ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

患者さんに訓練される……河合隼雄さんの言葉

2017-04-25 08:48:41 | 大地震関連

 『生きるとは、自分の物語をつくること』(河合隼雄・小川洋子 新潮文庫)からもうひとつ抜粋します。


小川 患者さんによって、カウンセラーも深められるというところがあるんでしょうか。

河合  それどころか、われわれは常に患者さんに訓練されています。作家の方が書くごとに成長されるのと一緒です。僕らが一番鍛えられるのは、来られる方によってです。

小川  一段高いところにカウンセラーがいて、引っ張り上げるのではないんですね。

河合  引っ張り上げるという感覚はないですね。鍛えられて、教えられて、鍛えられて、教えられて、だんだんだんだん訓練される。そういう感じです。人は一人一人違う。同じ人が来るはずはないので、前のことを生かしてやるいうことは、ほとんどあり得ない。


 本当にそう。


「原悲」

2017-04-23 11:49:17 | 本や言葉の紹介

 前回・前々回で『どうせ死ぬのになぜ生きるのか  晴れやかな日々を送るための仏教学講義』(名越康文 PHP新書)を紹介しましたが、 『生きるとは、自分の物語をつくること』(河合隼雄・小川洋子 新潮文庫)で 「悲」についての河合隼雄さんの発言を見つけました。
 この本、とても面白く興味深く読めたので、続きがあるならぜひ読みたいと思ったら……この本のタイトルのもととなった対談をしたのが2006年6月15日で、河合さんが倒れられたのがそのすぐあとの8月17日とのことで、とっても残念。

河合 キリスト教は「原罪」が基本であるけれど、日本の宗教は「悲しみ」が根本になるのが多いです。
小川  情緒的というか感情的なんですね。
河合  だから僕は、「原罪」に対して「原悲」があるという言い方をしています。日本のカルチャーは原罪じゃなくて、原悲から出発しているから、と言っているんです。
小川  日本語の「かなしい」という言葉には、いろいろな意味がありますものね。
河合  「悲しい」や「哀しい」、「愛しい」も「美しい」も全部「かなしい」ですからね。

  悲しみが根本になる宗教かぁ、うーん。


「慈悲」の「悲」 2/2

2017-04-18 16:48:27 | 大地震関連

●「愛」を知らない日本人は「慈悲」に生きればいい
 そもそも僕らは西洋における「love」の訳語である「愛」を正確に理解しないまま、日常語として使ってしまっています。
 僕らは「愛」という言葉を聞くとすぐに「あの人が好きだ」「一緒にいたい!」という、恋い焦がれるような感情をイメージします。こういった「恋愛」には、明らかに相手を所有しようとしたり、相手を自分と同一化し、コントロールしようとしてしまう気持ちが含まれています。
 仏教ではこうした「恋愛」は煩悩であり、捨て去るべき感情と考えられています。なぜこういった感情が否定されるかといえば、こうした「恋愛」には、相手に対する「敬意」が欠けているからです。

 日本人は「愛」という言葉を定義づけないまま、ナルシスティックな感情にまかせて「愛」という言葉を使ってしまっているのです。
 だとすれば僕ら日本人は、自分でもよくわからない「愛」などという言葉にこだわるよりも、(まだまだ理解が十分ではないにしても)自分たちの文化に根づいた「慈悲」を大切に育てるべきではないかと思います。


  なんかね、かなーり納得しました。


「慈悲」の「悲」 1/2

2017-04-17 10:09:23 | 本や言葉の紹介

 「慈悲」ってなんで「悲」という漢字が使われているのだろうなあと気になって調べたことがあり、悲しいという意味の他にもあわれみなどの意味もあると知ったのですが、なんかいまいち解決しないなあという思いがありました。
 仏の慈悲とは神の愛と同じというような解説を読んだこともあるのですが、なんか違う感じなんだよなあと思っていました。
 また、「愛」という言葉を振りまいている人がいます。神の愛をイメージして使っているようですが、その「愛」という言葉を、自分の欲望を相手に押しつけるために利用しているように見えるので、それは「愛」じゃないよねえと思って首をひねっていました。
 つい最近読んだ『どうせ死ぬのになぜ生きるのか  晴れやかな日々を送るための仏教学講義』(名越康文 PHP新書)に、疑問に思っていることに対して、こんなふうに考えるとわかりやすいなあと思ったところがあるので抜粋します。

