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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■前向きに生きていくために / 関根弘興

2011年09月19日 | Weblog
2011/9/19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日はご一緒に、人生を前向きに生きていくためにはどうしたらよいのか、ということを考えていきましょう。

 人生を前向きに生きていくためには、三つのことが大切だと思うんですね。

 一つは使命感を持つということです。これは何か立派な大きなことをするということではなくて、視点を変えることなんです。それは、私たちは今こうして生きているという視点から、私は今こうして生かされているという視点に変えていくということですねえ。

 生かされているということは誰かによって生かされている訳です。その誰かとは一体誰でしょう。もちろん周りに沢山の人々の支えもありますよね。しかし聖書は、あなたを生かしているのは天地を創造された神様ご自身なんです、と教えているんです。神様はあなたに太陽を昇らせ、雨を降らせ、あなたのいのちを守ってくださるお方。ですから、私たちが使命感を持って生きるということは私に命を与え支えてくださる神様に心から感謝を捧げ、生かされている命を大切に生きていくことなんだということです。

 二つ目は罪責感からの解放です。人は誰も後悔しそして罪の意識を持ってしまいます。聖書は、どんなに立派そうに見える人も神様の前ではみな罪人だ、と教えています。だから罪意識からの解放はすべての人の心の奥底にある願いでもあるんですね。聖書はこう記しています。

 第二コリント5章21節
 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 一体罪を知らない方とは誰のことでしょう。イエス・キリストのことなんです。私たちは皆罪人です。しかしイエス・キリストは何一つ罪のないお方でした。そのイエス・キリストが私たちの代わりに罪とされた、とありますよね。イエス・キリストは私たちが受けるべき罪の罰を受けるために身代わりに私たちの罪を背負ってくださったんです。本当の罪からの解放は命を捨てて私たちの身代わりになって死んでくださったイエス・キリストから来るんです。

 そして三つ目は未来観の確立ということです。一体私は最終的にどこに向かっていくのだろう。死んだあとは一体どうなるのだろう。誰も不安になりますね。でもイエス・キリストを信じる者に約束されていること、それは「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ 3章20節)と約束されているんです。この生涯が閉じても永遠の天の御国に住まうものとなると約束しているんですね。私たちが前向きに生きていくために使命感を持ち、罪責感から解放され、未来観を確立して生きていくためには、聖書の与える約束を受け取って生きる。これが道なんです。
 
 (PBA制作「世の光」2011.9.19放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 





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■新しく造られる民 / 羽鳥頼和

2011年09月17日 | Weblog
2011/9/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。バビロン捕囚という出来事を御存知でしょうか。イスラエルの国がバビロンによって滅ぼされ、人々がバビロンに捕え移されてしまった出来事です。エルサレムの都は破壊され、人々は虐殺され、破壊された神殿の財宝はすべて奪われ、そして生き残った人々はバビロンに捕囚として連れて行かれてしまいました。旧約聖書の詩篇102篇はこのような苦しみの中で神様にささげられた祈りです。

 「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。・・・私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。」(詩篇 102篇1節、2節より)と。

 この祈りはイスラエルの復興を求める祈りです。最初の願いは、神様が自分の祈りを聞いてくださるように、との願いです。

 そして、「(神様、)あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。」(詩篇 102篇25節、26節より)と創造者である神様の絶対的な力を覚えています。

 そのような神様にイスラエルの民の救いを求めて祈ります。「新しく造られる民が主を賛美しますように。」(詩篇 102篇18節より)と。

 苦しい状況から救いだされることを願うばかりか、イスラエルの民が新しく造り変えられるように、と願っているのです。いや新しく造られることはここではもう確信となっています。新しくなった人たちが主を賛美することをさらに願っているのです。

 何と大胆な祈りでしょうか。天地万物を造られた神様は私たちを新しく造り変えてくださると確信しているのです。

 あなたは神様が人を新しく造り変えることができると信じられますか? 聖書は、神様の救いは人を新しく造り変えその人の人生を新しいものとしてくださる、と教えています。

 どのようにしたら新しく生まれ変わることができるのでしょうか。それは私たちがイエス・キリストを信じることによって神様によって新しく生まれ変わることができるのです。

 聖書のことば
 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
       ペテロの手紙第一 1章3節

