鳩山政権への批判がようやく高まってきたけど、今の政権や民主党がやっているは、国の大本を破壊することだから、あらゆる手段で断固立ち向かわないと。それにしても、小林秀雄が健在であったとすれば、今の政治について、どんな感想を抱くだろう。三島の死について、江藤淳と激論をたたかわしたことがあったっけ(「諸君」昭和46年7月号掲載・「歴史について」の対談)。あくまでも、三島に早い老年がきたという見方の江藤に対して、小林は「いや、それは違うでしょう」と異議を唱えた。そして、江藤が「老年といってあたらなければ一種の病気でしょう」と追い打ちをかけると、すかさず語気を強めて、「あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか」と大声を張り上げた。これには江藤もタジタジとなり、そこから小林の独壇場になったんだよね。「三島は、ずいぶん希望したでしょう。松蔭もいっぱい希望して、最後、ああなるとは絶対思わなかったですね」「ああいうことは、わざわざいろんなこと思うことないんじゃないの。歴史というものは、あんなものの連続ですよ。子供だって、女の子だって、くやしくて、つらいことだって、みんなやっていることですよ。みんな、腹切っていますよ」。どんな人間でも、やむにやまれぬことがあるのを知っているからこそ、三島の行動を否定しなかったし、吉田松陰と同じタイプに属するとまで言い切ったんだよね。とくに、日本人には、守るべき最後の一線があり、それを踏みにじられれば、決心の覚悟で立ち上がるわけだから。「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」という吉田松陰の歌があるように。
白虎隊士の生き残りで、東京帝国大学総長となった山川健次郎は、天皇陛下を中心にして、日本国民が結束することを訴え続けたんだよね。ことさら憂国の士をきどって、忠君愛国を力説したんではないよ。国が滅びないためには、日本国民が心を一つにしなくてはという思いがあっただけだよ。とくに、会津藩は、戊辰戦争で完膚なきまでにたたきのめされたわけだから。会津30万石から斗南3万石へ減らされたために、青森県の斗南に移封された会津藩士の生活は、筆舌に尽くしがたいものだったといわれるよ。移住した1万6千人の会津藩士とその家族は、流亡の民として悲惨な目に遭ったんだよね。「北斗以南みな帝州」の気概をもって乗り込んだものの、現実は生易しくはなかった。後に陸軍大将になった柴五郎も、犬の肉を食ってしのいだというし。酷寒のなか炉辺で、ムシロにくるまって寝るような状態だったとか。しかし、今の日本も、民主党を中心にした鳩山政権が誕生してから、国の大本を否定するような動きが目立ってきているよね。永住外国人に地方参政権を付与しようとする法律が通れば、国民主権が形骸化するから。国民にとっての一番の不幸は、亡国の民となることだよ。それがどんなものであるか教えてくれるのが、敗者となった会津藩の歴史だよ。亡国の民となった明治、大正の会津人は、五稜郭で戦死した会津藩士安倍井政治の次のような漢詩を愛唱したんだって。
題不明
海潮は枕に到し天明けんと欲す
感慨は胸に撫し独り眠れず
一剣未だ酬いず亡国の民
北辰の星下に残年を送る