●慈悲とは東洋の「愛」である
 そもそも「慈悲」とはなんでしょうか? キリスト教の「愛」に対して、仏教の「慈悲」が比較されることもあるぐらい、仏教においては大切な言葉なのですが、これは理論的には「慈」と「悲」からなる言葉です。
 「慈」というのは、「相手が人間として成長していくこと」を願う気持ちです。「相手の成長を願う」というとずいぶん偉そうな印象を受けるかもしれませんが、「慈」というのは、決して相手を下に見ることではありません。仏教ではすべての人間の中に「仏(本来の自分)」があると教えます。「成長」とは、自分の中にある仏(本来の自分)に気づくことであり、「慈」とは、それを思い浮かべて祈る、ということなのです。
 一方、「悲」というのは「相手の立場を理解する」ということです。言葉や論理のレベルで理解する、ということではなく、身体的な感応を高め、相手と同調することによって得られる共感のことです。他人の辛い気持ち、しんどさ、といったものが自然と、心の底で共鳴するように感じ取れることを「悲」と呼ぶわけです。
 「慈悲」とはこの二つを合わせたものであり、一言でまとめれば「相手の心に感応したうえで、相手の成長(仏=本当の自分に気づくこと)
を願う」ということになるでしょう。

 僕らが日常的に抱いている「愛情」と、仏教の「慈悲」というのは、ずいぶん性質の違うものだということに気づかれたのではないでしょうか。
 例えば小説や漫画、映画に現れる愛情表現を見ても、自分の恋人に対して「素敵な人に成長してね」と願う登場人物はあまり登場しません。むしろ、「ずっと私のことを愛していてね」と、相手の感情が変わらないことを「愛」として取り扱うものが非常に多いのです。
 そういった「愛」は、相手を所有し、同一化しようとする「愛」であり、それは「慈悲」とはかけはなれたものになってしまうでしょう。


幸太君、血糖値安定でgoodざます

2017-04-15 18:19:20 | よもやま話

 猫の幸太君、最近すこーしだけど多めに食べてくれて、でも水を飲む量が多めかなという感じなので糖尿病が悪化したんじゃないかと気がかりで、びくびくもので血糖値検査をしてもらったら、なんともなし! 体重もほんの少し減ったけどほぼ変わりなし。
 goodでございますわいなぁ。本当にほっとしたわよ。
  よかったよかったよかったね!

 今日は風が強めの中、ちょっと外出をしたんだけど、桜の花びらが光りながら舞って、柳のきれいな緑が風に揺れて、ハナニラは星のように咲き群れ、タンポポがびっしりと黄色と緑の絨毯(じゅうたん)をつくり、ヤマブキも黄色い花が咲き始め、ありゃまあなんて美しいんだろ。そろそろ晩春かぁとうっとりしてましたよ。 
 んー、季節の移り変わりとともにヒノキ花粉が出はじめたようで、花粉症の症状がちょっと変わってきたよ。喉と鼻が乾く感じになってきた。
 そうなると、ビールがよりおいしく感じるんだよねえ。
 えへへ、ということで、幸太さまの血糖値安定に乾杯! 


『女子の武士道』から 8/8 頭を垂れ腰を低うできる、本物の気高さと強さを身につけるのです

2017-04-13 08:38:51 | 本や言葉の紹介

 「えばりんぼほど中身がないということを覚えておいで。稲穂はたわわに実れば実るほど頭がひくうなる。稲穂じゃなくとも、豊かに実れば枝先は低うなる。人間もまったく同じで、おのれ自身が豊かな人ほど心が寛大になるから腰が低うなるのですよ。それも、立場が弱い者であるほど、相手に対する憐憫も手伝って、自然と頭を下げるようになる。それこそが真の気高さというものではないかと思いますがね」

