ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

生かすのは自分

2007-07-25 11:25:00 | まじめな話
 ある勉強会の時、「ここでは悲劇のヒロインにならないでください。ここはそういうレベルで傷口をなめあうところではありません」とティーチャーがおっしゃいました。

 私は、両親からの虐待から生き延びたサバイバーです。
 20代から自分を育て直し、試行錯誤しながらなんとか生きていますが、やはりいまだにかなりの歪みがあります。だからこそ、そのティーチャーの言葉に同感しました。

 自分を幸せにできるのは自分。
 “今の自分”は、自分が選び、行動した結果がつくりあげたもの。
 自分が収穫できるものは、自分がまいた種から実るものだけです。たくさんのかたに、いろいろなきっかけや気づきをいただいても、それを生かすのは自分です。

 パワーゲームをやめて、自分で自分を幸せにしていきましょうよ。
 他の人の言動を恨みや怒りのもととするのではなく、自分を育てる糧(かて)としていきましょうよ。
 「自分は犠牲者なのだから、慰められたり優しくされるのは当たり前」という気持ち、もう手放しましょう。
 「自分の不幸さ」で他人をコントロールしたり、自分のやり方以外の方法で物事を処理する人を非難するの、もうやめましょう。
 心地よい言葉や優しい言葉なら受けいれるけど、それ以外は自分を傷つけるものと受け止める、そんな自分をちゃんと見ましょう。

 どうか、ふうるふうるを、自分を幸せにするために活用してください。もちろんリラックスする場所、自分のすばらしさを再確認する場所、一時避難の場所でもありますが、自己憐憫の涙を蜜をなめるように味わう場所でも、自己愛(ナルシシズム)を満足させる場所でもないのです。

 学びあい、自分の道をそれぞれ気持ちよく進んでいけたら、心からうれしく思います。


 ご自分をアダルトチルドレンと認識できていて、さらに一歩踏み出したいと望んでいるかたに、「親の毒 親の呪縛」(岸田秀×原田純 大和書房)をご紹介したい。岸田さんも原田さんも大いなるサバイバーです。以下に文章を抜粋しますが、ぜひ1冊丸ごと読んでみてください。



原田 親との関係に苦しんだ人は、親の物語を否定して自分の物語をつくると、今度はそれが絶対に正しいと思いこむ傾向がありませんか? いかに親がひどかったかという物語をつくって、自分はその中でスポイルされたために、こんな人間になってしまった。自分がこんな人間になったのはすべて親が悪いという物語を、強固につくりあげる。
 自分でつくった物語に対して疑いをもつことがなかなかできない。でも疑いは必要なんですよね。
 加害者である親と、被害者である子どもはうり二つ。親に歪みがあれば、子どもも否応なく歪みを受け継いでいる。誰であれ必ず何かを受け継いでいるんだけど、受け継いでしまったものは、親を批判しても、殺しても消えない。
 受け継がされたことを恨むより、受け継いでしまったものをどうするかを考えなければいけない。

岸田 いろんな人とつきあえば、みんなそれぞれ僕についての物語をもっているわけ。
 そういうのをわれわれは受け入れ、材料にし、総合して、自分の中で組み立てて、なるべくできる限りは矛盾がないような物語を構築していく。問題は、まわりの世界からいっぱいやってくる材料をどう組み立てるかですよ。
原田 独りよがりではダメだということですね。たとえばアダルトチルドレンという言葉があるでしょ。ああゆう言葉は、自分の物語をつくるときの恰好の材料になる。「私はアダルトチルドレンです」と言っただけで、もう自分の物語ができあがったような気がする。だけど「アダルトチルドレン」はいわば既成の物語で、(自分の)物語をつくる材料でしかない。
 だけどそういう既成の物語は、自分の物語ではないんですよ。自分の物語をつくることができないので、まるまる既成の物語に乗っかっているだけです。それではダメなんです。

岸田 親に起因する過去の低い自己評価の物語があったとしますね。その場合、かつて親に軽んじられたということは、自分という存在の不可欠の一部なのですから、そういう要素が自分のなかにあるんだということを認識し、その要素も組み込んだ上での自分の物語をつくらないと、ダメです。
 あんなのはぜんぜん間違っていたとして排除して、立派な自分の物語をつくって、それに沿って生きようとしても、排除されたものは人格の無意識的な要素となって、いつも背後からわれわれの足を引っぱって、われわれをつまずかせます。

