ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

よけいなことしてしまった

2013-10-30 11:40:32 | がっくり

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 いかんです。よけいなことを言ってしまって失敗。
 これは私のひとつの狂気だなあ。

 「狂気……それは、同じ事を繰り返し行い、違う結果を予期することである」(アインシュタイン博士)

  大好きだからついツッコミを入れてしまう。好意のひねった伝えかたなんて単なる大迷惑だなあ。
 どんな状況なのかわからないくせによけいなことをしてしまった。
 大反省。


結婚関係の名言

2013-10-25 08:25:02 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 「ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学」(角川書店)から抜粋。

観察力の不足で結婚して、
忍耐力の不足で離婚して、
記憶力の不足で再婚する

  アーハハハアーハハハ  大笑い そのとおりじゃわ。

 閑話休題
 昨日近所の業務スーパーで、焼きそば用の麺を大量に詰め込んだ大ビニール袋を自転車のかごに押し込こもうとしながら、「入らねえよ」、「こっちも」と笑っている学生服姿を見かけました。高校1年生ぐらいの男の子二人。かわええのう。
 学園祭用かなあ。台風の影響が大きくないといいねえ。

 


今日は大那

2013-10-18 21:14:50 | アホ話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 日本酒! わざわざニホンシュなんて言いたくないよお。「おさけ」、「ごしゅ(御酒)」と言ったらニホンシュなんだよお。

 大那(だいな)を見ると必ず思い出すのは「エノケンのダイナ」。  もちろん思いだしついでに歌う。
 「ダイナ」はアメリカで1925年に発表されたらしいけど、日本では1934年以降いろんな歌手がいろんな日本語訳で、もしくはパロディの歌詞で歌っているそうな。
 いちばんポピュラーな日本語の歌詞はたぶんディック・ミネのものだと思うけど、ああ、ディック・ミネなんて私の友達だって知らないからなあ。

 じゃあディック・ミネさんの歌詞ね。

ダイナ 私の恋人
胸にえがくは 美わしき姿
おゝ君よ

ダイナ… 紅き唇 我に囁け
愛の言葉を

あゝ夜毎 君の瞳 慕わしく
想い 狂わしく

おゝダイナ… 許せよ くちづけ
我が胸 ふるえる 私のダイナ

 これがエノケンになると

ダンナ のませてちょうダイナー
おごってちょうダイナー たんとは呑まない 
ね、いいでせう

ダンナ 盃ちょうダイナー コップなら尚結構
こいつはいける

酒はうまい うまい 少し酔うた
酔うたら さあ来い

ダンナ のませてちょうダイナー
けちけちしなさんな かけつけ三杯

   で、アタシが歌うなら。

ドンナ いい酒なのかしら
どんどんちょうダイナ しこたま飲むぞ
うふ、しこたま

ダンナ あんたも飲むかいな いい酒はうまいよ
アタリマエダね

酒はうまい うまい 燗も冷やも
酔うたら さあ来い

ダンナ いい酒飲もうぜ
日本のお酒は 宝の山だ

おそまつでごめんよお。 

 


フェンスではぜかけ

2013-10-17 11:02:08 | よもやま話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 台風の前、日曜日に桜図書館へ。
 今ぐらいならまたフェンスで稲を干してるかなあと期待してたら、ばっちり! フェンスではざかけ。


 キンモクセイも花いっぱい香り満杯。



 いつもの犬さんもひなたぼっこ。

 台風、すごかったけど稲やキンモクセイは大丈夫だったかな。
 今日はいいお天気だから、きっと犬さんはまたひなたぼっこしてるだろうな。


足が冷えるよ

2013-10-15 16:18:56 | よもやま話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 今日は室温24℃なのに足が冷えるよ。
 2日間も真夏日があったけど、季節は確実に移っているのね。こりゃーやっぱり日本酒のお燗がぴったりですわね。
 自転車も買い換えたし、いいお酒買いに行くぞ。うん、台風が過ぎたら。

