武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。
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今、木田恵子さんの本をかため読みしています。
木田さんは、結婚相手の連れ子さんが、大人になっても幼児の心と頭のままと診断されていたため、その子のはぐくみかたについて精神科医の指導を仰ぎました。
その精神科医が日本に精神分析をもたらした古澤平作(こざわへいさく)氏で、その縁からフロイト派の精神分析家になったそうです。
著作には母子を中心に家族関係を見ていったケースをとりあげたものが多く、実に具体的。豊富な臨床経験とみごとな洞察!
また、「喝采症候群」(太陽出版)ではエルンスト・クレッチマーが分類した分裂気質と躁鬱気質の間に「パラノイア気質」を置いた独自のパラノイア論を提唱しました。
これ、わたしにはすごく納得できる考察なんです。
1980年祭に出版された本が多く、今なら理解されやすいかもしれないけど、そのころに木田さんの本を読んだお母さんのなかには怒る人も多かっただろうなあ。
いくつか紹介しますね。
*木田恵子:1941年から古澤平作(日本精神分析学会初代会長)に師事し上位指導を受ける。日本精神分析学会元会員。山王教育研究所元顧問。豊富な臨床経験を元に多数の著書を残した。
*古澤平作:日本人で初めてフロイトから直接学んだ人で、日本精神分析学会の創始者。
●「贈るこころ 精神分析臨床メモ」(太陽出版)
・こだわりということは、子育てに限らず、心の世界ではどうも差し障りになる場合が多いようです。
・愛という面からこのこだわりを考えてみますと、人との関わりでこだわるとき、自分の硬い心を強く押しつけるため、その分、相手をへこませてしまいます。つまり、そのへこませた部分だけ相手から奪うことになり、たとえ相手のことを思っているつもりでも、贈与の愛とは逆の、奪う愛になってしまいます。
・愛情をこめて聞く、その人の身になって聞くことは、相手をよく知ろうと努めることで、そうしてもらった相手は、心が広がる思いをします。
・黙って聞くことが「愛の贈り物」になるのは、何も積極的なことはしてあげていないようでも、相手を柔らかく包むので、いわば、「ふわふわクッションの贈り物」と言えるかと思います。
・大人でも人を愛する力がなく、愛されるために愛している人はたくさんいます。私はそういう愛を、贈与の愛に対比して、「投資の愛」と呼んでいます。
●「添うこころ 精神分析臨床メモ」(太陽出版)
・「いつも言うけど、人間なんてみんなろくでなしだって私は思ってるんです。昔の人も《無くて七癖》と言ってるでしょ。完璧な人格なんか望めないけど、同じできそこないでも、そのことに自覚があるとないのとで大違いなのね。自覚があればそれなりに気をつけるけど、自覚がなければ、自分がまわりに迷惑かけてることもわからないでしょう。それだけ罪が深いのよね」
・一生懸命は常識では美徳なのですが、それが美徳であるためには、自分一身の範囲に踏みとどまることが条件であるべきかと考えます。
一生懸命になると、とかく歯止めがきかなくなりますから、たとえわが子であっても他者とのかかわりに一生懸命になると、独善的になりやすく、知らずに傲慢になってしまう危険があります。
一生懸命に人をかまうのは、相手を自分の意のままにしなければ済まないので、相手は心理的に窒息して殺されてしまいます。
●「喝采症候群 独断的パラノイア論」(彩古書房)
・私は子供に対して、この子をどうしてやろうか、というのと、この子にどうしてやろうか、ということの違いをいつも思うんですけど、「を」というときはお母さんの都合や感情が主体になっていて、「に」というときは子供を主体にして考えているといえるでしょう。つまり親の志としては「を」は支配であり、「に」は贈与なんですよ。
・あるお母さんから、よい母であるにはどうすべきかわかっても、心からそうするためにはどうしたらいいのですかと質問されたことがあります。私は人間は仏でないから、心底から理想的であることはできないであたりまえでしょうと申しました。
自分の不徳を認識したら、自分に作意することだと思います。心からでなくても子供にそれが必要なら、にこにこしたらいいでしょう。それを偽善といっても、子供がにこにこしたお母さんを必要としていたら、にこにこしたお母さんを子供にプレゼントすればいいし、少し塩気が必要なら塩気をあげたらいいでしょう。ただ、すごく塩ッ辛くしたいときにも、少しにとどめる作意をすることです。
人を支配・操縦するための作意、この子をどうしてやろうという作意なら罪深いことと思いますが、この子に贈り物をするために自らを作意するなら、内心に多少ととのわないところがあっても、許されるのだと私は思っております。それは母親だけでなく、父親も心がけるべきですし、人がみなお互いにそれができたら、世の中はもう少し穏やかになるだろうと思います。
うーん、 “無償の愛を贈り物にするために自らを作意すること”を、私は“その役割を演じる”と表現していたんだなあ。