ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

心構え

2006-03-27 23:10:51 | 本や言葉の紹介
 ずいぶん暖かくなりました。今年は桜が咲くのが早いですね。うちのプリムラたちもたくさんの花を咲かせていますが、その花びらをちぎって食べちゃう鳥たちに困っています。ご近所の花たちは被害にあっていないのに、うちの花たちだけ、なぜ? 鳥たち、食料がたりないのかしら。ああ、花の姿が無惨で悲しい。

 さて、また河合隼雄さんの言葉を紹介します。
「父親の力 母親の力」(サブタイトル「イエ」を出て「家」に帰る 講談社+α新書)にある、河合さんの心構えのような言葉なのですが、おこがましくも私も同じように考えていたので……。


 「相談にこられる人は、自分はたいへんな災難に遭遇していると思っていますが、私たちは、それをその人の今後にどう生かすか、という観点から考えて対処するわけです。
 災難を取り除く、つまり、マイナスをゼロにする仕事だとは絶対に思っていません。マイナスはむしろプラスになりうるし、再生とはマイナスをプラスにすることだと思っています。(中略)
 (いろいろな問題がいちどきに起きたときは、何か新しいことがはじまるチャンスでもあるが、そのためには考え方をそうとうに改造していかなければならないのではないか。)こういうときにもっとも悪いのは、みんなが手っ取り早い解決策を探そうとすることです。マイナスをゼロにするくらいなら、わりと手っ取り早くできるかもしれませんが、それでは、またすぐにマイナスが起こってきます。(中略)
 いずれにせよ、マイナスをプラスにもっていくためには、相当の覚悟、努力、時間が必要です。」

 「私が行っている心理療法というのは、農作物を育てるのに似たところがあります。農作物を収穫するまでには、一定の時間が必要です。こちらがいくら急いでも、その時期がこなければけっして結実しません。私たちは苗を植え、施肥、除草などをしたりしますが、あとはすべて作物自体の力にゆだねるほかはありません。」

よりよく使えている

2006-03-20 23:08:55 | まじめな話

 具体的なことをお伝えできなくてすみませんが、このところ自覚していることとして、去年10月頃から今年の2月にかけて学んだこと、体験したこと、出会ったかたたち、セッションでのできごとなどのおかげで、お預かりしているパワーを以前よりよく使えている感覚があります。あまり迷わずにできるようになったというような感じです。

 数年前、お風呂に入っていたときに「もっているものはきちんと使え」というメッセージを受けたため、そのようにと心がけてはいたのですが、それには「何をもっているのか(お預かりしているのか)」をもっと知る必要があったのですね。
 自分がお預かりしているものはどのようなものかを、傲慢にならず、過剰に謙遜せずに、きちんと理解してそれを有効に使うこと。有効に使うためには自分をニュートラル(中庸)に保つことが必要だし、ニュートラルな中で自由自在に動けることも必要……というのがはっきりしました。ずいぶん時間がかかっちゃったけど。

 そして今月は、私にとってはかなり多額のお金を無駄にしてしまったという形で、「必要でないものは無理に追い求めなくてもよい」と、「すでにもっているものを認め、自信をもつこと」を再度学びました。お灸をすえられたというところです。
 う~ん、いろいろなことを素直に受け取っていきたいし、てらいなく使いたいです。


『「おじさん」的思考』(内田樹)

2006-03-02 23:05:59 | 本や言葉の紹介
 最近刺激を受けた本に『「おじさん」的思考』『期間限定の思想(「おじさん」的思考2)』(内田樹)があります。たとえば、


 必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
 「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。
 「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこに行って、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。(中略)
 自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。
 マッピングができないということは、主体性が持てないということである。
 というのは、マッピングというのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。(中略)
 主体性とは「他の誰によっても代替され得ないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。
 そのためにはマッピングが不可欠である。
 そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」「私は何ができるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。
 学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。
 自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
 それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。



 いろいろなテーマそれぞれに「やっぱりそうだったか」と「なんか変」があちこちにみつかって、これが私にとってはおもしろかったです。