♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■刺激される心

2007年04月19日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のローマ人への手紙から読んでみましょう。

 「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」ローマ人への手紙 7章18節

 ある公園に新しく塗りたてのベンチがありました。ベンチには「ペンキ塗りたて、さわるな」の表示があります。見ると、たくさんの人が故意にさわった痕があります。なぜでしょうか。「さわるな」の表示があったからではないでしょうか。人間には、してはいけないと禁止すると、ますますその事をしてしまうあまのじゃくな思いがあるものですねえ。

 パウロはそんな人間の現実を自分の心の中にも見いだして、こう言いました。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ人への手紙 7章15節)

 問題は、してはいけないという戒めがあることではありません。してはいけないという戒めに刺激されて反応してしまう人間の罪深い心があるということです。

 パウロは、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ人への手紙 7章18節)と言いましたが、そういう心のからくりを理解しない限り、私たちは自分を変えるための神の力を求める気持ちにはならないことでしょう。また、一生懸命、正しい人間として生きようとしながらそうなりきれない、体裁だけの偽善に満ちた自分に思い悩むようになるのではないでしょうか。

 私たちの心の問題が解決されるためには、神の力が必要なのです。あなたも教会に通って、神の力を求めて歩んでみませんか?

 (PBA制作「世の光」2007.04.19放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■イエス・キリストの系図

2007年04月18日 | Weblog
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 
 さて今日は、イエス・キリストの系図という題でお話ししましょう。新約聖書の1頁を開きますと、そこにはイエス・キリストの系図が書かれています。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」マタイ福音書の1章1節です。

 紀元前二千年前のアブラハムからイエス・キリストに至る約二千年の歴史の系図がつらつらと書かれています。ま、大体の人はこの系図でおもしろくない。そこで聖書を閉じてしまうのではないでしょうか。あるいはこの系図の名前を飛ばして次のイエス様の誕生の物語から読み始めるでしょう。

 ところが、こんな人がいました。彼はテレビ業界へ勤務していました。仕事柄、酒を飲む機会も多かったようです。「酒を人は飲み 酒が酒を飲み 酒、人を飲む」ということばがあるように、彼はやがて酒に飲まれるようになり、とうとうアルコール依存症のため病院へ入院するほどになってしまいました。奥様がキリスト信者ということもあり、聖書の差し入れがあったようです。
 初めは、何だ聖書か自分とは関係ないと、ほったらかしにしていました。ところが病院という所は時間はある、一日が長い。読んでみるかと、ほおっておいた聖書を開いて読み始めました。案の定、名前だけがつらつらと書いてあります。目を走らせていると、一つの名前が目に飛び込んできました。その名前はソロモン。ソロモンとはダビデ王様の息子で、知恵深い王様として有名です。しかし彼の知っていたソロモンとは何と競馬の馬の名前でした。おっ! 聖書は馬と関係があるのか、とばかり興味を持ちまして、聖書を読み耽るようになったのです。そして、こんなだらしなくて、それでいて高慢な自分のためにイエス様が来てくださり、十字架で死んでくださったことが分りました。自分の罪を悔い改め、イエス様を信ずるようになったのです。

 聖書のことばです。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
       使徒の働き16章31節
 
( PBA制作「世の光」2007.04.18放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ペテロの最初の説教

2007年04月17日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日も一日さわやかに歩んでいきたいですね。

 イエス・キリストを三度裏切ったペテロのことをあなたは御存知ですか? そんなペテロですが、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活されたイエス様に出会うと、彼の人生は180度変っていきました。しばらくするとペテロは大胆に群衆に向かって語り始めたんです。教会の歴史に残る最初のペテロの説教が、聖書の中の使徒の働きに記されています。それも旧約聖書のヨエル書という箇所を引用し、ペテロは説教を始めたんですねえ。こんなことばが書かれています。

 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒の働き 2章17節 )

 ペテロは、これからの時代はすべての人に神の霊が注がれるんだと語り始めたんです。これは大変な希望のメッセージですよねえ。なぜならもう一人ぼっちじゃない、いつも神の霊が共にいてくださるというんですから。別のことばで言うならば、いつもイエス様が共にいてくださる、ということなんですね。それは男女の別を問わず、年齢を問わず、身分国籍のいかんを問わずに与えられる神の約束なんだと言うんです。このラジオを聞いているあなたにも与えられる約束なんですねえ。

