ある勉強会の時、「ここでは悲劇のヒロインにならないでください。ここはそういうレベルで傷口をなめあうところではありません」とティーチャーがおっしゃいました。
私は、両親からの虐待から生き延びたサバイバーです。
20代から自分を育て直し、試行錯誤しながらなんとか生きていますが、やはりいまだにかなりの歪みがあります。だからこそ、そのティーチャーの言葉に同感しました。
自分を幸せにできるのは自分。
“今の自分”は、自分が選び、行動した結果がつくりあげたもの。
自分が収穫できるものは、自分がまいた種から実るものだけです。たくさんのかたに、いろいろなきっかけや気づきをいただいても、それを生かすのは自分です。
パワーゲームをやめて、自分で自分を幸せにしていきましょうよ。
他の人の言動を恨みや怒りのもととするのではなく、自分を育てる糧(かて)としていきましょうよ。
「自分は犠牲者なのだから、慰められたり優しくされるのは当たり前」という気持ち、もう手放しましょう。
「自分の不幸さ」で他人をコントロールしたり、自分のやり方以外の方法で物事を処理する人を非難するの、もうやめましょう。
心地よい言葉や優しい言葉なら受けいれるけど、それ以外は自分を傷つけるものと受け止める、そんな自分をちゃんと見ましょう。
どうか、ふうるふうるを、自分を幸せにするために活用してください。もちろんリラックスする場所、自分のすばらしさを再確認する場所、一時避難の場所でもありますが、自己憐憫の涙を蜜をなめるように味わう場所でも、自己愛(ナルシシズム)を満足させる場所でもないのです。
学びあい、自分の道をそれぞれ気持ちよく進んでいけたら、心からうれしく思います。
ご自分をアダルトチルドレンと認識できていて、さらに一歩踏み出したいと望んでいるかたに、「親の毒 親の呪縛」(岸田秀×原田純 大和書房)をご紹介したい。岸田さんも原田さんも大いなるサバイバーです。以下に文章を抜粋しますが、ぜひ1冊丸ごと読んでみてください。
原田 親との関係に苦しんだ人は、親の物語を否定して自分の物語をつくると、今度はそれが絶対に正しいと思いこむ傾向がありませんか? いかに親がひどかったかという物語をつくって、自分はその中でスポイルされたために、こんな人間になってしまった。自分がこんな人間になったのはすべて親が悪いという物語を、強固につくりあげる。
自分でつくった物語に対して疑いをもつことがなかなかできない。でも疑いは必要なんですよね。
加害者である親と、被害者である子どもはうり二つ。親に歪みがあれば、子どもも否応なく歪みを受け継いでいる。誰であれ必ず何かを受け継いでいるんだけど、受け継いでしまったものは、親を批判しても、殺しても消えない。
受け継がされたことを恨むより、受け継いでしまったものをどうするかを考えなければいけない。
岸田 いろんな人とつきあえば、みんなそれぞれ僕についての物語をもっているわけ。
そういうのをわれわれは受け入れ、材料にし、総合して、自分の中で組み立てて、なるべくできる限りは矛盾がないような物語を構築していく。問題は、まわりの世界からいっぱいやってくる材料をどう組み立てるかですよ。
原田 独りよがりではダメだということですね。たとえばアダルトチルドレンという言葉があるでしょ。ああゆう言葉は、自分の物語をつくるときの恰好の材料になる。「私はアダルトチルドレンです」と言っただけで、もう自分の物語ができあがったような気がする。だけど「アダルトチルドレン」はいわば既成の物語で、(自分の)物語をつくる材料でしかない。
だけどそういう既成の物語は、自分の物語ではないんですよ。自分の物語をつくることができないので、まるまる既成の物語に乗っかっているだけです。それではダメなんです。
岸田 親に起因する過去の低い自己評価の物語があったとしますね。その場合、かつて親に軽んじられたということは、自分という存在の不可欠の一部なのですから、そういう要素が自分のなかにあるんだということを認識し、その要素も組み込んだ上での自分の物語をつくらないと、ダメです。
あんなのはぜんぜん間違っていたとして排除して、立派な自分の物語をつくって、それに沿って生きようとしても、排除されたものは人格の無意識的な要素となって、いつも背後からわれわれの足を引っぱって、われわれをつまずかせます。