原田 自分を無垢な被害者に仕立てあげたり、自己憐憫に浸っていたりすると、生きていくための物語はつくれないということですね。
 身の上話って、たいていは聞いてもつまらない。「大変でしたねえ」なんて一応は言うけど、正直に言えば退屈この上ない。独りよがりで押しつけがましくて、同情や理解を示さないと怒られたりしてね。でもそれは、話す側に問題があるんですよね。
 苦しみや悲しみは、それが本人にとってどんなに理不尽な体験であっても、そもそも人には伝わりにくいものなんです。つらい体験であればあるほど、理解を得るのは困難です。理解されないと、自分の体験はそれだけ重いんだと考えて変な特権意識をもっちゃう人もいるけど、それは自分を甘やかすことでしかない。自分の体験を人に話したとき、それを人がどう受け取ったかを知るのは非常に重要なことなんです。
 どうして自分の話は相手に理解されないのか、話し方に問題はないのかと考えたほうがいい。受け容れてもらえない話は、どこかに必ず欺瞞や虚飾があるんですよ。

原田 とにかくできるだけ自己欺瞞がない形で、自分の悪行や歪みなどもきちんと出して、物語をつくらなければならないんですね。
 虐待されたがゆえに歪んでしまった自分の醜さを見つめる。
岸田 ええ、虐待された被害だけでなく、その結果、自分が人に及ぼすことになった加害も語らなければ説得力はないですね。そっちの面も必ずあるんだから。それは大変ですよね。

〔原田純による「あとがき」から〕
 自分の歪みが親との関係から発していることに気づいた私は、自分なりに、どうしても、その問題を解決しなければならなかった。親との和解のためではない。社会の中でそれなりの幸せに生きていくため、人との関係に支障を来さないため、人を愛し、愛されるためにである。

 私は今でも多くの歪みを抱えている。他人との関係を支配被支配で考えがちだし、非難がましいことを言われるとその当不当はともかく、とたんに身構えて反撃に出てしまうし、とうてい克服することなどできないと思うほどの強いコンプレックスを抱えてもいる。しかしこれらの歪みは、もう、親の育てかたや、親との関係に原因や責任があるとは言えない類のものなのである。
 歪みを自分のものにしたとき、私たちは同時に、その歪みを正していく力を与えられる。すべては、もう一度、ここから始まるのだ。

素敵な友だちや先輩に感謝

2007-07-20 11:28:25 | Weblog
 18日は、Mさんと美味しいものをいただきながらのおしゃべりができました。Mさんとは、人に対するまなざしや、何を大切にしたいかなどがとってもよく似ていると思っていますが、でももちろん違うことがたくさんあります。そんな違いも尊重でき、たわいもないことからヒョエ~なことまで話せる大切な友だち。6時間近くもニコニコしっぱなしでした。ありがとう!。

 19日はNさんとかなりハードなお話。
 組織ってほんとに面倒だな、困ったちゃんってどこにもいるんだなと、二人でしみじみ……。
 てきぱきした物腰ときれる頭が、温かいハートと繊細な感性を見えにくくさせているうえ、シャイなNさんはわざとその優しさを隠している。まともな人ならそんなことすぐわかると思うのだけど、さてそれがなかなか。
 年齢だけは重ねているという人たちを相手のNさんの悪戦苦闘ぶりには頭が下がります。

 いろいろなことに気づかせてくれる素敵な友だちや先輩に感謝です。素敵な人たちに出会える環境にも、困ったちゃんの相手をしなくてよくなった状況にも感謝です。このところのきつい状況を乗り越えたご褒美をいただいているみたいにも思えます。私って本当に幸せ者です。

 それプラス、犬のハルトのマラセチア菌による外耳炎がよくなってきたことがとってもうれしいです。早くカユカユさんとさよならしようね。
 「嫌だよう」と全身で示しながらも耳にさわらせてくれるハルちゃんに、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいです。