 そしてこの約束に生きる時、幾つかの特徴が生まれるんです。

 それは、「息子や娘は預言し」とありますね。預言というのは単に未来を予知し語るという事ではありません。預言の「預」は「預かる」という意味です。ですから神様のことばである聖書のことばを預かりながらそのことばを土台として生きる人生が始まると言うんですねえ。「天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ 13章31節 、ルカ 21章33節 )とイエス様は言われました。ですから約束のことばを、励ましの、そして慰めのことばを預かり、そのことばに生き、分かち合うものとされていく人生が始まるんですよー、こうペテロは語ったんです。

 そして「青年は幻を見」とあります。何の希望も望みもないという人生ではなくて、生きる意味と目的を持って将来を見つめることができるようになると言うんですねえ。

 更に「老人は夢を見る。」とあります。夢のない人生なんてつまらないものです。年をとるといろいろなものが失われていく現実を迎えます。時には健康を、愛する者を。しかし聖書は「老人は夢を見る。」と記しているんです。この地上の生涯ばかりか、後に来る永遠の生涯、天国の生涯を見つめて歩む人生とされていくと言うんですねえ。

 ペテロは人々に、こんな新しい人生がイエス・キリストを救い主として信じ受け入れる時に始まっていくのだと大胆に語ったんです。あなたにも語られているんですよ。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.17放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■墓が開かれて

2007年04月16日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えー、一般的に言うとですねえ、キリスト教に不思議だと思われることの一つは、キリストのお墓がないということですね。普通は、これは誰々の骨が埋められてある所、とか、誰々がここで永遠に眠っている所、とか言ってですね、記念の祠があったり神社になっていたり、お墓が麗々しく飾られていたり、というふうなことがある訳ですけれども、キリストの墓っていうのはないんですよね。で、キリストがここに埋められた・葬られたというその場所はあるんですが、その中は空っぽです。つまりキリストは、墓に埋められている状態そのままの状態ではなくって、そこから復活したお方。そういう意味で、キリストのこれは墓だというふうなものは実際にはないということですね。

 聖書の中にも、マタイの福音書の28章の所で、女性たちが墓にキリストが葬られたその墓にやってきた訳ですけれども、御使いが現れて言いました。「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」(マタイ 28章6節)というふうに女性たちに伝えました。そのことを仲間たちにも伝えなさいというふうに言いましたので、聖書の中では「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。」(マタイ 28章8節)というふうに書いてあります。墓を後ろにして彼らは喜びをもってそのキリストの復活の事実を伝えに行きました。

 墓というのは、あくまで過去の一つの象徴ですよね。誰々がいついつまで生きていたというふうなこと。しかしその墓をその跡にしてというのは、そういう過去をもう振り切ってという(こと)。墓というのは死を象徴しますよね。死のしるしですよね。けれどもその墓を後ろにして女性たちは出掛けていった。もう死はないのだ。キリストの復活によって死は克服されたのだということが明らかになった。死んだらおしまい、人生の墓場というふうな言い方をする時に、それは絶望を意味します。絶望の象徴です。けどもキリストはそういう過去にとらわれる又は死を象徴するそして絶望を意味する「墓」にはいません。その墓を蹴破ってよみがえってくださったということは私たちに素晴らしい希望を与えてくださったということなのですね。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.16放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■死がすべての終わりではない

2007年04月14日 | Weblog

 
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 村上宣道(のぶみち)です。えー、二週に渡ってお送りしてまいりましたイースター(復活祭)特集番組は今日が最後になります。