 ううう、さよならした自転車は十数年前に購入した、犬のハルトくんを乗せて動物病院に行くために“前のかごに子どもを乗せる仕様にした「お子さま乗せ用自転車」” でした。私が酷使したのもあるけど、最後のとどめが図書館の駐輪場。倒されちゃって、ブレーキもギアもチェーンもパー。ひーん、涙ですがな。
 このダメージがなけりゃあと3年はだいじょぶだったと思うぞ(よくばりすぎ)。しっかしナミダナミダナミダ。なんかナンマイダみたいだのう。
 かなり遠い図書館に行ったので、ガランガランゴッシュゴッシュシャシャシャシャが入り混じった大音量を響かせながらの帰り道はつらかったよ。行き会っちゃったかた、ご迷惑さまでした。ごめんなさい。

 ほんとにねー、ハルトと幸太以外でもたくさんの荷物を運んでくれたのよ。なでまわしてありがとありがとって言ってたら、変な目で見られちゃったわ。

 近くに自転車専門店があるのってありがたい。新しい子ちゃんは普通のシティサイクルで前かごがかなーり大きいタイプ。よろしくねとご挨拶したけど、まだお互いになれないので、このモジモジ感もなんだか新鮮。


教育は生きる支えとなる知恵と「わざ」を伝えるもの

2013-10-13 17:06:14 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 10月11日の東京新聞夕刊の「求められる市民の力量」(鷲田清一 哲学者)という記事で、また少しすっきりしました。
 抜粋しますが、文章の順番を入れ替えて紹介します。原型での流れはあとで示します。


 教育は、子どもたちが以後何十年にもわたって生き存(ながら)えてゆくその支えになるべき知恵と「わざ」とを伝えるためにある。そのために、これまで何千年という時を経て生き延び、伝えられてきた思想や宗教や習俗を参照する必要がある。そのことだけからも、教育というのがとてつもなく大きな時間地平のなかで設計されるべきものであることが知れる。


 (大正期以降求められた「教養」は、行為を通じての自己形成というよりも、読書を通じて広く知識を習得し、歴史・文化を見る目を養うこと。それは、意識的に政治的なものを除外し、経営や技術など実学的なことへの侮蔑にもつながったために、「教養」は社会から遊離した「客観的素養」にすぎないものとなった)
 たしかに多くの知識をもつことは、ものごとを広い視野でとらえるのに必要なことであろうが、もっと重要なのは、それらを社会運営のなかで立体的に組み立て、使いこなしてゆく「わざ」である。


 市民社会の「主(あるじ)」としての市民のなにがしかの力量が、いま、「教養」の代わりに求められているのだとおもう。それは〈近代〉の根幹をなす古典的な用語でいえば、シティズンシップ(市民性)にあたる。個々の市民が行政や企業から提供される流通、医療、教育、福祉などのサービスの消費者(つまりは顧客)に甘んじるのではなく、また直面している社会課題の解決を専門家にそっくり委(まか)せるのでもなく、他の市民とともに社会運営の一部を分かちもつパブリックとしての力量を形成すること、これが現在、教育の軸にあらためて据えられるべきだというのが、福島原発事故の痛い教訓だったはずだ。


 「教育」はなぜかいつも、「教育はいま大きな危機にある」という煽(あお)りのなかで語られてきた。続いて「改革」「改革」である。そしてそれを「百年の計」を謳(うた)う国家が率先して推し進める。そのことが私にはいちばん危うく映る。


  うん、勉強って、現実社会を生きていく支えとなる知恵と実際に使えるわざを学んで自分のものとするために必要だし、その知恵とわざは自分が生きている社会に役立てていけるものであるのが当然なのね。
 つまり行為を通じての自己形成をする、その自分で気持ちよく暮らせる場をつくっていく、それができるようにする基盤となるのが教育なんだね。

 だいぶ前に、賢くて気配りもできる女性が「好きでもない勉強を苦しんでがんばって、やっといい職場を獲得したんだから、役得やリベートでいい思いをするのは当たり前。それがなかったら勉強なんてだれもしないよ」と言ったのを聞いて強烈な驚きと違和感を感じたことがあります。私はノーブレスオブリージュという考え方が当然だと思っているのでその発言にびっくりし、その違和感をうまく表現できなかったんだけど、鷲田さんのこの発言ですっきりしました。
 自分が小ずるく得するための勉強って、本当の勉強じゃないんだよ。