原田 自分を無垢な被害者に仕立てあげたり、自己憐憫に浸っていたりすると、生きていくための物語はつくれないということですね。
身の上話って、たいていは聞いてもつまらない。「大変でしたねえ」なんて一応は言うけど、正直に言えば退屈この上ない。独りよがりで押しつけがましくて、同情や理解を示さないと怒られたりしてね。でもそれは、話す側に問題があるんですよね。
苦しみや悲しみは、それが本人にとってどんなに理不尽な体験であっても、そもそも人には伝わりにくいものなんです。つらい体験であればあるほど、理解を得るのは困難です。理解されないと、自分の体験はそれだけ重いんだと考えて変な特権意識をもっちゃう人もいるけど、それは自分を甘やかすことでしかない。自分の体験を人に話したとき、それを人がどう受け取ったかを知るのは非常に重要なことなんです。
どうして自分の話は相手に理解されないのか、話し方に問題はないのかと考えたほうがいい。受け容れてもらえない話は、どこかに必ず欺瞞や虚飾があるんですよ。
原田 とにかくできるだけ自己欺瞞がない形で、自分の悪行や歪みなどもきちんと出して、物語をつくらなければならないんですね。
虐待されたがゆえに歪んでしまった自分の醜さを見つめる。
岸田 ええ、虐待された被害だけでなく、その結果、自分が人に及ぼすことになった加害も語らなければ説得力はないですね。そっちの面も必ずあるんだから。それは大変ですよね。
〔原田純による「あとがき」から〕
自分の歪みが親との関係から発していることに気づいた私は、自分なりに、どうしても、その問題を解決しなければならなかった。親との和解のためではない。社会の中でそれなりの幸せに生きていくため、人との関係に支障を来さないため、人を愛し、愛されるためにである。
私は今でも多くの歪みを抱えている。他人との関係を支配被支配で考えがちだし、非難がましいことを言われるとその当不当はともかく、とたんに身構えて反撃に出てしまうし、とうてい克服することなどできないと思うほどの強いコンプレックスを抱えてもいる。しかしこれらの歪みは、もう、親の育てかたや、親との関係に原因や責任があるとは言えない類のものなのである。
歪みを自分のものにしたとき、私たちは同時に、その歪みを正していく力を与えられる。すべては、もう一度、ここから始まるのだ。
私は、両親からの虐待から生き延びたサバイバーです。
20代から自分を育て直し、試行錯誤しながらなんとか生きていますが、やはりいまだにかなりの歪みがあります。だからこそ、そのティーチャーの言葉に同感しました。
自分を幸せにできるのは自分。
“今の自分”は、自分が選び、行動した結果がつくりあげたもの。
自分が収穫できるものは、自分がまいた種から実るものだけです。たくさんのかたに、いろいろなきっかけや気づきをいただいても、それを生かすのは自分です。
パワーゲームをやめて、自分で自分を幸せにしていきましょうよ。
他の人の言動を恨みや怒りのもととするのではなく、自分を育てる糧(かて)としていきましょうよ。
「自分は犠牲者なのだから、慰められたり優しくされるのは当たり前」という気持ち、もう手放しましょう。
「自分の不幸さ」で他人をコントロールしたり、自分のやり方以外の方法で物事を処理する人を非難するの、もうやめましょう。
心地よい言葉や優しい言葉なら受けいれるけど、それ以外は自分を傷つけるものと受け止める、そんな自分をちゃんと見ましょう。
どうか、ふうるふうるを、自分を幸せにするために活用してください。もちろんリラックスする場所、自分のすばらしさを再確認する場所、一時避難の場所でもありますが、自己憐憫の涙を蜜をなめるように味わう場所でも、自己愛(ナルシシズム)を満足させる場所でもないのです。
学びあい、自分の道をそれぞれ気持ちよく進んでいけたら、心からうれしく思います。
ご自分をアダルトチルドレンと認識できていて、さらに一歩踏み出したいと望んでいるかたに、「親の毒 親の呪縛」(岸田秀×原田純 大和書房)をご紹介したい。岸田さんも原田さんも大いなるサバイバーです。以下に文章を抜粋しますが、ぜひ1冊丸ごと読んでみてください。
原田 親との関係に苦しんだ人は、親の物語を否定して自分の物語をつくると、今度はそれが絶対に正しいと思いこむ傾向がありませんか? いかに親がひどかったかという物語をつくって、自分はその中でスポイルされたために、こんな人間になってしまった。自分がこんな人間になったのはすべて親が悪いという物語を、強固につくりあげる。
