ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

図書館依存症?!

2007-03-27 20:33:39 | Weblog
 今日やっと、特別整理期間で約4週間閉館していたさいたま市立南浦和図書館が再開館しました。
 閉館中はかなりの飢餓感がありました。いちばん近いこの南図書館は蔵書も多いし、レファレンスサービスも丁寧にしてくださるので、いちばん利用しやすくてしょっちゅう通っているからです。

 リクエストしていた本も何冊か用意していただいていたし、南図書館蔵書の読みたい本もいくつかリストアップしていたしで、今日は開館時間に合わせてすっ飛んで行きました。

 家に持ち帰って、どの本から読もうかなと順番に並べてみたりするのもとっても嬉しい。

 明日はオーラソーマでの新しい学びが体験できるはずだし、このところおいしいものに出会えてるしで、なんかもう本当に幸せ。
 ありがとうです!

目からウロコの中国茶のお店

2007-03-26 20:36:14 | おいしい
 今日は、NPO「アニマル・サポート・メイト」の総会で、夕方から埼玉会館へ。その後、十五代南陽之助ちゃんに教えてもらった北浦和の中国茶店「翡翠館」へやっとうかがうことができ、四季春茶と点心をいただきました。

 たまたまお客様がおらず、ご店主がマンツーマンでお話ししてくださいました。
 扱っているメインが台湾産とのこと。今まで疑問に思っていたことや、これでいいと思うんだけどほんとにいいのかなと半疑問形でやっていたことなどについても教えていただけてラッキー!!!

 もう、目からウロコがぽろぽろと何枚も落ちたような気がします。

 「お茶には2種類しかない。おいしいかおいしくないか……ね」という言葉には「どんな食べ物でもそうですよね」と笑ってしまいましたが、おいしいお茶を作ること、よいお茶を見分けること、それを取り扱えるだけの信用を得ること、必要量を仕入れられること、それをおいしくいれられること……。考えてみれば大変なことですよね。

 金魚の絵柄の、かわいい茶こしつきマグカップも購入。710円は安いです。
 中国茶の茶器には金魚の絵柄が多いけど、これは「金魚」=「金余」の音が同じことから、すべてが満ち足りた幸福な状態の象徴とされているから。でも、冬場に金魚柄って、日本人の感覚には何となくそぐわないかな。

「しみず」おいしい鰻・刺身・その他

2007-03-12 20:43:09 | おいしい
 中浦和駅近くの鰻のお店といったら「萬店(まんだな)」と「別所」が知られていますが、私は最近知った「しみず」が好きです。

 知人がブログで、「お友達に教えてもらって行ったところとてもおいしかった」と言っており、自転車で行ける範囲だったのでさっそく行ってみたのです。

 鰻屋さんだということでちょっと敷居が高いかなと思っていたのですが、カウンター(7人がけぐらい)と小上がりのお座敷(4人がけが3卓)のしつらえで居酒屋さん感覚。厨房が広くてなんだか気持ちがいい。

 鰻はもちろんおいしい、白焼きも。
 それよりも驚いたのが、鯨のさえずりがあったことと、鯨ベーコンが自家製で、市販のものとはまったく違うおいしさだったこと。
 さらに金目鯛のお刺身が美味で!
 突き出しののれそれも嬉しかった。

 目を丸くしながら帰宅。

 その後、知人の友人というかたに連絡を取ったところ、焼き鳥とランチのあなご丼もすごいと教えてもらいました。
 ということで次に行ったときは焼き鳥を注文。一串のボリュームがすごい。それなのにくどさがなくておいしい。
 今回の突き出しは煮こごり。突き出しがおいしいお店って好きだなあ。日本酒が1種類しかないのが寂しいですが、聞いてみると持ち込みも可とのこと。

 ご店主に少しお話をしていただいたとき、前回の金目鯛がおいしかったと言うと、銚子でとれたもので最高品とのことでした。開店は7年ほど前だそうです。
 本当に、行ってみてよかった!

