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生きる力

2005-06-10 22:52:46 | 本や言葉の紹介
 「生きる力」ってどのようなものでしょうか。
 『くらしと教育をつなぐWe』という月刊誌があります。この4月号に黒岩秩子(くろいわちづこ)さんというかたが次のように発言していましたのでご紹介します。


 (今年1月末の厚労相と文科省の予算説明という勉強会で)以前から、文科省の言っている『生きる力』について疑問をもっていたので、ぶつけてみました。案の定、文科省の方のお答えは想像通り、「自分の力で考え、自分の力で……」でした。でも、厚労省雇用均等・児童家庭局総務課の長田浩志さんは違いました。ハンセン病の元患者さんたちとの付き合いの中から、関係性が「生きる力」だと思うという話をしてくださいました。(中略)
 実は、私も、保育者としての知的障害をもつ子どもたちとの付き合いが、私の人生観を180度転換させてくれました。文科省の言う「生きる力」は、健常者のみを前提としているのでは?私がその後考え続けて出した結論は、人間関係をつくる能力が「生きる力」だということです。(中略)
 もちろん、健常者が、人に何かをお願いするということはそうたやすいことではありません。
「自分のことは自分でしなさい」という強い観念が小さいときから作られてしまっています。(中略)
 でも今、私は、自分の名刺に「迷惑をかけあおう」というスローガンを書き込んでいます。せめて私には、迷惑をかけてね、というメッセージをこめて。
 「生きる力」という土台があって、その上に学力とか、体力とか、さまざまな能力があればそれを使いこなすこともできると思いますが、土台がなければ、能力は持ち腐れではないでしょうか? (中略)
 それでは、「生きる力」を保証するエネルギーは、何によって規定されるのか。それは、その人が受けていると思うことができる愛情の分量に規定されるのではと考えています。 めんどうな言い方をしたのは、親は多くの場合、子どもを愛していると思っているけど、かなりの割合で子どもたちは愛されていると思っていない。その「差額」が、現代の一番の大きな問題だと考えています。(中略)
 また、子どもたちは、自分の心と親の世間体とどっちを大切にしているか、という形で愛情の分量を量っています。言語表現ができるようになった子どもたちに、どういうときに親から愛されていると感じる?と聞くと、概してこんな答えが返ってきます。「黙って、見ててくれるとき」。
 「言うことをやめて聞くことに徹して」と要求します。
 多くの自殺する子どもたちは、学校に行くか、自殺するか、の二者択一でものを考えます。学校に行かないという選択肢があるだけで、自殺が防げる、命だけは助かるということがあるのに、多くの親たちが、その選択肢を提示できない、そんな日本社会です。とことんエネルギーがなくなっている子どもたちに「生きる力」をつけるには、「生きていてくれるだけでいい」という愛情を送ることができるのかどうか、が鍵だと思います。



 あなたは、「生きる力」とはどのようなものだと思いますか? 「愛情」ってどのようなものだと思いますか?