自分でつくった物語に対して疑いをもつことがなかなかできない。でも疑いは必要なんですよね。
加害者である親と、被害者である子どもはうり二つ。親に歪みがあれば、子どもも否応なく歪みを受け継いでいる。誰であれ必ず何かを受け継いでいるんだけど、受け継いでしまったものは、親を批判しても、殺しても消えない。
受け継がされたことを恨むより、受け継いでしまったものをどうするかを考えなければいけない。
岸田 いろんな人とつきあえば、みんなそれぞれ僕についての物語をもっているわけ。
そういうのをわれわれは受け入れ、材料にし、総合して、自分の中で組み立てて、なるべくできる限りは矛盾がないような物語を構築していく。問題は、まわりの世界からいっぱいやってくる材料をどう組み立てるかですよ。
原田 独りよがりではダメだということですね。たとえばアダルトチルドレンという言葉があるでしょ。ああゆう言葉は、自分の物語をつくるときの恰好の材料になる。「私はアダルトチルドレンです」と言っただけで、もう自分の物語ができあがったような気がする。だけど「アダルトチルドレン」はいわば既成の物語で、(自分の)物語をつくる材料でしかない。
だけどそういう既成の物語は、自分の物語ではないんですよ。自分の物語をつくることができないので、まるまる既成の物語に乗っかっているだけです。それではダメなんです。
岸田 親に起因する過去の低い自己評価の物語があったとしますね。その場合、かつて親に軽んじられたということは、自分という存在の不可欠の一部なのですから、そういう要素が自分のなかにあるんだということを認識し、その要素も組み込んだ上での自分の物語をつくらないと、ダメです。
あんなのはぜんぜん間違っていたとして排除して、立派な自分の物語をつくって、それに沿って生きようとしても、排除されたものは人格の無意識的な要素となって、いつも背後からわれわれの足を引っぱって、われわれをつまずかせます。
原田 自分を無垢な被害者に仕立てあげたり、自己憐憫に浸っていたりすると、生きていくための物語はつくれないということですね。
身の上話って、たいていは聞いてもつまらない。「大変でしたねえ」なんて一応は言うけど、正直に言えば退屈この上ない。独りよがりで押しつけがましくて、同情や理解を示さないと怒られたりしてね。でもそれは、話す側に問題があるんですよね。
苦しみや悲しみは、それが本人にとってどんなに理不尽な体験であっても、そもそも人には伝わりにくいものなんです。つらい体験であればあるほど、理解を得るのは困難です。理解されないと、自分の体験はそれだけ重いんだと考えて変な特権意識をもっちゃう人もいるけど、それは自分を甘やかすことでしかない。自分の体験を人に話したとき、それを人がどう受け取ったかを知るのは非常に重要なことなんです。
どうして自分の話は相手に理解されないのか、話し方に問題はないのかと考えたほうがいい。受け容れてもらえない話は、どこかに必ず欺瞞や虚飾があるんですよ。
原田 とにかくできるだけ自己欺瞞がない形で、自分の悪行や歪みなどもきちんと出して、物語をつくらなければならないんですね。
虐待されたがゆえに歪んでしまった自分の醜さを見つめる。
岸田 ええ、虐待された被害だけでなく、その結果、自分が人に及ぼすことになった加害も語らなければ説得力はないですね。そっちの面も必ずあるんだから。それは大変ですよね。
〔原田純による「あとがき」から〕
自分の歪みが親との関係から発していることに気づいた私は、自分なりに、どうしても、その問題を解決しなければならなかった。親との和解のためではない。社会の中でそれなりの幸せに生きていくため、人との関係に支障を来さないため、人を愛し、愛されるためにである。
私は今でも多くの歪みを抱えている。他人との関係を支配被支配で考えがちだし、非難がましいことを言われるとその当不当はともかく、とたんに身構えて反撃に出てしまうし、とうてい克服することなどできないと思うほどの強いコンプレックスを抱えてもいる。しかしこれらの歪みは、もう、親の育てかたや、親との関係に原因や責任があるとは言えない類のものなのである。
歪みを自分のものにしたとき、私たちは同時に、その歪みを正していく力を与えられる。すべては、もう一度、ここから始まるのだ。