世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。
イエス様はこの地上を去って行かれる直前に、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと一緒にいます。」(マタイ の福音書28章20節参照 )というふうに約束をされました。それは、どんな道でもどんな状況の中ででも「わたしはあなたと一緒にいます」というふうな意味でした。でも私たちはしばしばイエス様が一緒にいてくださるということを忘れて、独りぼっちでああ大変だなあと思いながら歩んでしまっていることもないわけでもないと思うんですね。
あのー、イエス様がよみがえられた後ですけれども、二人の弟子がエマオという所、道の途中で、「イエス様はとうとう十字架にかかって死んじゃったよねえ。でも、よみがえったっていうことが噂になってるんだけど、一体どういうことなんだろうか。」というふうなことを話している時に、イエス様の側で近づいて彼らと一緒に歩いていかれたっていうことが書いてあるんですねえ。ですけどその弟子たちはイエス様が一緒にいるということを気がつかないで「イエス様はどうしちゃったんだろう」というふうなことをまあ話していたというふうなことですね。
で、旧約聖書の箴言という所がありますけども、その中で、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言 3章6節)ということばがあるんですが、これがそのギリシャ語の聖書で見ますと、 「あなたの行く所どこにおいても、あなたと共にいる主を認めよ。」というふうに訳すことができるというふうに言われているんですね。「あなたと共にいる主を認めよ。」ということですね。
有名なあの『フットプリント』(足跡)という詩があって、夢の中で海岸に二人がずっと歩いている足跡が見えた。(ああ、あれはイエス様と一緒に歩いた足跡なんだな。) でもある所からその足跡が一人分の足跡しかなくなっている。(ああ、あの時私が一番大変な時だったのに、あの時にイエス様は一体どこに行っちゃったんだろう。) いうようなことを思っていた時に、「実はあなたが一番大変な時に、わたしはあなたを背負って歩いていたんだよ。」というようなこと。
私たちは自分が苦しい時、本当にイエス様が一緒にいてくださったらなあって、神様が一緒にいてくださったらなあというふうに思うような時、それが気がつかないでも、でもイエス様は一緒に、神様は一緒にいてくださらない時はないのだということをいつも認めながら、毎日毎日神様が私と共にいる、イエス様が共にいるということを自覚しながら生きる毎日は何と幸いなことかなあというふうに思わされます。
( PBA制作「世の光」2007.01.22放送でのお話しより)
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