自分自身がリタイヤ直前になってみて、不甲斐ないと思うことが度々ある。戦後民主主義の教育を受けた身としては、ある種の哲学というか、死生観がないからだろう。大岡昇平の『俘虜記』で、主人公が語った言葉の通りではなかろうか。「では祖国は負けてしまったのだ。偉大であった明治の先人達の仕事を、三代目が台無しにしてしまったのである。歴史に暗い私は文化の繁栄は国家のそれに随伴すると思ってゐる。あの狂人共がもうゐない日本はではすべてが合理的に、望めれば民主的に行はれるだらうが、我々は何事につけ、小さく小さくなるであらう。偉大、豪壮、崇高等の形容詞は我々とは縁がなくなるであらう」。昭和20年8月15日以降、日本は国家ではなくなり、忠誠対象を失った。「偉大、豪壮、崇高等の形容詞」は、過去の遺物と化した。しかし、普通であれば、三代目で没落しても、四代目、五代目が奮起してよさそうだが、日本はそうではなかった。かえって悪くなったからだ。今行われている民主党の代表選をみてみればいい。菅直人首相も、小沢一郎前幹事長も、権力を手にすることだけに汲々となっている。スケールが小粒になったのである。西郷隆盛や大久保利通、勝海舟のような人物は、日本にはもう現われないようだ。
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