  なお、鷲田さんの文章の流れですが、4→2→3→1が本来の順序です。
 1 の文章がとても心に残ったので、最初に紹介しました。


「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法 3

2013-10-11 09:36:18 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
          
 『「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法』(池田清彦 創英社/三省堂書店)から抜粋します。

●ネイティブイングリッシュ信仰のバカバカしさ
  8年間英語で授業を行ってきた実感でいうと、優秀な学生はたとえ英語があまりできなかったとしても、卒業するまでにはなんとか使えるようになる。一方、英語がペラペラでもバカな学生は、いつまで経ってもバカなままだ。
 自動車の運転が上手な人がそうでない人よりも人間的に優れていることはない。それと同じように、英語ができる人の方ができない人よりも能力があるということもない。
 グローバリゼーションに英語が不可欠という意味は、異なる言語をもつ人々の意志疎通の道具として英語が最も便利だということにすぎない。

 ううう、そうなんだよねー。

 


「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法 2

2013-10-10 10:46:54 | 本や言葉の紹介

ふうるふうるのたらです。

 『「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法』(池田清彦 創英社/三省堂書店)から抜粋します。

●就職氷河期は社会システムの欠陥
  卒業生が需要をはるかに上回れば、就職できずあぶれる学生が出てくるのは必然である。つまり大学卒業生の就職難を本気で解決したいのであれば、大学生の数を今の三分の一くらいに減らすしかない。そもそも大学卒業程度の知的能力を要求される職業はそれほど多くないのだから、無理に大学に行く必要はない。それなのに、大学の授業にとうていついていけない者を入学させた上、非正規の労働者かプータローとして放り出すのは授業料を巻き上げるための体のいい詐欺ではないかと私なんかは思ってしまう。

 確かにそうなんだけど。でも、「大学って4年間のモラトリアム期間」「大学に入ったら遊ぶんだ」と大学に行く人も結構いるし。
 あ、だから大学の遊園地化ってことになってるのか。それじゃあ「大学の授業にとうていついていけない者を入学させた上、非正規の労働者かプータローとして放り出す」のもしょうがないのか。「体のいい詐欺」ってことでもないのか。うーむ……。


サバ缶が消えた謎がとけたよ

2013-10-09 08:42:34 | びっくり

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 近所のスーパーマーケット数軒で2か月以上前からサバの水煮缶のコーナーがからっぽになってて、たまに入荷されてもすぐなくなってた。サバ味噌缶やサバ味付缶はたくさんあるのに、なんで水煮缶はないのかなあと不思議に思っていたら、今日郵便受けに入っていたショッパーで疑問解消。

 
 サバは痩せるホルモン(!?)GLP-1の分泌を促進するとテレビで報道されたのがきっかけです。GLP-1ホルモンは糖の吸収をゆるやかにし、血糖値の上昇を抑える働きや満腹中枢を刺激して食べすぎを抑える働きがあることから「サバ缶で痩せられるらしい」とまたたく間に広まりました。

 ということらしい。でもさ、じゃあサバ味噌缶でもサバ味付缶でもいいじゃない。パック詰めのサバの塩焼きでもサバ味噌煮でもいいじゃない。で、ちょっと検索してみたら、そのテレビ番組は2013年7月30日放送の朝日放送「たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学」の特集「やせるホルモンで病の元凶【肥満】を解消SP」らしい。

 「GLP―1」は必要以上の食べ過ぎを抑えて、糖分が腸で緩やかに吸収される働きを持つ「やせるホルモン」であり、小腸を刺激する食べ物を摂ることによって分泌が促進する。その食べ物とは、食物繊維と、サバ缶だと説明。サバのような脂の乗った青身魚はEPA、DHAが豊富に含まれていて、このEPAが「GLP―1」を出す細胞を刺激するのだという。