信頼と尊敬に基づいたコミュニケーション

2007-07-16 11:30:34 | Weblog
 14日は I 様と、15日はKちゃんと、会えて話せてとっても幸せ。

 違った視点を提供してもらえ、くだらないゴシップからかなりな真剣話までをできることは、とってもとってもありがたいことです。

 萩尾望都さんのマンガの『キャベツ畑の遺産相続人』に、ある事件のせいで家のあちこちにすきまができ、地下室の物置のドアがどっかの異星とつながってマーチンというお客がよく来るようになり、ポージィおばさんと「二人で毎日ゴシップから航宙学(アストロゲーション)までくっちゃべっている……?」という場面&せりふがあります。いいなーと、本当にうらやましかったっけ。

 シチュエーションはかなり異なりますが、同じような状態にあるじゃないのと気がついて、なんか幸せな気分に包まれました。

 信頼と尊敬に基づいたコミュニケーションができるありがたさ! 安心して話せるありがたさ! です。

 気がきいたことや一ひねりしたことを言うのが知性のあかしやインテリの証拠ってわけではないのです。

 そして今日はお客様と分かち合いができました。本当に私って幸せ者です。ありがとうございます。

「下流志向」から

2007-07-13 11:33:16 | 本や言葉の紹介
●「下流志向」内田樹 講談社 からあと2テーマを抜粋してご紹介します。

【「自分探し」イデオロギー】
 「自分探し」というのは、それまでの生活をリセットして、どこか遠いところに出かけたいという若い日本人の欲望にジャストフィットしたせいで、ひろく流布した言葉です。
 自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。
 でも、これはずいぶん奇妙な発想法ですね。もし、自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 
 ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。
 家庭内や学校や勤め先で、その人自身の言動の積み重ねの結果与えられた「あなたはこういう人ですね」という外部評価に納得がゆかない。自分はもっと高い評価が与えられてしかるべきである。もっと敬意を示されてよいはずだし、もっと愛されてよいはずだし、もっと多くの権力や威信や財貨を享受してよいはずだ。おそらく、そう思う人たちが「自分探しの旅」に出てしまうのです。
 「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だということができます。
 自己評価のほうが外部評価よりも高い。人間はだいたいそうですから、そのこと自体は別に問題とするには当たりません。その場合に、自分でも納得のゆく暗いの敬意や威信を獲得するように外部評価の好転に努める、というのがふつうの人間的評価の行程であるわけです。
 
 
(このあと、「ほんとうの私というものがもしあるとすれば」という文章に続きます。)


【子どもの成長を待てない親】
 児童虐待の事例がだんだん増えてきていますけど、これは育児を等価交換で考える習慣の必然の帰結のように私には思えます。
 育児ってすごく時間のかかる仕事でしょう。でも、今の若いお母さんって育児をロングスパンで考えることができない。すごく短いスパンで考えている。それはおそらく育児をビジネスの用語で考えているからだと思うんです。
 自分の子どもは自分が作り出した「製品」であり、親の「成果」は「製品」にどんな付加価値を付けたかによって査定されると考えている。その成果が評価されると、親は育児の「成功」というかたちで社会的な自己実現を果たした、と考える。メーカーが工場から送りだした製品の売れ行きや評価に一喜一憂するのと同じメンタリティです。
 学歴とか資格とかいう、外形的に隣人に認識できるような「目に見える成果」以外のものは育児の付加価値としてはカウントされない。世の親たちを見ていると、目に見えるかたちで、数値化できるかたちで、定量的に評価できるかたちで、育児の成果を出すことをせかされている。少なくとも、親自身はそういうプレッシャーを強く感じている。
 結果的に、それで子どもの成長を気長に待つということができにくくなっていると思うんです。
 精神科のお医者さんに聞いたんですけど、思春期で精神的に苦しんでいる子どもたちの場合、親に共通性があるそうです。子どもの発信するメッセージを聞き取る能力が低い親が多い。子どもが発信する「何かちょっと気持ちが悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがありますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。というのは、子どもが心身に不快を感じているという情報は、いわば「製品」がノイズを出しているようなものだからです。それは製造行程に瑕疵があることを意味する。それを親は自分の育児の失敗を意味する記号として理解する。だから耳を塞いでしまう。



(哀しいけど、とっても納得できる……) 

種まく時期

2007-07-11 11:35:27 | Weblog
 昨日、セラピスト仲間のSちゃんが、まさにアセンションというかエネルギーシフトの時期にあるということでオーラソーマ・リーディングを受けに来てくれました。

 今年は全体的に、6月7月にけっこう大きなことが起こる傾向があると言われていましたが、自分やまわりを見ているとそれはかなりあたっているようです。

①目の前に提示されているものたちに気づけるかがまず「新しい現在へ一歩踏み出す」きっかけ。
②そのどれに焦点を合わせるか、選択するかがこれからの方向性を決める。
③そうしたらそれを実行する。

 これって、①土地に合う作物を知る、②種を選ぶ、③種をまき、育てる、に似ているなあ。

 今は、これまでの自分をじっくりすみずみまで検分し、それを養分として、これからの収穫のために新たに種をまく時期なんですね。Sちゃんのおかげでそれがはっきりしました。Sちゃんありがと!