  ( PBA制作「世の光」2011.9.17放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■「恵み」って何? / 岩井基雄

2011年09月16日 | Weblog
2011/9/16放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 私は時々、「キリスト教会で耳にする分からないことばは専門用語なのですか?」と聞かれます。確かにキリスト教会で使われている用語には分るようで分りにくいことばがありますよね。この第三金曜日は様々な視点から学んでいますが、しばらくちょっとわかりにくいキリスト教用語を学んでみましょう。

 最初は「恵み」です。よく女性の名前としても用いられますよね。恵みちゃんとか恵子さんとか、日本人の好きな漢字の一つではないでしょうか。広辞苑にも「なさけをかけること。あわれみ。いつくしみ。」という説明が並んでいます。天の恵みという表現で雨や日光を表したりしますよね。分かりやすいことばですが意味は深いですね。

 では聖書が語る恵み、神の恵みとはどういうことでしょうか。聖書の中には恵みについて次のように書いてあるところがあります。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 新約聖書ローマ人への手紙3章23節、24節 

 聖書が語る神の恵みは、本来は受けるに値しない人が受ける神からの愛やあわれみです。人の罪は神様を否定し自己中心的で人や自分を傷付けるものです。その罪ゆえに神様からの栄誉を受け取ることができない私たちのために神様は独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてさばき、罪の赦しと贖いを完成してくださいました。私たちが罪赦されて義と認められるのは、神様からの一方的なあわれみと恵みによるのですね。神の恵みとは神の愛の中心的な内容を表しているのですね。

 またこの恵みは神様からの平安と祝福をも表しています。聖書に記されている「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(ローマ 1:7、1コリント 1:3、2コリント 1:2、ガラテヤ 1:3、エペソ 1:2、ピリピ 1:2、コロサイ 1:2、1テサロニケ 1:1、2テサロニケ 1:2、ピレモン 3)という祝福の祈りは受けるに値しない罪深い私たちにも豊かに与えられているからです。

 また「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(新約聖書ペテロの手紙第一5章5節) ともあります。あなたも神様の前にへりくだり、謙遜になってこの豊かな恵みを受け取りませんか?

   (PBA制作「世の光」2011.9.16放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■愛することの教え / 福井 誠

2011年09月15日 | Weblog
2011/9/15放送
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「愛することの教え」です。それでは、マタイの福音書7章12節から読んでみましょう。

 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 このことばはイエスが始めではなかったとされています。というのも私たち日本人がよく知っている孔子も、「あなたがしてもらいたくないことは他の人にもしてはならない」と言ったそうですし、その昔イスラエルで書かれた旧約聖書外典という書物の中にも「あなたが嫌なことは誰にもしてはならないことだ」というものがありました。つまりイエスはすでによく知られていたことばを積極的な形に言い換えたのでしょう。

 そこでこの言い換えに注目したいところがあります。というのもそこにイエスの、弟子についてのイメージがよく表されているからです。イエスの考えている弟子の姿は消極的で後ろ向きなものではありません。むしろ積極的で前向きです。あなたはこれをしてはならない、あれをしてはならない、と禁止で物事を固めていく人ではなくて、むしろ何かをしてあげることを考えて生きるそういう人ですね。

 もちろん、してあげると言っても相手の立場も何も考えずただ自分が良いだろうと思ったことをするというのではありません。いわゆる押し付けの善意など誰も期待はしていないことでしょう。

 同じしてあげるであっても相手の立場に自分の身を置いて、何をして欲しいのかよくよく考えて必要なことをしていくということです。自分がそのような状況に置かれたならばどう扱って欲しいと思うだろうかとよく考えて行動することです。イエス様は「これが律法であり預言者です。」と言われました。つまり、これが旧約聖書に書かれている教えだと言うのです。

 またイエス様は別の所で聖書の教えは二つ、神を愛し人を愛することに要約される、と言われました(マタイ 22章40節参照)。つまり「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」と言うのは、まさに人を具体的に愛していくあり方を教えているのです。愛の行動に豊かになっていきたいものですね。

  ( PBA制作「世の光」2011.9.15放送でのお話より )

