2015/3/30放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今週はイースター・スペシャルとしてイエス・キリストの十字架と復活についてのお話をお届けいたします。
イエス・キリストが十字架につけられたことは聖書に記されていることです。しかしそれはとても理不尽なものでした。当時のユダヤ当局者たちはイエス様を捕え、いい加減な審問を行い、ついにはローマから送られた総督ピラトのもとに、イエス様を訴え処刑してもらうために連れ出しました。
しかし総督ピラトは彼らがイエスへの妬みによってこのようなことをしたということを見抜いていました。ピラトはイエス様を調べるんですけど、当時のローマ法に照らし合わせても死刑に価する罪を見いだすことができませんでした。そこで彼はユダヤ最大の祭りである過ぎ越しの祭りの時に囚人の一人に恩赦を与え釈放する習慣があったのでイエスをその恩赦の対象にすればいいのではないかと考えたのです。しかしピラトの提案に対してユダヤ当局者たちは、イエスではなく強盗であり人殺しであった何と極悪人のバラバを釈放しろと要求してきたんですねえ。そしてピラトは自分の計画通りにいかないこうした現実を見て、いとも簡単にイエス様を十字架につけることを許可してしまいました。
十字架刑は両手両足に釘を打ち付けられ、そして激痛と飢えと渇きの中で死ぬまで放置されるとても残酷な処刑方法です。
しかし何も悪いことした訳ではなく罪を何一つ見いだすことのできなかったイエス様はどうして十字架につけられたのでしょう。悪いことをしていないのに十字架につけられることほど理不尽なことはありませんよね。しかしここにこそ十字架の深い意味があるのです。
聖書は、罪のない人間など一人もいない、と記します。そして、罪から来る報酬は死だ、と教えるんです。つまり人は自分の罪によって正しい神様の御前に申し開きできるものは誰一人いない、その罪のゆえに神の御前ではみな有罪となるべき存在だ、と教えているんです。
でもイエス様が全く罪が無いのに十字架についてくださったということは、一人ひとりの罪を肩代わりするために身代わりとなって十字架についてくださったということを教えているんですね。聖書はこう教えています。第二コリント5章21節
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
こう書かれています。
十字架についてくださったイエス様がいてくださるからこそ、あなたの罪が赦されるその道が開かれていったんですね。
(PBA制作「世の光」2015.3.30放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今週はイースター・スペシャルとしてイエス・キリストの十字架と復活についてのお話をお届けいたします。
イエス・キリストが十字架につけられたことは聖書に記されていることです。しかしそれはとても理不尽なものでした。当時のユダヤ当局者たちはイエス様を捕え、いい加減な審問を行い、ついにはローマから送られた総督ピラトのもとに、イエス様を訴え処刑してもらうために連れ出しました。
しかし総督ピラトは彼らがイエスへの妬みによってこのようなことをしたということを見抜いていました。ピラトはイエス様を調べるんですけど、当時のローマ法に照らし合わせても死刑に価する罪を見いだすことができませんでした。そこで彼はユダヤ最大の祭りである過ぎ越しの祭りの時に囚人の一人に恩赦を与え釈放する習慣があったのでイエスをその恩赦の対象にすればいいのではないかと考えたのです。しかしピラトの提案に対してユダヤ当局者たちは、イエスではなく強盗であり人殺しであった何と極悪人のバラバを釈放しろと要求してきたんですねえ。そしてピラトは自分の計画通りにいかないこうした現実を見て、いとも簡単にイエス様を十字架につけることを許可してしまいました。
十字架刑は両手両足に釘を打ち付けられ、そして激痛と飢えと渇きの中で死ぬまで放置されるとても残酷な処刑方法です。
しかし何も悪いことした訳ではなく罪を何一つ見いだすことのできなかったイエス様はどうして十字架につけられたのでしょう。悪いことをしていないのに十字架につけられることほど理不尽なことはありませんよね。しかしここにこそ十字架の深い意味があるのです。
聖書は、罪のない人間など一人もいない、と記します。そして、罪から来る報酬は死だ、と教えるんです。つまり人は自分の罪によって正しい神様の御前に申し開きできるものは誰一人いない、その罪のゆえに神の御前ではみな有罪となるべき存在だ、と教えているんです。
でもイエス様が全く罪が無いのに十字架についてくださったということは、一人ひとりの罪を肩代わりするために身代わりとなって十字架についてくださったということを教えているんですね。聖書はこう教えています。第二コリント5章21節
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
こう書かれています。
十字架についてくださったイエス様がいてくださるからこそ、あなたの罪が赦されるその道が開かれていったんですね。
(PBA制作「世の光」2015.3.30放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。