ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

「ロハスの思考」

2007-08-07 16:29:35 | 本や言葉の紹介
 このところ立て続けに、環境問題について考える機会がありました。

 私は福岡伸一さんの考え方が好きです。福岡さんについては2006年12月6日にも書きましたが、今日は「ロハスの思考」(木楽舎 ソトコト新書)から抜粋してご紹介します。


 なぜ、私たちは他の生命を奪ってまで食物をとり続けなければならないのだろうか。それは生きるということが、私たち自身の身体を、地球における分子の大循環の中にさらして、環境そのものに参加するということにほかならないからである。そのとき環境は、私たちの体の中を通り抜けていく。環境を考えることは、私たち自身の在り方を考えるということである。

 環境の世紀といわれる今、私たちが再考せねばならないことは何か。
 第一に必要なのは、環境が人間と対峙する操作対象ではなく、むしろ、人間を通り抜けている流れそのものだという視点である。炭素でも窒素でも、地球上に存在する各元素の和は大まかにいって一定であり、それが一定の速度で流れゆく中で作られる緩い“結び目”が、それぞれの生命体である。
 流れはめぐりめぐってまた私たちに戻ってくる。そこで第二に必要となるのは、できるだけ人為的な組み替えや加速を最小限にとどめ、この平衡と流れを乱さないことが本当の意味で環境を考える――すなわち、私たち自身の生命を大切にする――ことにつながるという認識である。

 実は、専門家のいう“科学的な”言説ほど、私たちが自分にぴったりした生き方を見つける上で阻害的に働くものもない。なぜか。単純なことである。完全に中立な専門家などいないからだ。専門家は職業であり、彼らはそのテクノロジーが広まることで糊口をしのいでいる。だから常に彼らはある選択しに関して、リスク対ベネフィットの説明に一定の省略を行い、何らかのインセンティブを設けて、そのテクノロジーを受け入れる方向に誘導する。
 専門家がもし素人に対して、何らかの優位性があるとすれば、そのテクノロジーの“危うさ”に気がついている、ということだ。

 「時間」だ。組み換え作物と品種改良が同じだとする議論には時間の観念が抜け落ちている。長い時間の中で自然はその平衡点を見出す。それを私たちは自然だと感じる。急いで部分を組み換えたものは平衡からはずれ、いずれ自然はそのズレを取り戻すために揺り戻しを行うだろう。だから私たちはそこに不自然を感じるのだ。
 私たちが今、探すべきコトバはおそらく“時間”のように基本的で懐かしいコトバのはずなのだ。なぜなら、それは私たちの五感に、等身大の知覚に基づいたものだから。永い永い地球史のプロセスにおいて、私たちはこの感覚によって安全なものと危険なものを、自然なものと不自然なものを、見分け、嗅ぎわけ、選び取ってきたのだ。それは今もなお少しも変わっていないはずである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