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■失楽園 / 板倉邦雄 

2011年09月14日 | Weblog
2011/9/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「失楽園」という題でお話ししましょう。旧約聖書の創世記3章の続きです。まず聖書をお読みします。主なる神は言われます。

 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 (創世記3章22~24節 口語訳聖書)

 さて私たちにとっての失楽園とは何でしょうか。それはまず第一に、永久に生きることを失ったということでしょう。すなわちすべての人は死ぬべき者となったのです。人はなぜ死ぬのか。歳取るから死ぬのではありません。病気で死ぬわけでもないのです。人は罪を犯し堕落したために死ぬ者となりました。ですから死は私たちにとって自然なものではありません。死は私たち人間にとっては不自然なものなのです。ですから死は恐怖です。死は罪の報酬として与えられているからです。

 罪の報酬は死である。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命である。

 次に、失楽園は自分が造られた土を耕す労働者になるということでしょう。土を耕す労働を通して自分たちがいかにもろく傷つきやすく弱く崩れてゆく土の器であるかを確認してゆく作業となります。(※)

 最後に失楽園は再び命の木の道に至る道ではないでしょうか。私たちにとっての命の木の道、それは神様がこの世に遣わした神の子イエス・キリストの十字架の木ではなかったでしょうか。私たちはこの十字架の木にかかられて私たちの罪の身代わりとなって血を流し、死んでくださり、三日目によみがえられましたこのイエス・キリスト、神様の右に座られたイエス・キリストを通して再び永遠のいのちに至るのです。イエスは言われました。

 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」 (ヨハネの福音書14章6節 口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.9.14放送でのお話より )

 ※創世記2章15節によると、神様は、助け手エバを造る前に最初の人アダムにエデンの園を耕させて園を守らせています。そこからすれば、労働そのものは人が失楽園を経験する前からのものであると言えます。ただ、失楽園以後は労働の意味が変わってしまったと言えます。



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■ヤコブ -かかとをつかむ者- / 山中直義

2011年09月13日 | Weblog
2011/9/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。

 人生に降りかかる様々な困難、襲いかかる危険からどのようにして身を守るか。今日は一人の赤ちゃんの誕生物語を通して教えられたいと思います。

 旧約聖書創世記26章に登場するその赤ちゃんの名前はヤコブと言いました。実はこのヤコブまだ母親の胎にいた時から大変な困難・危険を経験します。彼には双子の兄がいたのですが、この二人が体内で激しくぶつかり合うようになったと言うのです。その衝突は余りにも激しく聖書はその様を「砕く」「踏み潰す」ということばで表現しています。

 さて時が満ちていよいよ出産の日になりました。先に出てきたのは全身が毛衣に覆われた真っ赤な元気な男の子でした。両親はこれをエサウと名付けます。次にその弟が出てきたのですが、驚いたことにその小さな手は兄のかかとを掴んで離さなかったと言います。それで両親はこの子をヤコブ、すなわち「かかと」と名付けました。

 遅いかかるかかと、自分を破壊して踏み潰そうとするかかとに必死にしがみついて何とかして自分の身を守ろうとしながら生まれてきたそんな小さな赤ちゃん、実はこの姿にわたしたちの姿が重なるのではないかと思うのです。ちょうどケンカの弱い子供が強い子供に殴られまいとしてその手首に必死にしがみついて抑えている。ま、そうやって必死にあがいて自分を傷付ける者から何とかして身を守ろうとしている。それが私たちの姿ではないかと思うのです。傷付けられないとしてかかとにしがみついている。あなたはそんな生き方をしてはいないでしょうか。

 聖書はこの後あのヤコブが変わっていく姿を描いています。言うなればかかとから手を離す日が来るという物語を描いていくんですね。それはどのようにして実現するのか。それは神様を知るときにこそ実現すると聖書は言います。

 あなたを愛しあなたを思いやり、あなたのために戦いあなたを守ってくださる神様を知るとき、あなたもしがみついていたかかとから手を離すことができると聖書は言います。どうぞこの聖書の物語を通してあなたも神様を知ってください。

    (PBA制作「世の光」2011.9.13放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださる場合の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 東海福音放送協力会へ
            (自由ケ丘キリスト教会内)