 その説明のとき、画面にマルハの「サバの水煮缶」が出ていたとのこと。

 うーん、それでサバ缶が売り切れになっちゃうなんてあまりにも短絡的だなあと。びっくりした。
 水煮缶じゃなくてもいいわけよ、イワシだってサンマだっていいのよね。なんてったって、サバ缶ばかり食べてもどれだけの効果があるのか、むしろ食がかたよってしまって健康的にはどうなのか。
 納豆騒動とかココア騒動とか、そんなに前のことじゃないのにねえ。


「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法 1

2013-10-08 08:39:14 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
           
 今日は30度になるところもあるそうな。「暑さ寒さも彼岸まで」じゃないねえ。
 猫の幸太君、膝に乗せてもさっさとまたぎ越して行っちゃう。残念!

 しかし池田清彦さんはたくさん本を出しているなあ。
 『「本末転倒」にはだまされるな 「ウソの構造」を見抜く法』(創英社/三省堂書店)から抜粋します。

●卒論も一人で書けない大学生が増えている
 教育に関する最も醜い誤解は、すべての子供には同じくらいの才能があり、しかるべく教育を受けさせれば、全員がそれなりに勉強ができるようになるという幻想であろう。
 運動神経もIQ同様先天的な要素が大きく、オリンピック選手になれるのはごく一部の天才だけだ。しかし、こと勉強に関しては努力次第で誰もが勉強できるようになると信じてしまう人が多いのは不可解である。

 すべての学問は分類と比較である。今までと違った視点で分類・比較すれば今までない新しい視点から自然や社会を考え直すことができる。
 元来、大学とはそういったことを常に考えながら議論を行う所であったはずだ。しかし、日本のエリート層にはこの考えは当てはまらないようだ。今の日本の教育はむしろそういったことを考えないように考えないようにと指導している。一義的に答えが定まっている正解に以下に早く到達するかが肝心だというのだから、新しいシステムを考えることができないのも当然の帰結である。
 そして、こういうマニュアル的な勉強に強い人が受験勉強の勝者となり東大へ行き最終的に官僚になったりするわけだ。彼らはあらかじめ正解のある問題を解く能力にはずば抜けているが、正解が定かでない問題を解決する能力は疑わしい。


 うーん、だいぶ前に誰かが言ってた。
「受験を勝ち抜いてきた役人や官僚は、確実に合格点をとれるもの以外には手を出さない。面倒なものは無視か先送りにするから、大変なことほど解決しない」

 池田さんが言ってることもこういうことだねえ。
 新しい視点から自分で考えていける力を養うにはどうしたらいいんだろうか。


おひざ猫

2013-10-05 17:58:46 | 犬猫

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

夏過ぎて秋来にけらし ふく猫の 暖をとるてふ われのひざ山

 

  と、でたらめな歌でも作りたくなるほどうれしいねえ。 
 幸太君がおひざに定着。今まではすわりもせずに踏み越えていったから、かなり寒くなったってことだねえ。
 昨夜は毛布2枚だけじゃ寒くて掛け布団も出したっけ。
 ああ、でも明日からまた夏日になるそうな。お布団で一緒にぬくぬくはもうちょっと先だねえ。

  うん、暑いさなかにはビールを飲みたくって飲みたくって「ビールビールビール!」と呪文のように唱えていたのに、今はお燗した日本酒がいいもんもんなあ。うふ、うふうふうふ。


「アホの極み 3・11後、どうする日本!?」から

2013-10-04 20:06:13 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

 なんか、池田清彦さんが書いてるものって同感できるところがとてもたくさんある。へそだかつむじだかが曲がってると言われそうだが、“池田さんと同じように”というのが冠詞としてつくんならかなーりうれしいかもしんない。うふ。
 あ、もちろん盲信しているわけではないからね。
 で「アホの極み 3・11後、どうする日本!?」(池田清彦 朝日新聞出版)から抜粋します。

