ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

天下の義人 茂左衛門 のようには・・

2013年08月05日 | 須永好 研究
 
田中正造との相似・・東毛義人 須永好(3)
須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)須永...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(2)』

大正10年(1921年)

この年の群馬の気候は日照不足で凶作でした。水田も畑作も元気がなく9月に入っても秋晴れの良い日が幾日もありませんでした。
農民の働き場所は農地です。農地には限度があり土地価格ははね上がり、自然に小作料もぐんぐん上がる。

土地を持たない小作人(小作農民)たちは、その使用料の小作料をなんとか下げてもらおうと寄り合い(会合)を密かにもった。
「先日、地主様のところへ5人ぐらいづつ分かれて嘆願に行ったら飛び上るほど叱り飛ばされてた」と小作人たちはなげいた。そこで須永好は、「それではとてもダメだから大きな組合をつくろう」と言い、一同が賛成した。
小作人たちは寄り合い(会合)時は外に交代で見張りを立てていた。彼らは小作料軽減運動が、昔の佐倉宗五郎(注1)や磔(はりつけ)茂左衛門(注2)の時代と同じように考え、ことによれば留置所に放り込まれたり、監獄につながれたり打ち首や磔の刑を連想して恐怖していた。

(注1 佐倉宗五郎 江戸前期、下総(千葉)の義民。領主の悪税に悩む村民の代表として将軍に直訴。捕えられ妻子とともに1653年」刑死。

(注2
 茂左衛門 江戸前期、上州(群馬)沼田領下の農民。真田信利の重課税の悪政に反対し農民の先頭に立ち江戸で直訴。それによって真田氏は改易になるものの茂左衛門は妻子とともに磔(はりつけ)の刑で死亡。上毛かるたでは「天下の義人 茂左衛門」として今もしのばれています。

今も昔も組合づくりは至難の業(わざ)

組合を作るということは、たいへんな覚悟と努力です。今の時代でも同じことでしょう。たとえばブラック企業で働く若者たちが自分たちの正当な生命と権利を擁護するために新たに労働組合を結成しようとするなら相当な勇気と決意が要ります。ブラックでない企業でも組合結成に対して理解のある経営者はそう多くないと思われます。
江戸前期には、佐倉宗五郎や茂左衛門 のような立派な義人がいました。しかしこのやり方は、あまりにリーダー個人に過酷な犠牲を強いることになり一般庶民は恐怖感によって、あきらめにしかつながりません。
須永好の指導した組合運動は、味方陣営の犠牲者をほとんど最小にとどめる見事な闘いを常としました。

落語のような話ですが、ある日の成塚(太田市)での会合で、たまたま巡査(警察官)がやってきた。見張りから「それッ」と伝令が回り火鉢の周りに2、3人残し一目散にみな逃げた。ある者は納戸に、押し入れに、蔵の中にと・・。太郎やんは台所にあった風呂桶の中に飛び込んでフタをしてじっとしていた。巡査は「何か企みごとでもしているのか」とにらんだが「わしらは湯をもらいに来ただけだ、何も別に・・」とちょっと脅かして出て行った。風呂桶の太郎やんは昨夜沸かした臭くて冷たい風呂に15分も辛抱していたので出てきたときは笑い事でなく気の毒だった。太郎やんはたびたび咳をして風邪気味のようだったがその夜も、須永好の話を熱心に聞いていたといいます。(つづく)

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コメント (6)
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