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■賛美の応答 / 関根弘興

2011年09月12日 | Weblog
 2011/9/12放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 私たちは人生の様々な出来事に直面した時、ま、いろんな応答をしますね。ああもうだめだー!という応答もあれば、冗談じゃない!と怒り出すこともあります。ま、応答いかんによっては事態は大きく変わるものですね。

 聖書の神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書 43章4節)とおっしゃっています。あなたが失敗しても挫折してもあなたという存在は高価で尊いのですよ、と語り続けているんですね。ですから何が起ころうとも、すべてだめだー、という出発をしないでください。まず自分がだめなら自分のだめさを認めるんです。弱さを認めるんです。勇気がなかったら、私には勇気がありません、と素直にそれを認め、神様にお伝えすればいいのです。

 新約聖書のローマ人への手紙の中に大変有名なことばがあります。8章28節です。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 この放送をお聴きくださっているあなたにこのことばを今日はぜひ知っていただきたいんですね。神を愛する人々のためには神がすべての事を益としてくださる、というんです。たとえどんな状況に置かれてもすべてを働かせて益としてくださる方がいると言う約束です。人生には失望が襲います。しかし決して失望のままで終わらせない、というのが聖書の約束です。そして大切なことは、この約束は神を愛する人々のために与えられている、と言うことです。

 神を愛する人々とはどういう人でしょう。神なんかいるものか、神など信じない、信じられるのは自分だけ、と言ってるような人でしょうか? 違いますよね。神を愛する、とは神様を信頼し礼拝し生かされていることへの感謝を持って生きている一人一人のことです。そして神様が私たちの罪のためにご自分の独り子イエス・キリストを送り私たちの罪のためにあの十字架で命を捨ててくださるほど大きな大きな愛を注いでくださっている、その大きな愛を受け入れている人なんです。神を愛する人は神に愛されていることも知ってる人なんですね。

 もちろん人生には愚痴も不平も出てきます。落ち込むこともあります。でもそんな中で、神様あなたの約束を信じます、助けてください、と呼び求めることができるんです。時には感謝できないこともあるでしょう。でもそんな時も、感謝などすることはできません、でもあなたの約束のゆえにあなたを誉めたたえます、と勇気を持って応答していきませんか? あなたを支えてくださる神様がいてくださいます。
 
 (PBA制作「世の光」2011.9.12放送でのお話しより)

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■目からウロコ / 羽鳥頼和

2011年09月10日 | Weblog
2011/9/10放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 「目からうろこ」ということわざを御存知だと思います。ことわざ辞典には「目からうろこが落ちる」と載っていました。そしてその意味は「あることがきっかけとなり、突然物事の本質が分るようになること」とありました。このことも皆さん御存知でしょう。それではこのことわざがどこからのものであるか御存知でしょうか。実は聖書からなのです。

 新約聖書の使徒の働き9章18節 使徒パウロが回心するとき彼の目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになった。そして彼は洗礼を受けてクリスチャンとなった、というふうに聖書に語られているのです。文字どおりパウロの目からうろこのようなものが落ちたのです。クリスチャンになる前のパウロはイエスに敵対心を燃やしてクリスチャンを捕まえ、牢屋に入れ、彼らが死刑になってもいいとさえ思っていました。彼は激しい怒りに燃えてクリスチャンたちを追いかけて国外の町々まで追跡していました。そんなパウロがダマスコと言う町にクリスチャンたちを捕まえに向かっていました。すると天からの光が彼を照らしました。彼は目が見えなくなってしまいました。その時彼はイエス・キリストの声を聞いたのです。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。わたしはあなたを救い出し、ユダヤ人と異邦人たちの所にあなたを遣わす」と。イエス様のことばを聞きパウロはイエス様は神の子であり、救い主メシヤであるという真理を認め回心したのです。この時、目からうろこのようなものが落ちたのでした。

 パウロはまさに目からうろこが落ちる経験をしました。イエスの福音の真理を知ったのです。しかしそれだけではありません。この出来事によってパウロの人生は大きく変わったのです。彼はイエス・キリストの福音を人々に伝える宣教師となったのです。

 すべての人が素晴らしい人生を送ることができるためにイエス・キリストは来られました。私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられました。このことを信じることが本当に目からうろこが落ちる経験となるのです。イエス・キリストを知ることによって、あなたの人生は大きく変わります。キリスト教会にいらして、このイエス・キリストに出会ってください。