 はい。


『女子の武士道』から 7/8 最後の判断はつねに自らなさい。すべての責任を負う覚悟でなさい

2017-04-12 12:13:49 | 本や言葉の紹介

 「どうしたものかわからないとき、どっちを選んだものか迷うときは、結局のところ何がいちばん大事なのか、これだけは失のうてはならないというものをたったひとつだけ考えるようにしましたよ。
 そのためには身内に我慢を強いることもあるし、相手に対して鬼のようにならねばならぬこともある。いずれにしても、おのれがきちんと決めることですよ。人に聞くのはあくまで意見のみ、最後の判断はいつでも自らせねばなりませぬ。そうなればすべても責任はおのれにかかってくる。ひるがえってみれば、すべての責任を負う覚悟がなければ、一大決心などできようはずもない」

 誰かの意見通りにして思うとおりの結果が出なくても、その意見の通りにしようと決めた自分にすべての責任があるんだよ。


『女子の武士道』から 6/8 人の上に立つ以上は寛大に、そして自ら隙をつくりなされ

2017-04-11 10:07:46 | 本や言葉の紹介

 「一から十まで何もかも自分がやろうとはなさいますな。上に立つ者の行うべきは、みなが働き安うなるように才覚を使うことです。みなをよく見て理解し、それぞれの能力をうんと使えるように智恵を絞りなされ。ただし、いかにもみなのことを考えてるふうな様子はけっしてなさいますな。みっともないですえ。それから下の者のやることについて寛い心で構えなされ。仕事の智恵を話しに来た者については、よく聞いてやりなされ。それがすでに自分で思いついていたようなことでも、初めて聞くようになさい。感心する気持ちを失のうてはなりませぬ。ともかく寛大に寛大に、そして、いかにもおかしらだと威張るよりも、ひょうひょうと隙をつくりなされ」

 みんなをよく見て理解し、それぞれの能力をじょうずに使えるように智恵を絞るって、フェミニンリーダーシップと通じるねえ。
 人を育てるのも上に立つものの行うべきこと。大きな義務だよね。

  寛大にしていて、さらにすきをつくっていると、アホはなめてかかってくるんだよね。そういうアホさんは自滅していくよ。自業自得ってことがわからないからまわりに敬遠されて、自分だけが鼻高々で、自滅していることさえわからない。そんな人間にならないようにつねに自省していきたい。


『女子の武士道』から 5/8 人に認められることよりも、自分で納得できるかが問題

2017-04-10 09:19:55 | 本や言葉の紹介

 「人から認めてもらいたいという思いをバネにして、良い仕事を行う者ももちろんおります。けれど、いつでも誰かが認めてくれるとは限りませんからの。いつかは心が満たされぬようになるものだえ。その点、誰が認めてくれようとも自分が納得できないのであれば評価せぬ、という姿勢は留まるところを知りませぬ。そのような思いで仕事に向かっている者は、どこまでも上達していくものですよ」

 評価されることばかり求めたり、人の評価に左右されるのは、自分の価値を他人に明け渡しているのと同じなんだよ。


『女子の武士道』から 4/8 心を静める方法を持つ

2017-04-09 13:29:39 | 本や言葉の紹介

 お祖母さんが20歳になるころ、世の中全体が不満と閉塞感にさいなまれ、倫理道徳が守られなくなることもあった。

 「年老いてきた父は、言ったものです。でたらめが通る世の中で義を守り徳の道を選び取ることはさぞかし辛かろう。しかし、おのれがその道を捨てたその時が、本当の世の乱れが始まるのだと思え、と。まっとうな人生を歩むかどうかは自分が決めることですからね。真の世の乱れを我とわが身に受けるのは、結局のところ父の言うとおり、自分が非道を選んだときからでしょう」

 心を静める方法をいくつか持っているのは自分を鍛えることに通じる。お祖母さんにとっては書や茶の湯などがその方法であったそうです。
 悲しみや怒りにさいなまれたときにはせっせとひたすら歩き、その思いを抱いている自分から一時期離れ、自分自身がよく見えるようにし、思いに振り回されず落ち着いていようという気持ちをつくったとのこと。