 今日は「死がすべての終わりではない」というお話をしたいと思うんですけれども、えー、岡山でですねえ、一人の年輩の御婦人にお会いしたことがありまして、輝いた良い顔をしてらっしゃるので「輝いた良い顔をしていらっしゃいますねえ」って思わず申し上げたんですねえ。
そしたら「分りますかあ」って、
「(そりゃ)分りますよ」
「実はねえ私、この間確かめて来たんです」
「何をですか?」
「あのう、天国ですよ」っておっしゃったんで
「えっ!?」って申し上げたんですけど、
「実はね、私は三日間、じんじ不整で昏睡状態で、息子が医者なんだけど、もうだめだというので周りの人たちはみんなお葬式の準備も全部万端整えて息を引き取るのを待つばかり、みたいにして私を取り囲んでいた。ところがプ-ッとばかりに息を吹き返して、
『あれっ皆さんお揃いで』てなことを言って、
『ちょうどいい、聞いとくれ、わしは確かめて来たんじゃけん』『何をですか?』
『天国じゃよ、天国』   」
って、周りの人もびっくりしたんですけれども、その方が見たのはですねえ、まあどういう印象か分りませんけれども、
「あのねえ、イエス様を信じて死ぬということはありがたいことだよ、死んでもおしまいじゃなくってねえ、向こうに輝いた素晴らしい世界があるのよ、私はそこの入り口まで行ってきたの、だからねえ、死は終わりじゃなくって、それは栄光の世界に入る入り口なんよ、それを私は確かめて来たんだから」って言ってですね、
それからこの方、元気になって、そして会う人ごとに、「私はこの間ね、確かめて来たんだ」なんて言って話しておられたと言うことなんですけども。

 イエス様は、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネの福音書 11章25節)ってこう言われたことがあるんですねえ。「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネの福音書 11章25節 口語訳)とおっしゃって、事実イエス・キリストは死からよみがえってくださった。よみがえってくださることによって死は終わりではなくってその向こうに、人間にとっては絶望と思える死を乗り越えてそしてそこに新たな、死んでも生きることができる、いや永遠に生きることができるその希望があるのだということを保証してくださった、それがイエス・キリストの復活なんですね。

  イエス・キリストを信じる時に私たちは、この地上においては命は終わる訳ですけれども、けれどもそうではなくってキリストのよみがえりの力によって私たもよみがえり、やがて神と共に永遠に過ごすことができるという素晴らしい世界がそこには約束されているということなんですね。この希望に生きるということは何と素晴らしいことかと思いますねえ。

 ( PBA制作「世の光」07.04.14放送のお話しより)


***** 

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******

この文字版「世の光」ブログは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■パウロの回心

2007年04月13日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。
 
 4月8日はイースター・復活祭でした。キリストの復活とは、その誕生・クリスマスよりも大切な意味があると言われます。それは何よりも復活したことによってイエス・キリストが救い主であり神であると信じられるようになったからです。

 キリストのお墓を見張っていたローマ帝国の兵士たちとその司令官はその出来事の一部始終を見てこう証言したと聖書に書かれています。「イエスは復活の後、墓から出てきて、エルサレムに入って多くの人に現れた。百人隊長および彼といっしょに(イエスの)見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった。』と言った。」(マタイの福音書27章53-54節参照)というのです。

 このように復活して十数回も弟子たちに多くの人々に現れたキリストは、その後も今に至るまで生きて働いておられるというのがキリスト教信仰、いわゆる今日まで続いているキリスト教なのです。

 当時生まれたばかりのキリスト教会を迫害していたユダヤ教のリーダーの一人であったパウロは、この復活したキリストに直接出会いました。そこでキリストは今も生きて働いている神だと悟りました。その後キリストを伝える側となり、キリスト教をヨーロッパに伝えた伝道者となりました。

 このパウロが自分の経験に基づいてこのように書き残しています。ローマ人への手紙の4章25節です。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和--平安--を持っています。」 天国に入るための救い、神よりの平安を求めてユダヤ教のリーダーの一人にまでなったパウロでした。自分を神だと言ったイエスは不敬虔だと思い、キリストを信じる人々を迫害していたのでした。でも復活して生きているキリストに直接会って180度変りました。キリストによってこそ永遠の救い、神よりの平安が与えられるのだと分りました。

 あなたも聖書を通してこのキリストに出会いますと、人生が全く変ります。神の平安と永遠の救いの中に生きる生き方にです。

  (PBA制作「世の光」2007.04.13放送でのお話しより )

***** 

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******

この文字版「世の光」ブログは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■すべての権威の主

2007年04月12日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日も皆さんと御一緒に聖書を開いてまいりましょう。マタイの福音書28章18節、19節から。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