  ( PBA制作「世の光」2011.9.10放送でのお話より )

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■いのちを助け、支える方 / 岩井基雄

2011年09月09日 | Weblog
2011/9/9放送

世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日も御一緒に旧約聖書の詩篇を味わいたいと思います。今日の詩篇は54篇の2節から4節です。早速お読みします。

 「神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」 詩篇54篇 2節から4節 

 これはイスラエルの王になる前のダビデが当時の王サウルから命をねらわれて逃げている場面で敵から場所を密告され、さらにいのちがねらわれていくという追い詰められた場面で歌われた詩篇です。

 私たちはこのような切羽詰った命の危険を体験することはそうないかもしれません。しかし人から傷付けられたり健康や安全が侵されたりして苦しみを味わい、ダビデのような切なる祈りを神様に捧げる方またさらには祈れないほどの重いうめきや嘆きを心に抱えていらっしゃる方は実は多いのかもしれませんね。

 ダビデは自分の敵を「彼らは自分の前に神を置いていない」と表現しています。ダビデ自身は神様の前にいつも自分を置き、神様と共に歩んでいました。そのように歩む者にも苦しみや痛みは容赦なく降りかかるのですが、ダビデの祈りはこう続いていましたね。「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」と。ダビデはどんな状況でも神様に絶対の信頼を置き、たとえ自分のいのちが失われても神様が死を超えた永遠のいのちを与えてくださると確信していました。そしてまたダビデは神を恐れない人々にくだされる神様のさばきも心に刻んでいました。そして彼が信じていた通りに神様は彼と彼の人生を守られたのです。

 ダビデと同じ祝福はあなたにも用意されています。神様に信頼し自分の罪を認めて悔い改める人を神様は本当に喜ばれ、その人の人生を豊かに祝福してくださいます。あなたが今、どのような苦難や痛みを抱えていたとしても、その中から神様に信頼し祈り従うとき、あなたの人生も神様の平安と祝福で満たされるのです。

   (PBA制作「世の光」2011.9.9放送でのお話しより)

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■求めなさい / 福井 誠

2011年09月08日 | Weblog
2011/9/8放送
 
 世の光の時間です。 いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「求めなさい」です。それではマタイの福音書7章7節から読んでみましょう。

 求めなさい。そうすれば与えられます。
 捜しなさい。そうすれば見つかります。
 たたきなさい。そうすれば開かれます。


 このことばが好きな日本人は多いと思います。実に私たちを力づけることばです。私たちの願望のすべてを満たしてくれそうですねえ。けれども何でもかんでも求めよ与えられるから、と本当にイエス様はそんなことを言おうとしたのでしょうか。

 このことばがどのような意味で語られたのか最初の意味をちゃんと理解している人は少ないかもしれませんね。聖書のこのことばの前後を読むと、実は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。」(マタイ 7章6節)ということばに続いていることがわかります。

 ここで言われている聖なるものというのは聖書の救いのことばです。価値のわからないような人には救いのことばを与えてはいけないのだとイエス様は教えたのです。

 ただ、人間の心としてはそういう聖書のことばの価値がわからず拒否するような人にもぜひ聖書の素晴らしさがわかって欲しいと思うことはあるものですねえ。そういう時にどうしたらよいのだろうか。その答えとして、まず祈ることですよ。求めなさい。そうすれば与えられますと言っているのです。こうした点が大切なところですねえ。

 私たちのお友達や家族にも聖書のこと、イエス様のことがわかって欲しいなあと思うものはあるものです。でもそういう話は聞きたくないと私たちの気持ちを踏みにじるような人がいたらその人のためにまず祈っていく。そうすれば心を開くようになるのだとイエス様は約束しているのですね。

 その最初の意味をまず押さえた上で、これを普遍化していく。神様に祈り求める者は神様がちゃんと聞いてくださると受け止めていくのは良いことだと私は思うんです。というのも神様は私たちの思いに最善をなしてくださるお方です。もちろん私たちの思うようには答えてくださないこともあるかもしれませんが、神様は私たちに最善をなしてくださると期待し祈り求めたいものです。

  ( PBA制作「世の光」2011.9.8放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 


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