「しみず」
月曜定休、昼は11:30~2:00、夜は5:00~9:30(オーダーストップ8:45)。さいたま市桜区西堀2-11-1。電話:048-837-9747。

鳥山敏子さんの言葉

2007-03-03 20:48:04 | 本や言葉の紹介
 いつもながらですが、今回特にとっても長くなりますのでお覚悟を。ゴメンナサイ。

●からだについて
 小学校で教えながら子どもたちのからだにとって必要な授業とは何かを模索し、「賢治の学校」をつくるために退職し、体や心の問題を整理して人生の課題を見つけだしていくワークショップなどをおこなっている鳥山敏子さんの言葉をご紹介します。


★「生まれかわる家族」(法藏館) より
 「我慢することに慣れる」ことは、自分のからだの要求や、自分は本当はどうしたいのかを感じ取る感覚を完全に麻痺させてしまって、こうあるべきだというところで動くからだになってしまうことなのです。こうあるべきだと自分のからだを操作して生きている人は、あるべきところで動かない子どもを見ると、すぐ叩いたりどなったりしその子どもが、どうしてそうしているのか、考えてみることはありません。
 自分が親からそういう扱いを受けてきたので、子どもが自分の思い通りに動かないと、出てくる言葉はみんな同じ、「わがままだ」「勝手だ」「だれのおかげで食っていると思っているんだ」といった言い方ばかりです。すぐ叩いたり蹴ったり、押入れに入れたり、家から放り出す、蔵のなかに閉じ込めるといった方法をとるのです。
 だからといって、暴力で子どもに言うことを聞かせようと思っているわけではありません。もちろん暴力は言うことを聞かせ、調教する手段ではありますが、親自身もその親の思い通りに動かされてきたために、自分の内側にしまいこんできた心の傷や、その傷に触れたときに吹き出してくるどうすることもできない怒りがどこから来ているのか、自覚できないのです。



 人間は、「されたことをする」。それしか体験していないならば、それ以外の方法を知らないから。でも、そこでとどまってしまわないようにしたいです。そのためには、自分は本当はどうしたいのかを感じることを自分に許すことが始まりだと私は思います。そこのところを鳥山さんは次のように言っています。


★「こどもの声がきこえますか」(法研) より
■からだは、本当に大切なことを見つけるためのきっかけとなるもの
 からだが無意識にやっているふるまいを意識化するのは、自分にとって、何が一番重要なことかに気づくために、長い長い旅のスタート地点に立つことなのです。(中略)
 からだは自然な状態でそれをやれなくなっています。
 つまり、乳幼児のころから、親のさまざまな強迫や洗脳によって操作されているために、こころとからだがなかなかニュートラルな状態になれず、からだの感覚に集中することはむずかしいのです。したがって、当然のことながら、たえず迷い道に突入せざるをえなくなります。
 そんなときは、どんなプロセスも、今この自分のからだは、必要なことをやっていると思ってみてください。
 少しずつからだのことがわかってくると、他人から見たら無駄なような、意味のないような行動に見えても、その人にとっては必要なことをやっていると、気づくことができます。(中略)
 要は、このからだが本当はどうしたいのか、ということだけなのです。人から見たら、迷ってばかりの人生のように思われても、それは本人にとっては気にするに値しないのです。まわりの評価はどうであってもかまわない。ただ、自分自身に自分を問うて、自分が「ああ、生きていてよかった」と満足することが、重要なのです。
 そのためには、自分のからだの、本当の声を聞かなければ、自分の行きたい方向は見えてきません。人間は本来、内なる生命の自然によって発せられるからだの声を頼りに生きています。自分にとって何が必要で、何が必要でないかを、からだはおのずから自然に選択し、行動することができるのです。(中略)
 人間は、自分が本当にやりたいこと(内なるからだの声)を追い求め、それに応えないと、生きられない存在なのです。幸福を感じないのです。



 「親のさまざまな強迫や洗脳によって操作されている」とはきつい言いかたですが、これは「親を代表と知る、その子どもを取り巻く“環境”にさまざまなことを教えられ規定される」というような意味の表現ととらえました。人間は、生き延びるためには周りに同調していく必要もありますが、でも過剰に同調すると自分がなくなる……。
 さて、では、からだの声を聞くにはどうしたらよいのでしょうか。鳥山さんは次のように言っています。


