これまで言いなりになってきた我が国が、韓国に対して国家としての意思を明確にした。韓国をホワイト国の優遇措置から外したことを、多くの国民が支持している▼竹山道雄は『昭和の精神史』に収録された「手帖」において、ラフカディオ・ハーンの言葉を引き合いに出して、日本人の力の用い方の特徴が「柔術」にあるというのを紹介している。「柔術は対処によって活路をみいだす。これに必要なのは、動いてやまぬ相手に対する観察力と印象力と直覚力、大切な瞬間においてかくれている本質的な契機(こつ)をつかむこと、微妙きわまる呼吸と気合をはかること、リアクションのはやいこと、観念や反省の重荷にわずらわされないこと、分析や空想をすてること、頭と手が同時にはたらいて即座の決断を実現できること、などである」▼「相手の力にしたがいながら、こちらの心を虚しくして身をやわらかにして相手の力を始末する」というのが「柔術」の極意である。今回のことも我が国が先に仕掛けたのではなく、韓国の傍若無人な出方を利用して攻勢に転じたのである。日本人を甘く見るべきではない。危機に直面すれば、一夜にして変化に順応することが可能なのである。長所であると同時に欠点でもあるが、それは理屈で語ることはできず、常に天変地異にさらされてきた国民性が生み出したものなのである。
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70年ほど前の敗戦後には、圧倒的な物量と軍事技術を展開して日本を圧倒したアメリカをモデルとして、日本は焦土から復興した。
だが、今日の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化を前にして、もはや世界の何処にも習うべきモデル(お手本)は無いのである。
すると当然、「国家は立ちすくみ、個人は不安をかかえる」ことになるので、『不安な個人、立ちすくむ国家』(経産省若手官僚が問いかける、日本の未来。150万ダウンロードを記録した資料を、補足を含め完全版として書籍化。20~30代の官僚たちが現代日本を分析した未来への提言)のような本が出版される。但し、アマゾンの書評点数は誠に辛い。
それでは、もし20世紀であれば高々と“社会主義”の旗を掲げたはずの連中は、この21世紀の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化に対して、どんな戦略を持ち合わせているのだろうか。
1991年のソ連邦崩壊後、“国際共産主義運動”は総崩れとなった。
ロシアと距離的に近いヨーロッパでは、ロシア革命と国際共産主義運動の実際の姿は、早くから知られていた。エスエルやメンシェヴィキの亡命者もいたし、あのローザ・ルクセンブルクは、新たに制定されたソヴェト憲法で「自由な秘密投票の権利が否定されていた」のを見て息が止まるほど驚いたといわれている。
“現代経営学”あるいは“マネジメント” の提唱者であり自らを“社会生態学者”と名乗ったピーター・ドラッカーは、すでに1939年発刊の処女作『“経済人”の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』で、「独ソ同盟の可能性のほうが悪夢として現実化しつつある。今日は悪夢にすぎないものも明日には現実となる。あの政権は、理念的にも社会的にも似ているがゆえに手を結ぶ」と、当時のソ連邦を“全体主義国家”と喝破していたのである。
“日本の共産主義運動”は、第一に、あまりにも評判の悪い“社会主義”“共産主義”の旗を隠して“人権派”を装うこと。第二に、新設された大学の教壇に逃げ込むこと。第三に、『資本論』のスコラ的訓詁解釈に閉じこもることで生き延びてきた。
「ブーメラン ブーメラン ブーメラン ブーメラン きっとあなたは戻ってくるだろう♪」と、マルクスを心の支えに生きてきた連中は、今日の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化を背景に、「マルクスの理論は論駁されていない。それはようやく今日その歴史的な真理価値を復権する」と、またぞろ“懐メロソング”を合唱しようとしているが、「見果てぬ夢」に終わるだろう。
なぜなら、『資本論』についての衒学的な議論は、彼らの売文渡世にはうってつけであっても、“現実の諸問題”の現状分析においてエマニュエル・トッドひとりにも及ばないのであるから。