 キリスト教は、イスラエルにあるエルサレムという町から始まりました。そしてイエスの弟子たちの活躍によって当時のローマ帝国の全体に、つまり地中海を中心とするギリシャ・ローマ・スペイン・北アフリカの世界へと広がっていきました。キリスト教の歴史を調べてみると、既にこの時代、世界各地に離散したユダヤ人のコミュニティーを通して、はるかインドまでキリスト教が伝えられていたことが分ります。口コミの勢いというのは大変なものだったのですねえ。ともあれ、その後の中世の時代にはキリスト教は「地中海の宗教」から「森の宗教」と呼ばれるようになりました。つまりヨーロッパ全体に広がったのです。そして宗教改革を経た16世紀以降、大航海時代と植民地時代において、キリスト教は新大陸へと進出し、現代においては南方シフトが起こった、つまりアジアを中心にキリスト教が栄えるようになったと言われています。

 どうしてキリスト教はこれほど世界中に広まったのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる者たちがキリストの権威を認め、福音宣教の命令に忠実に従ったためだとも言えそうですが、そればかりではないはずです。イエスは言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」イエスは、目に見えない天上の支配者であるばかりではなく、実際に目に見えるこの世界の支配者でもあります。やはりイエスの支配が真実であるからこそ彼らの働きも祝福され、今の私たちがイエスの愛の知らせを聞くことができるのです。あなたにもぜひ教会へ行って主イエスの愛の教えに触れていただきたいと思います。

 (PBA制作「世の光」2007.04.12放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ペテロの三度の告白

2007年04月11日 | Weblog
 
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。イースター特集番組、さて今日は、「ペテロの三度の告白」です。

 えー、聖書の中で「三度」ということばがしばしば出てきます。この三度とは、たった三回ということではありません。「十分な」とか「何度も」という意味が込められているのです。

 ところで、イエス様の弟子ペテロは二回も三度の告白をしているのです。

 さて、弟子のペテロたちは、イエス様が十字架刑にかかり死んだ後、どうしていたでしょう。弟子たちはがっかりして故郷のガリラヤ湖畔に帰り、漁師に戻りました。そして魚を捕っていたのです。そこに突然、復活されたイエス様が現れました。ペテロたちはびっくりしました。そして弟子のペテロに向って三度同じような質問をイエス様は投げかけたのです。「ペテロ、あなたはわたしを愛しますか。」 ペテロは答えます。「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」「では、わたしの小羊を養いなさい。」と言ってキリストの教会を建て上げる使命をペテロに与えました。こうしたやりとりの会話が三度も繰り返されたのです(ヨハネの福音書21章を参照)。

 「三度」、それは何を意味していたのでしょうか。実はイエス様が十字架刑にかかる前、夜、裁判が行われました。夜の闇に紛れてペテロは裁判の庭にいたのですが、女中たちに見つかり、捕まるのが恐くなりました。そして、「私はイエスの弟子ではない」と三度も告白してしまったのです。「三度」、それはイエス様への十分な裏切り行為でした。そんな意気地なしで自己嫌悪に陥っているペテロの前に復活されたイエス様が現れてくださったのですね。自分を捨てた裏切り者の前に現れただけではなく、ことばをかけてくれたのです。しかも三度もです。ペテロに対する憐れみ深いイエス様の赦しと回復、そして新しい使命へ遣わす姿を私たちも忘れないようにしましょう。

 復活されたイエス様のことばです。
安かれ。・・・わたしもまたあなたがたをつかわす・・・聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされる」 ヨハネ福音書20章の21節から23節 (口語訳)

( PBA制作「世の光」2007.04.11放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■見ないで信じる幸い

2007年04月10日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今週はイエス・キリストが十字架につけられ復活されたことを記念する週を迎えています。

 よみがえられたイエス様は、堅く戸を閉ざし恐れおののく弟子たちの家に行かれ、御自分を現わしてくださいました。弟子たちは復活されたイエス様を見て大喜びです。しかしこの時に弟子の一人であったトマスという人は、どこかに行っていたらしく、復活されたイエス様にお目にかかることができませんでした。

