「愛」という言葉を振りまき、自分は愛にあふれたすばらしい存在だと盛んにアピールしている人ってけっこうたくさんいるんだねえ。そう思っているなら、「愛にもとづいた行動」をすればそれはそれですばらしいことだと思うのよ。
でも、やっていることが、自分の気持ちや考えの押しつけ、相手を束縛すること、従わせようとすること等々だと、その人の言う「愛」ってどんなことをさしているんだろうかと考えてしまう。「ケッ、なーにが愛だってんだ、どーこが愛なんだよ」って。あら、口が悪くてごめんあそばせ、おほほほほ。
つい最近 「価値観再生道場 本当の大人の作法」(内田樹・名越康文・橋口いくよ メディアファクトリー)を読んだら、“そういう人が言う愛”ってもしかしたらこんなものかなと合点するものがありました。
「第12章 愛の反対語は敬意」での名越さん(精神科医)の発言から抜粋します。
・他人との同一視化を愛というものと完全に勘違いしている人が、全世界に何十億人といる。
・相手のことは、わかったつもりにはならないのが大事。転がる先の杖を突こうとか、先回りしてやろうとか。そんなこと一切思わないことです。
・愛が崇高なものだと思っている人は、だからこそ自分は人を愛する力があると思いたくなるんですよ。実はそれって、人を所有する力があると思いたいってことなんです。人と同一化したうえで所有する力があると。で、人を愛する力を持っている自分が馬鹿であるはずがないと思いたくなる。だって、その愛をさらに権威づけるためには、表向きに馬鹿では困るからね。そうなってくると、ますます「俺は知ってるぜ」「私のほうが知ってるよ」って思いたくなるし、言いたくなってきてしまうんです。
これだけだとわかりにくいよねえ。すみません。 三人の発言をたどるとわかりやすいし面白いんですが。
「相手を立てるために馬鹿のふりをしてあげてる自分ってすごい、偉い。ちょっと気分がいい」と、相手を自分の手のひらで回している気になっている、それもお互いに。お互い期待に添うように演技をしているわけだけど、それが異常に美化されて今「愛」と呼ばれている。そういうのは邪悪な愛だ。
というようなことも話されているのよ。納得だわぁ。
はてさて、「愛」の定義って人それぞれだわねえ。