★「こどもの声がきこえますか」(法研) より
■自分の内なるからだの声を聞くには、避けたいいやなことに向かっていくこと
 では、どうやってわが内なるからだの声を聞くことに取り組んでいけばいいのでしょうか。
 それは、意識としては、一番自分が避けたい、いやなことにしっかりと向かい合っていくことからはじまります。
 皮肉なことに、一番いやだ、見たくない、避けたいと思っていることのなかに、その人が、人生のなかで取り組む課題が隠れているのです。無意識に避けていることのなかに、その人をその人らしくさせ、生きる元気を取り戻していくというカギがあるのです。一番いやなことのなかに、人生の課題があるなんてつらいことですが、つらいことを避けてきたために、今、いっそうつらくなっているのですから、仕方がありません。
 自分が今、いやなこと、気になっていること、悩み苦しんでいることがなんなのかということに、気を向けてみるのです。何がいやなのか、気になるのか。なにに悩み苦しんでいるのか、とりあえず意識を向けてみるのです。(中略)
 大変なのは、子ども(我が子)がいい子をやっている場合や、自分が常識にそって生きてきて、それが人からも認められていると思いこんでいる人の場合です。とりたてて今の自分にとって、いやなことなどない、まあまあ順調にいっていると思いこんでいる人の場合です。あるいは、人生すべてプラス思考と決めこんで、いやなこと、つらいことに向き合わない人の場合です。
 こういう人は、つきつめて自分や相手を見るチャンスをつかみにくいのです。ですから問題が顕在化してくるのがとても遅れます。

■からだが実感していることを、あせらずゆっくりと、ことばにしていく
 自分がどんなに未熟であっても、時間がかかっても、「わが内なる宇宙」であるからだの声に耳を傾けましょう。このからだこそが出発点であり、すべての行動の手がかりなのです。(中略)
 けっして、あせらず、ひたすら、このからだが実感していることだけにとどめながら、追求していくのです。不安がおそってくると、早くことばにして納得しようとして、人や本のことばを借りてきて鵜呑みにし、一刻も早く安心したいという欲求がわいてくるかもしれません。
 しかし、それはあくまでも他人のからだのことばであって、自分のからだのことばではないのです。借りもののことばで生きるのは、サイズの合わない服を着ているようなものです。本当の自分ではないのです。あせって、人のことばで語ってしまう人間になると、自分はなくなってしまい、自分の存在はそのことばをつくりだした人に取りこまれてしまうのです。
 ですから、自分の心とからだの声にじっくりと耳を傾け、なにが問題なのか、なにが大切なのかをはっきりと意識していくこと。これこそが、本当に生きるということの、第一歩ではないかと思うのです。



 今、癒しブームといわれていて、癒しのことば集のようなもの、すぐハッピーになれる方法のようなものがはやっていますけれど、鳥山さんから、「そんなにお手軽でいいのか」と問いかけられるような気がしてしまいます。

 確かに「不安がおそってくると、早くことばにして納得しようとして、人や本のことばを借りてきて鵜呑みにし、一刻も早く安心したいという欲求がわいてくる」ことはあります。そんなときにわかりやすいことばを見つけると、ああこれだと飛びつきがちですね。でも「人のことばで語ってしまう人間になると、自分はなくなってしまい、自分の存在はそのことばをつくりだした人に取りこまれてしまうのです」……。
 
 ことばの重みって、ことばを裏打ちしている、そのことばを使う人の人間性といえると思うんです。

 癒されるようなことばやポジティブなことばなどを使って行くにしても、つらいこともいやなことも楽しいことも深く感じて考えて、また、実行したりして、納得した結果として使うならそれは本当に自分の中から出てきたことば、本物ということなのでしょう。

 簡単なことばや簡単なやり方に触れたときでも、ハッとして自分を振り返るきっかけになったり、違う視点で物事を見られるようになることがあります。ですから、簡単お手軽なものが悪いとは思いません。ただ、お手軽なものにばかり飛びつくのではなく、大きくあたまを働かせなくては理解に届かないものを読んだり、体験したり、検討したりすることもとっても大切ということですね。

 蛇足……私はふうるふうるに来てくださるお客様に「自分が気持ちよいと思えるほうを選ぶほうがいいですよ」と言うことがあります。それって安易なほうを選べということじゃないのと思われるかもしれませんが、そうではないのです。
 自分を否定したり、自分を抑えて我慢するなどの傾向が非常に強く、それが自分を規制してしまってとっても生きにくくしている場合にそうお伝えします。そういうかたならば、このことばの意味を受け止めて、きちんと考えてくださるからです。それはとってもありがたいことで、いつも感謝しています。