2021.5.21放送
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今週の箇所、ルカ3章では、イエス・キリストに至るまでの系図が出てきます。
そこにはイエス様が三十歳で神のことばを語り始められたことが記されています。ここで聖書は、人々からヨセフの子と思われていたと、わざわざ記します。しかし、私たちは知っているんです。イエス様と父親ヨセフは血が繋がっていないということ、聖霊によって身籠ったマリヤを通して生まれたイエス様は、ヨセフと実際には血縁関係はなかったのです。
しかし、イエスは人々からヨセフの子と思われていた、というのは、イエス様はヨセフの子として、きちんとその人生を生き抜かれたということです。イエス様はヨセフに対して、「あなたは、わたしの本当の父ではない。」などと言われなかったのです。
大工の父を持ち、そこでその家族の中をきちんと生きていかれました。父親から、大工の手ほどきも受けたでしょう。時には、父ヨセフの機嫌の悪い時などは怒鳴りつけられたこともあったかもしれません。また、ヨセフとマリヤの夫婦げんかを目にして、兄弟との確執の間に立つこともあったでしょう。そして、先に夫を亡くした母の苦しさを知り、経済的な厳しさがイエス様家族にどんなに不安定さや、苦しさを与えるかということもイエス様はご存じであったのです。
つまり世間知らずでイエス様の神のことばを語る働きは始まったのではないということです。三十年間、人間の苦渋を、人生の苦汁をなめられました。働くことのしんどさ、お金を稼ぐことのしんどさ、家族を養うことの厳しさをイエス様はご存じでした。さらに、十代、二十代の時期に、イエス様は会堂での安息日礼拝を持っておられました。イエス様は神の子ですから、神のことばは誰よりもご存じであったはずです。しかしイエス様は、会堂に通われて聖書を直接学ばれたんです。
イエス様は、自分が神の子であるから聖書を学ぶことを軽んじられたり、軽んじるように弟子たちに語られたりはしませんでした。十字架の上のイエス様の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りは詩篇22篇の祈りです。この詩篇が、あの十字架の苦しみの中にあっても口からこぼれ出るということは、みことばに親しみ続けられた二十代が、イエス様の人生の中にあったことが分かります。
私たちもイエス様のように家族を愛し、みことばを愛し、そして日々忠実に仕えていきたいと思います。
( PBA制作「世の光」2021.5.21放送でのお話しより )
********
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******
このサイトは URL名として http://yonohikari.biblica.info が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。