“不機嫌”が通貨

2007-07-10 11:38:10 | 本や言葉の紹介
 「下流志向」(内田樹 講談社)から、またまたびっくり&納得の説を抜粋してご紹介します。


 子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生のきわめて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。

 (途中を要約…父親(=家計を支える者)が働いている姿を見たことがない子どもが今では少なくない。給料袋があったころは、それを持ち帰った父親に感謝の意を確認する行事(普段と違うごちそうを食べるなど)が行われていたが、給料が銀行振込になってからはそれが希薄になった)

 その結果、父親が家計の主要な負担者であるという事実は、彼が夜ごとに家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。ものを言うのもつらげに、不機嫌に押し黙ったままドアを開き、ものうげに服を脱ぎ棄て、妻や子からの語りかけにも返事をせず、ひたすら自分一人の不快だけを気づかっている様子から、家族たちは彼が無数の不快に耐えて家計を支えているという厳粛な事実を推察することになります。(中略)
 現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。
 というわけですから、残る家族もこれに倣(なら)うことになります。(中略)父に負けずに不機嫌になることでその努力をアピールするしかない。(中略)
 大変悲劇的なことですが、現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。(中略)
 子どもたちも事情は変わりません。(途中を要約…家庭に貢献できない子どもたちは、親が要求する勉強や習い事をおこなって疲れ切り、全身で疲労と不快感を表現することで子どもの「おつとめ」を立派に果たしたことを示そうとする)。父や母がそうしているように、十分に不機嫌でありうるということによって、子どもたちは不快に耐えて、家産の形成に与(あず)かっていることを誇示しているのです。
 家族の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。
 これが現代家庭の基本ルールです。(中略)
 このゲームのルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられてきた子どもは、そんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取する能力にたけてゆきます。(中略)
 この能力を現代日本人が以上に発達させつつあることに、みなさんはだいぶ前からお気づきだと思います。



 そうかあ、楽しさを表現しながら暮らしていくのが難しいって、こういうところからも来ているのか。うう~ん……

エネルギーチャージ

2007-07-08 11:39:58 | Weblog
 このところ、ヒーリング時のクライアントさんとサムシング・グレート(人智を超えた大いなる存在)とのチューニング、共鳴がさらに深くなっていて、今まで以上にエネルギーチャージをしっかり行うことや精進&健康管理が必要であることが明確になりました。これって次元上昇(いわゆるアセンション?)みたいなものでしょうか?
 エネルギーチャージなどどのようにしたらよいか思案中です。

アホでよかったような気も

2007-07-02 11:41:48 | Weblog
 昨日、和光市文化センター・サンアゼリアでの「フィルハーモニア・ブルレスケ第4回定期演奏会」に行きました.。武蔵浦和から自転車こいで。

 同行者の「20分で着く」との言葉にうかうか乗った私がアホだった。ものすごいアップダウンで、自転車のギアをいちばん軽くしても上れない坂があり、行くのに45分、帰るのに30分。私にはハードで……。

 同行者はロードサイクル、私はおばチャリ。20分と45分の違いが出て当然でございました。どうも怪しいと思って早めに出てよかった。曇り空でありがたかった。

 フィルハーモニア・ブルレスケは、早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団の若手OB・OGが中心のオーケストラで結成5年目。今回の曲目は、カヤヌス「フィンランド狂詩曲第1番」、グリーグ「ピアノ協奏曲イ短調」(ピアノ独奏:亀田賢)、シベリウス「交響曲第1番ホ短調」。感想は述べません。

 彩湖の水と緑を眺められて、彩湖に飛び込んではしゃぐ黒ラブさんを見られて、運動できて、ありがたかった。 アホでよかったです。