・憲法改定などアホの極み
 さて、日本国憲法はなぜ変えてはいけないのか。
 それは硬性憲法(日本国憲法のような改定するのが難しい憲法)は民主主義のセキュリティ装置だからだ。
 現在、民主主義より上位の政治的審級はない。
 しかし、多数決を旨とする民主主義はマジョリティーの横暴を招き易く、議会で多数派を占めれば、子ども手当を現金支給するといったバカな法律でさえ平気で通ってしまうという欠点がある。
 周知のようにヒトラー政権ですら民主主義の下で生まれたのだ。
 民主主義が常に正しい決定をするとは限らない。
 そこでその暴走を防ぐ装置として憲法が必要なのだ。
 多数決によって決めた法律といえども、憲法によってリジェクトできるのはすばらしい。憲法が改定できるという風潮が生まれると、多数派の横暴を防ぐ手立てが消えてしまう。
 私は天皇制に反対だが、憲法を変えたいとは思わない。
 これをコンサバティブと言う。
 保守を標榜する政党が憲法改定に情熱を燃やすとは、不思議な話だ。(2010・7・9)
 
・ポピュリズム独裁を許さないために
 政治家が国民の安全のため、健康のため、幸福のため、環境を良くするため、といった美辞麗句を連ねて、新しい制度を作ろうとか制度を変えようとか言い出した時は、とりあえず眉に唾をつけて聞いた方がよい。
 十中八九はおためごかしに決まっているからだ。
 1000兆円もの国の赤字を生み出したのも、年金制度が破綻しそうになっているのも、景気が悪くて税収が足りないのも、大震災の復興が進まないのも、現在の憲法のせいではない。
 憲法を変えたからと言ってどうにもならない。
 いつの時代でも権力者の夢は、国民を意のままにコントロールしたいということに尽きる。
 権力者の独裁を許さないために民主主義があり、ポピュリズムという民主主義に立脚したマジョリティの独裁を許さないために硬性憲法があるのだ。
 このことは何度強調しても強調しすぎることはないと思う。
 今、第一にやるべきことは大震災の復興と脱原発に向けた具体的なプランニングのはずだ。
 志ある政治家諸君には是非そのことを考えて頂きたい。(2012・6・1)


憲法9条は、武力の限界を指摘する現実主義の宣言

2013-10-01 10:46:40 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
         
 「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本」(高橋哲哉・斎藤貴男 編著 日本評論社)を数回紹介しましたが、青臭い理想論だと思う人もいるだろうなあと思っていました。そうしたら、
憲法9条は、武力の限界を指摘する現実主義の宣言として読めば、動かす必要のない真実を語っている。」との発言があったので紹介します。

 東京新聞9月22日朝刊「本音のコラム」から抜粋。 

「武力の限界」(山口二郎・北海道大教授)
 安倍政権は、集団的自衛権の行使を可能にするため、憲法解釈を変更しようとしている。
 わざわざ集団的自衛権を是認するという憲法解釈を打ち出すのは、米軍とより一体化し、広範な武力行使に加われるようにしたいという政治的意図があると言うしかない。
 では武力行使で本当に紛争が解決され、秩序が維持されるのだろうか。この点に関する理念的、現実的考察が必要である。
 シリアでは米軍の介入が先送りされ、化学兵器に対する国際的な管理が一応始まった。もちろんこれはきれいごとではなく、大国が武力を背景に権力を追求した相互作用の帰結である。他方、英国に続き、米国でも武力介入の有効性について懐疑が広がっており、オバマ大統領も体面を保てた。
 武力によって政権を打倒することは、より大きな殺戮と無秩序を生むだけだという現実認識が、各国の対シリア政策の工程にある。憲法9条は、武力の限界を指摘する現実主義の宣言として読めば、動かす必要のない真実を語っている。


 自衛は必要だと思うけど、武力はますます大きな武力を生むのよ。戦いはますます大きな殺戮と無秩序を生むのよ。私はその輪から外れたい。
 スピリチュアルに生きるってのは、「地上に天国をもたらす」とか、現実世界をスピリチュアルに生きるってことだけど、それは、幸せに安全に、自分も他人も尊重して生きていくってことだと思う。そう生きたいから私は殺戮と無秩序の輪から外れたいのよ。