 いったん自分の感情から離れることってとても難しいけど、何か熱中できること、一心に取り組めることがあるといいんだね。習い事って、その方法の一つになるんだ。というより、心を静める方法の一つにできるくらいになれば、習い事って役に立つのかもしれないなあ。習っているだけ、免状を持ってるだけじゃまだまだなんだろうねえ。


『女子の武士道』から 3/8 大切なのは基本・根本・実行

2017-04-08 07:58:46 | 本や言葉の紹介

『女子の武士道』から 3/8 大切なのは基本・根本・実行
 5歳前から四書(中庸、大学、論語、孟子)と日本史の本を与えられたお祖母さんは、なかでも論語を繰り返し学んでそらんじるほどになったそうです。

 「けれど、学んだことを行っていなかったら、学んでないのも同然だ、と父はしじゅう言いました。それゆえ、少しでも日常の行いが間違っていると、それが学んでいない証拠だと叱りつけられるのです。けれど学んだことが大人になって役に立ったのは行ったからですね。やはり頭だけではなりませぬ。」

 「簡単なことであれば、やりやすいものですからの。簡単なことと思うて為さないでおくと根本が身につきませぬ。人は根っこが基本となるのです。根本がしっかりしていないなら、どうして難しいことを為せましょう。これもまた簡単な理屈です。」

 うん、知ってたって使えなくちゃ役に立たない。実行できることが、「知識を智恵にする」ことなんだよねえ。
 いきなりむずかしいことをおこなうのは、それこそむずかしい。身の回りのこと、簡単なことをきちんと実行していくことが「できる力」を蓄えるいちばんの近道だねえ。だから「基本を知ること」と「日常生活を大切にする」ことがだいじ。


『女子の武士道』から 2/8 空元気でも元気は元気。そのうちホントの元気がわいてくる

2017-04-07 08:19:19 | 本や言葉の紹介

 著者が沈んでいるときにお祖母さんは、
 「空元気でも元気は元気。そのうち本物の元気がわいてくるよ
と声をかけてくれたそうです。

 脳科学からいっても、なにかをいやいやながらやり始めても、だんだんと脳がその気になってやる気が高まるそうなので、最初は空元気でも本物の元気がわくってことには納得だなあ。
 とにかく、やってみること、だね。


『女子の武士道』から 1/8 誇りを守るための「やせ我慢」はあっぱれ

2017-04-06 11:51:23 | 本や言葉の紹介

 『女子の武士道』(石川真理子 致知出版社)は、著者が12歳までともに暮らしたお祖母さんの言葉から、「人としての心得」『女性としてのあり方」を紹介したもので、副題は、『武士の娘だった「祖母の言葉五十五」』です(「女子」は「じょし」と読ませています)。
  お祖母さんは明治22年に生まれ、米沢藩士だった父親から武家の娘としての厳格な躾を受け、明治・大正・昭和を生き抜いたとのこと。
 「女は家を守るもの、堪え忍んで生きるもの」なんていう方向や、きな臭い道徳教育などに利用されそうなところもある本だけど、とりあげられているお祖母さんの言葉やその父親の言葉には「そのような心構えで生きたい」と思うものが多いので、いくつか抜粋します。

●陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやる
 武士という身分を失いさらに逆賊の立場に立った明治維新後のことをお祖母さんが父親に聞いたとき、いっそ自害すると言い出さなかったのか、どうして耐えることができたのかと訊ねたそうです。そのとき笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったという父親の言葉から抜粋します。

 「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。
 どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、知恵と心意気で相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ」

 想像もしなかった返事に驚いたけど、これがあっぱれということかと、気持ちが晴れ晴れしたそうです。
 著者の感想は、「見栄を張るためではない、誇りを守るための「やせ我慢」とは、なんと格好いいやせ我慢でしょう。
 ほんとにそのとおり。
 うん、「プライド」という言葉を、見栄を張ることと勘違いしていることってけっこうあるけど、プライドは誇りのこと。誇りを守るためのやせ我慢って好きだ。つらいけど。