美しく賢い猫の幸太君、残念なことにクチャイのよ。
牙が抜けたおかげで歯肉炎がだいぶよくなったんだけど、手入れをしていてもまだにおいが……。よだれが胸や手などについて、いくら拭いてもにおいが……。
暖かくなったら洗おうと思っていたんだけどなかなか気温が安定しなくてねえ。25度ほどになると予想された昨日、ようやく洗えたのよ。
そりゃーお怒りであらしゃいましたが、ひっかかないでくれて、かみつかないでくれて、感謝感謝。
毎日くしけずっていたけど抜けきれなかった毛がごっそり抜けてくれてありがたし。
ドライヤーをかけたけどなかなか乾いてくれなくてちょっと往生しましたわー。
竿にぶら下げて干せたらいいのにのう。
いちばん洗いたい顔が洗えなかったのが心残りなのよねえ。いやがられるけど、毎日じっくり拭いたらなんとかなるかのう。
『答えにくい子どもの「なぜ?」に お釈迦さまならこう言うね!』(増田俊康 主婦と生活社)から。
●「愛ってなに? こたえ 相手から好かれたいという気持ち」
仏教では愛とは元々、相手を自分の思い通りにしたい、好きな人から自分も好かれたい、というわがままな気持ちを指す言葉です。
相手に何かを求めないで、こちらから与える気持ちは、愛ではなく慈悲というのですが、今は慈悲のことを愛と呼んでいるのがほとんどです。だから今は、愛と一言で言っても、わがままな愛と慈悲の愛、二つの愛があるんだね。
みんながもし、相手に何かをしてあげるときに、何かが返ってくることを望んだら、それは慈悲の愛ではなく、わがままな愛と思ってください。本当の愛(慈悲の愛)とは、相手から何かを返してもらおうというものではなく、すべての人に対して、私たちの心からどんどんあふれて湧いてくるものなのです。
イエズス会宣教師が日本に来て日本語=ポルトガル語辞典(日葡辞書 1603年出版)を作ったとき、「愛(神の愛)」を日本語に翻訳するのに大変苦労したそうな。なぜならば、その頃の日本には神の愛(慈悲の愛だねえ)という概念がなかったからだって。
結局「御大切」という言葉を選んだ。うまい選び方をしたねえ。
『答えにくい子どもの「なぜ?」に お釈迦さまならこう言うね!』(増田俊康 主婦と生活社)から。
●「困っている人を助けたい こたえ その気持ちを大切にしながら大人になってください」
お釈迦さまは「自分さえ良ければいいという心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。あなたが他人を助けるのを見た人は、さらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる」とおっしゃいました。
そして、「一つのたいまつから、何千人の人が火を取っても、そのたいまつは元の通りであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということがない」ともおっしゃいました。
それと、自分ができることをする、できないことまで背負わないことも必要だよね。
同じように、キリスト様は「なんじの隣人を愛せ」と言ったけど、「自分を愛するように」って言葉がその前についてる。自分をないがしろにして他人を救えっていうことじゃないんだよ。
他人を助けるために自分を不幸にしてしまうのは本末転倒、よいことではないんだ。
『答えにくい子どもの「なぜ?」に お釈迦さまならこう言うね!』(増田俊康 主婦と生活社)から抜粋します。
●「自分に自信がない こたえ 努力した、という事実が自分を強くする」
お釈迦さまは「自分がだめだと悲しむ人は、だめ人間ではない。自分をよく知らないで、すごい人間だと思っている人こそが本当のだめ人間だ」と言われました。
自分自身に嘘はつけません。だから本当のことをするしかありません。
あなたががんばったとすれば、努力した、ということは間違いなく本当です。
きちんと努力した、という満足があれば、自信はちゃんとつくのです。できなかったことより、できたことを数えよう。
うん、「きちんと努力した」というのが大切だね。見当違いの努力はむしろしないほうがいいよ。
「こういうひとになりたい」と思ったら、じゃあそうなるためには何をしたらいいかをちゃんと考えて、きちんとおこなうことが必要。
前回、「美しい朝」(さだまさし ダイヤモンド社)にふれたので、また抜粋します。
●今やテレビが人を作り、テレビが世の中を作る。今や日本人はみんなブラウン管のなかで暮らしている。人気番組で有名になれば何の実績もない人でも衆院選でも知事選でも当選出来る。
余り本も読まなくなり「雑学の量」と「点数を取る」事が「頭が良い」とまたテレビが刷り込む。
中学生のときの生徒会選挙で、「選挙は人気投票じゃない」と言った先輩がいたなあ。確かに!