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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の祈り 9 / 大嶋重徳

2015年03月17日 | Weblog
2015/3/17放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。主の祈りは「天にまします」と祈ったあとに「父よ」と祈ります。

 ここで一つの問いを皆さんにしたいと思います。すべてを知っておられる神に祈る必要はあるのか、という問いです。悟りを語る仏教において親鸞は無祈祷を語りました。悟り得たものが一体何を祈るのだろうかという意味です。もし祈らなければならない神であるならば、その神は実は何も分かっていない愚かな神だとも言えるでしょう。皆さんはこの問いにどのようにお答えになるでしょうか。

 この問いの答えはこうです。私たちが祈る神様は宇宙の概念でもなく、自然界そのものでもありません。祈る先におられる神は父と言われる人格的な神様だということです。

 私の息子が小さかった時に、家族で一緒にお出かけをしました。公園でキャーキャー言いながら遊んだあと、その帰りの車の中で、息子は今日一日あったことを話してくれるんです。「お父さん今日ねえ、僕はねえ、滑り台で滑ってると、もうすごい勢いで、すーっと滑ってものすごい怖かったんだよ。」 その話を聞きながら私は「いやいや、お父さん、そこにたでしょ。もうその事は知っているからそんな話を今しなくていいよ。」なあんて言いません。息子が私に嬉しそうに話してきてくれることは私も嬉しいのです。
 また娘の誕生日には一緒に買い物に行きます。娘に、「何が欲しいの?」と聞きながらも、本当は妻から娘が欲しいものが何かは聞いて知っているのです。しかし、買い物をしながら、「何がいいかなあ」と二人で話している時間が私にとって喜びなのです。

 神様が私たちの父である神であるならば、キリスト教信仰においても祈らずとも神はすべてを御存知であると言い得ます。しかし、私達の信じている神様は祈りという交わりに私たちが入って来ることをこの上もなく喜んでおられる父という神様だということです。祈りの中で今日私にあったことをあれやこれやと一緒に話したいと願っておられる神様です。この父と呼ばれる神様が私たちの祈りを今日も聞きたいといって待っていてくださいますから、私たちはすべてを知っておられる神様になお今日も祈りを捧げたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.3.17放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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