武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。
(↑これをクリックするとホームページに行きます)
私の役割のなかで大きな部分を“旅の同伴者として在ること”が占めていると思っています。
「ふうるふうる」においでくださるかたが、“ご自分で、現在の生きにくさを作っているストーリーではなく、それに代わる新たな語り(ナラティヴ)を作ること、そしてそれを生きること”ができるようになる旅をするときの同伴者です。
簡単に言ってしまえば、自分自身を納得できる物語を生き直すという意味での物語セラピー(ナラティブ・セラピー)のアシスタントをしているのだなあと思っています。
私自身も自分の物語を構成し直し、生き直し・育ち直しをしてきました。
このところ、「ゲド戦記」や「めざめれば魔女」などのすぐれた児童書を多く翻訳した児童文学者で青山学園女子短期大学教授の清水眞砂子さんのエッセイ集を4冊ほど集中的に読んだのですが、“物語とは何か”や“生きること”について、また多くのことが胸におさまった気がしました。
いくつか紹介させてください。
★「幸福の書き方 新装版」(洋泉社)から
●ヴァルター・ベンヤミンが「ストーリー・テラー」というエッセイの中で、小説と物語を対比させて書いていますね。生きることに意味があるかないか、それを問いかけるのが小説であり、生きることには意味があるということを大前提として書かれるのが物語だと。生きることに意味があるということは、別の言葉で言うと、成長することをプラスと考えているということですね。そして、成長することがプラスだと考えるのがまさに児童文学の精神なのだと思います。
●「どう生きたらいいか」というのは、さらにいうと、「何を幸福と考えるか」ということでもあるのではないでしょうか。
★「幸福に驚く力」(かもがわ出版)から
●人は希望を持ち続けることよりも、絶望することのほうがずっと楽ではないでしょうか。「人間なんて」とたかをくくるよりも、「人間って、案外おもしろいぞ」と思うほうがエネルギーがいる。安易に希望を語るのはいやですが、希望を手放してはダメだと私は思っています。そしてそこにこそ、児童文学の存在の根拠があるのだと。だとすると、それは子ども、大人を問わず、人びとを支え勇気づけるものとなるのではないでしょうか。
●このごろ何かを否定するのと肯定するのと、どっちが楽なんだろうとよく考えます。私は若いころから肯定するほうが楽で、否定するのは大変だと思っていました。けれども、そうではないのではないかとだんだんに思うようになりました。とりわけ人生を肯定するのは大変なことです。人生を否定するほうが楽です。人生なんてどうせと言う人と、人生もまんざらではないよと言う人と、どちらが大変か。どちらがよりエネルギーを使って生きているかといったら、人生まんざらではないよという人のほうが、おそらく何倍ものエネルギーを使って生きているのではないかと思います。
●フィリッパ・ピアス自身が言ってました。「私の人生は決してイベントフルな人生ではなかったと思う」と。私から見れば相当イベントフルだと思うんですが。
相当辛い人生を歩んできていると思うのですけれど、にもかかわらずピアスは、人生なんてどうせ、などとは言わない。辛いこともいっぱいあるけれど、でも、その否定のあげくに人生を肯定しているんです。「生きてごらんよ、人生ってやっぱりいいよ。生きるに値するよ」と、いろんな形で手を変え、品を変え、子どもたちに伝えようとしている。
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私の役割のなかで大きな部分を“旅の同伴者として在ること”が占めていると思っています。
「ふうるふうる」においでくださるかたが、“ご自分で、現在の生きにくさを作っているストーリーではなく、それに代わる新たな語り(ナラティヴ)を作ること、そしてそれを生きること”ができるようになる旅をするときの同伴者です。
簡単に言ってしまえば、自分自身を納得できる物語を生き直すという意味での物語セラピー(ナラティブ・セラピー)のアシスタントをしているのだなあと思っています。
私自身も自分の物語を構成し直し、生き直し・育ち直しをしてきました。
このところ、「ゲド戦記」や「めざめれば魔女」などのすぐれた児童書を多く翻訳した児童文学者で青山学園女子短期大学教授の清水眞砂子さんのエッセイ集を4冊ほど集中的に読んだのですが、“物語とは何か”や“生きること”について、また多くのことが胸におさまった気がしました。
いくつか紹介させてください。
★「幸福の書き方 新装版」(洋泉社)から
●ヴァルター・ベンヤミンが「ストーリー・テラー」というエッセイの中で、小説と物語を対比させて書いていますね。生きることに意味があるかないか、それを問いかけるのが小説であり、生きることには意味があるということを大前提として書かれるのが物語だと。生きることに意味があるということは、別の言葉で言うと、成長することをプラスと考えているということですね。そして、成長することがプラスだと考えるのがまさに児童文学の精神なのだと思います。
●「どう生きたらいいか」というのは、さらにいうと、「何を幸福と考えるか」ということでもあるのではないでしょうか。
★「幸福に驚く力」(かもがわ出版)から
●人は希望を持ち続けることよりも、絶望することのほうがずっと楽ではないでしょうか。「人間なんて」とたかをくくるよりも、「人間って、案外おもしろいぞ」と思うほうがエネルギーがいる。安易に希望を語るのはいやですが、希望を手放してはダメだと私は思っています。そしてそこにこそ、児童文学の存在の根拠があるのだと。だとすると、それは子ども、大人を問わず、人びとを支え勇気づけるものとなるのではないでしょうか。
●このごろ何かを否定するのと肯定するのと、どっちが楽なんだろうとよく考えます。私は若いころから肯定するほうが楽で、否定するのは大変だと思っていました。けれども、そうではないのではないかとだんだんに思うようになりました。とりわけ人生を肯定するのは大変なことです。人生を否定するほうが楽です。人生なんてどうせと言う人と、人生もまんざらではないよと言う人と、どちらが大変か。どちらがよりエネルギーを使って生きているかといったら、人生まんざらではないよという人のほうが、おそらく何倍ものエネルギーを使って生きているのではないかと思います。
●フィリッパ・ピアス自身が言ってました。「私の人生は決してイベントフルな人生ではなかったと思う」と。私から見れば相当イベントフルだと思うんですが。
相当辛い人生を歩んできていると思うのですけれど、にもかかわらずピアスは、人生なんてどうせ、などとは言わない。辛いこともいっぱいあるけれど、でも、その否定のあげくに人生を肯定しているんです。「生きてごらんよ、人生ってやっぱりいいよ。生きるに値するよ」と、いろんな形で手を変え、品を変え、子どもたちに伝えようとしている。