様政治の延長でしかない。あらゆる分野で、凡庸化が進んでいるのだから、危険な思想家が現れるはずもないが。
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