 トマスが仲間たちのいる場所に戻ってみると、みんな興奮しているではありませんか。「おいトマス、どこに行ってたんだ。俺達の先生が復活されたんだ! すごいよな、あれは決して幻じゃないぞ、手と脇腹の傷がちゃんとあったもんなあ。トマス、残念だったなあ、どこに行ってたんだよう。俺達の主はよみがえられたぞー。」こんな会話が続いたでしょう。しかしどうでしょう。トマスは仲間が興奮すればするほど冷めてくるんです。人とはそういうものですよね。そして冷たくこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れなければ、決して信じない。」こう言い放ったのです。(ヨハネの福音書 20章25節参照)

 でもその八日目に、もう一度イエス様は弟子たちのもとに来られました。イエス様は、「トマス、あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。わたしのわきに差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネの福音書 20章27節参照)と言われたのです。そして、(トマスが「私の主。私の神。」と言うとイエス様は)「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書 20章29節)と言われたんですねえ。

 さて、イエス様の復活の事実が伝えられていく時、どうしても必要なことは、弟子たちがあの疑い深いトマスも含めて、復活のイエス様の確かな確かな目撃証言者だったということなんです。そして彼らは大胆に自分たちの見たことを喜びを持って全世界に伝えて行きました。だからこうした人たちの目撃証言に支えられているので二代目三代目のクリスチャンたちはイエス・キリストの話を聞いただけで見ないでも信じることができていった訳です。そしてそれは本当に幸せな事だとイエス様は言われたんですね。

 今私たちにとっての幸いは、イエス様を実際にこの目で見なくても、弟子たちが味わった同じ感動を、同じ喜びを持つことができるということなんです。信じるということは、肉眼で見なくても、確かな証言の上に立った聖書の約束のことばを受け入れることから始まるんですね。

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(ペテロの手紙第一 1章8節) 聖書のことばです。

 
 ( PBA制作「世の光」2007.04.10放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■よみがえりの朝

2007年04月09日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。今週もイースター特集の番組です。

 昨日はイースターだったんですね。キリストの復活を記念する日でした。教会では特別なプログラムをもってこの日を記念しお祝いをしたと思うんですけれども、あなたはどのようにお過ごしになったでしょうか。

 えー、私はですね、いつか何年か前になりますけれども、キリストが葬られた場所はここだろうと言われるその所に行ったことがあるんですね。で、その中に入っていきますと、そうですねえ、4畳半か6畳くらいの広さがあったでしょうか。中はもちろん空っぽですね。そこへ何人か外国からみえた、自分も外国から行った訳ですけども、(人たちが)おられてですね、私はその方に「イエス様はここにはいませんね」ってこう言ったんです。そしたら「もちろんですよ、イエス様はよみがえられたんですから、ここにはいらっしゃるはずがありませんよ」っていうことを言われてですね、「そうですよねえ」って言いながら二人で「主の御名を讃美いたします」って言ってですねえ手をパチンと合わせたその時のことを忘れることができないんですけれどもね。

 ヨハネの福音書の20章の所を(見ますと)、マグダラのマリヤという人が、葬られたイエス様はどうなっているかなあという事が気になって、そして墓に、復活の日の朝つまりイースターの朝になる訳ですけれども、やって来たんですね。そうしたら(入口を塞ぐ)石が取りのけられていて、覗いてみると中は空っぽになっていて、そしてその頭に巻かれていた布切れ、それからちょっと離れた所に身体を巻いていたその布切れがそっくりそのまま残っているという様子を見た訳ですね。で、弟子たちにそのことを知らせたりしたんですけれども、そのマグダラのマリヤにイエス様が現れて「マリヤよ」って声をかけてくださったという、よみがえりの主にお会いしたというその素晴らしい出来事の記事が書かれている訳なんですね。

 先ほど申し上げたように、イエス様のお墓、そこは空っぽです。イエス様はよみがえられたのですからね。そしてイエス・キリストは今も生きて信ずる者の心の中に住んでくださり、そして目には見えませんけど共にいて私たちを励まし助けてくださる。私たちは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった、それだけではない、よみがえってくださった、このことは何と素晴らしいことか、っていうことを覚えたいと思いますねえ。

 ( PBA制作「世の光」2007.04.09放送でのお話しより)

******

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする