ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

梅雨の晴れ間の五月晴れ

2013-05-31 20:15:35 | 犬猫

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 例年よりも10日ぐらい早いらしいけど、おととい、関東も梅雨入り宣言が出ました。
 梅の実はずいぶん大きくなっているし、赤ジソもすくすくとのびている。

赤ジソと梅ってすばらしい組み合わせだなあ。梅干しバンザイ!


田んぼも青々。


 昨日、雨がぱらつく中を自転車をこぎながら、「梅雨入り宣言をすると、だいたいがその直後から晴れるんだよねー、でも今年は雨が3日ぐらい続くらしいな」と思っていました。
 あらまあ、ジンクスははずれなかった。今日はぴかぴかの晴れ。気温も高くて部屋の中でも26℃。
 なのに猫は日向を求めて窓に張りついてる。うーむ。



「うるさいから向こうへ行きなさい」


もう、冷たいんだからあ。
あ、だから暖めてるのね。納得。 


「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」から 4

2013-05-31 10:13:15 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)からの抜粋です。

●師弟関係の型がつくる信頼
玄侑 江戸時代の寺子屋のことを調べていて驚いたのは、寺子屋の教科書は七千種類以上もあったのです。読み書き算盤をやって、周辺の地理を学んだあとは、大工の子は大工の子用の教科書になるわけです。左官屋の子はまた別。そのほか一般職人用のもありました。だから「○○往来(おうらい)」と言いますよね。大工往来とか、左官職往来とか、いろんな往来(寺子屋における教科書)がある。
 要するに、子供たちは一つの教室で学んでいながら、ほとんど全員が違う教科書を使っているわけです。教壇から一方的に先生が話すというのは明治以後欧米から入ってきたスタイルなんですね。ですから、昔の寺子屋の絵柄とか見ても、先生は妙なところにいるんです。個別に教えるしかないですから、つねに誰かに寄り添っている形になるのですね。

  ああ、それはいい話ですね。
 今の学校の教師と生徒の関係は、余計なことが多すぎると思います。もっと単純にして、子供もすぐにわかる共通のルールで構成された、共通の経験の場というものを、見やすく設定することが先だと思うんです。そのなかで、とりあえず「先生というのはこういう立場」「生徒はこういう立場」で「その関係はルールだから、よろしくね」ということが、最初の段階でちゃんと教えられないと。

玄侑 だから、寺子屋のことを考えるとものすごくクリアになる面があるのですが、要するに「学んでいることがみんな全部違う」ということです。学ぶことが違っていて、それで教育が成り立つということは、知識の伝授ではないということです。
  ということですね。モデルがあって、それを丸ごと植え込んでいくという話とは違うということです。つまり、その人間が学ぼうとしていることを理解し、その方向になるべく近づけるように持っていってあげるというのが、おそらく先生の役割でしょう。だって、すべての職業の専門的な知識なんてあるわけないんですから。

玄侑 わけがない。でも、共通する何かはあるんですね。
  あるんです。それはたぶん目標に向かって進んでいくやり方とか、あるいはその基礎となる学び方とか、その学び方の前提――学びにはこういうルールがあり、自分が別の世界に入っていけば、そこにも同じように別のルールがあるんだということ――を、少しずつ教えていくことじゃないかと思います。
玄侑 あるいは、「へこたれたときの励まし方」とかね。「自分も以前はそんな失敗したよ」という眼差しだけでいい。学校の先生も、そんなとき自分が子供だったときにすぐ戻れるというか、すぐ思い出せる人がありがたいですね。
  たしかにそうですね。

 「その関係はルール」ってこと、ちょっと前まではちゃんと言われなくても暗黙の承認のようなものがあったように思う。でも、今ははっきり言われないとわからない人や子どもが多くなったみたい。

 「学んでいることがみんな全部違う」のだけど、基礎となる学び方や学ぶルールは共通なんだよねえ。
 基礎を教えてくれて、へこたれたときに励ましてくれて、自分の経験を分かち合ってくれたら、こりゃぁありがたいよ。
 それができる人が先生なのねえ。


「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」から 3

2013-05-29 11:50:34 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 昨日はすばらしいお手紙をいただき、感謝と喜びで胸がいっぱいに。

 落ち着いて、温かい心と賢さと実行力を率直に発揮すれば、自分もまわりも幸せになっていくんだなあ。
 子どもはちゃんとわかっているから、それを表現できるように導いてあげることが大切なんだなあ。
 などなど、いろんなことを教えてもらえて、私は本当に幸せ者 ありがとう

 シェアしていただけることがどんなにありがたいことか……私にとっては言葉に尽くせないぐらいのことなんです。
 「ありがとうならいもむしゃはたち」って口走っちゃうぐらいうれしいの。
 あ、「蟻が10歳なら芋虫は20歳」って、「タンカバイ」といわれる、的屋、香具師の行う口上だそうです。よけいなことをスミマセヌ。 

  いただいたお手紙、ちょうどご紹介しようと思っていた「師」についての文章とも重なるなあと思いました。

 で、「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)からの抜粋です。
 
第六章 師
●同伴、伴走を経て独り立ちさせる
 (誰かが来て、その人によって自分が「師」として立つときに) そのときに、相手の志に共感できるか、理解してあげられるかどうかというのがものすごく大事なことです。そして、その相手がどこをねらっているのかということが理解できたら、それを邪魔しないようにしないといけないと思うんですよ。たとえ自分が正しいことを知っていて、「この人間に言うことを聞かせたい」と思ったとしても、その人間があるどこかをねらって踏み出そうとしていたら、まずはその人間の志に共感して、励ましてあげないといけないと思いますね。
 つまり、師匠というものは〈半歩か一歩前で同伴し、伴走して、いずれその伴走から外れていくような人〉でないといけないと思うんですよ。そうではなくて、しっかりと手綱をつけて「違う、こっちなんだよ。こっちが正しい。俺が正しいと言う方向について来い」というのは、どうにも違うように思います。
玄侑 ごく基礎的なことというのは、もちろん鼻面を引き回してもらって、覚えるわけですけどね。
 ええ、そうです。ごく基礎的な作法などはその通りです。しかし、それは師匠ではなくてもいいし、先輩でもいいんです。 
 「師」と言われる人は、少なくとも「言う力」より「聞く力」がないと駄目ですね。「ああせい、こうせい」ではなく、「どうなんだい?」というのがつねにないと、弟子は育たないと思いました。そのうえで、やっぱりいちばん大事なのは、〈お互いに、ねらっているところを理解し合っている〉ことだろうと思うのです。

 
師に必要なのは共感と励ましと聞く力、そして、独り立ちさせること。そうだよねえ。
 親は師でもあるんだよねえ。

 ってことは、「ありがとうならいもむしゃはたち」なんてことを教えてた(もっとすごいのも!)わが母は、反面教師だな、きっと。
 本当にね、わが母は「マイマザー」だったしねえ。

 わっかるっかなー? 
 「わがママ」ってこと。  チャンチャン 


窓を開けても閉めてもハルトがうるさいんじゃ

2013-05-26 17:46:57 | 犬猫

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 ギャンギャンギャンギャンとよう吠えるのう。
 窓を閉めとけば「外では何がおこってるんだ、教えろ」と吠える。
 じゃあと開ければ「いろんな音がうるさいから静かにさせろ」と吠える。
 どうせいっちゅーんじゃ。
 
 ご機嫌ななめならずのときでも、夜10時近くなると吠える。
 「アホネエ、はよね寝え。ぼくちゃんにさわるのは許さんが、ぼくちゃんが御寝のときは脇でちゃんと見守っておれ」だと。 なにさまじゃと思っとるんじゃい。

「ハルトさまじゃ。よきにはからえ」

ムッキーッ 

 猫さんはわかりやすいのう。
 ちょっと前まではまだ寒かったようで、「頭隠して尻隠さず型」。


 どっちかってえと頭は出してお腹とお尻をあっためとくほうが気持ちよさそうだけどなあ。いやいや、これにはきっと深ーいお考えがあるに違いないね、うん。
 で、今日は「すっぽりはまり型」。


 毛布をかぶると暑いけど、ないと寒いんだね。
 まだまだ「猫様用の毛布ベッド」(実は犬用を強奪した)は片づけられないのね。

「そうじゃ。よきにはからえ」


はいはい。


東海村事故、放射性物質を確信的に外部に放出

2013-05-26 11:02:51 | 原発

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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  23日の日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)敷地内にある加速器実験施設「J-PARC」の放射性物質漏れ事故で被爆したのは6人、ほかに24人が被爆した可能性あり。
  実験を実施していたのは高エネルギー加速器研究機構(KEK)。事故当初、実験装置の異常を検知して安全装置が働き、警報音が鳴ったが、担当者は安全装置作動の原因が分からないまま午後零時八分に警報をリセットし、実験を再開。
 その後、施設内で放射線量が上昇し再び運転を停止。研究者たちは放射線量が通常時の十倍の毎時四マイクロシーベルトまで上がったのが分かると、換気扇を二度にわたって作動させて施設内の線量が下げ、また運転を再開していた。
 KEKは「今回の事故のように大量に装置外に漏出する事態は考えていなかった」と釈明。施設の32カ所にある換気扇に、放射性物質を吸着するフィルターは取り付けられていない。事故を想定した運用マニュアルも用意していなかった。
  加速器実験施設「J-PARC」は、放射性物質を取り扱う施設でありながら、漏えいを想定した十分な対策が取られていなかった。放射性物質を確信的に外部に放出して実験を続けるなど、研究者たちの安全意識の薄さも浮き彫りになった。

 こういうことを平気でする研究者や施設、信用できません。
 そういうところが出すデータ、信用しません。
 信用するしない以前に、危険なものは危険。原発反対。原子力の平和利用、原子力は安全という言葉にまどわされちゃいかんと思う。  


「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」から 2

2013-05-25 15:26:57 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)からの抜粋です。
 
第四章 慈悲
●宮澤賢治の「第十八願」
玄侑 賢治(宮澤賢治)という人は「慈悲」というものに、ものすごくこだわりました。「捨身飼虎」とか、わが身をロウソクのように燃やして磨り減らす菩薩の話も大好きだったようです。そういうことをこそ、「しなければいけない」と考えた人だと思います。けれども、私はそういう「利他」は、「自利」と同時に開始することはできるにしても、「自利」をないがしろにした「利他」ははたしてありえるのだろうかと思うのです。ところが、『法華経』そのものがそういうふうには説いていないことが問題だと思うのです。ですから、「慈悲」というものをめぐって、彼はひじょうに苦しんだ人だと思います。
 私は、「慈悲」というものは行動じゃないと思うのです。こう言ってしまうと極端ですけど、それは「知恵の開けた心の状態におのずと具わってくる特性」と言ってもいい。

●慈悲とは「相手が感じるもの」
 「慈悲」というのは、理解しようとしても無理なんですね。それはあるとき突然、自分のなかにおりてくる。それは、「あ、そうか。このおかげで……」というふうにやってくる。「おかげで」と理解できたときに「慈悲」がわかるんです。つまり、「これから自分が慈悲を施すよ」なんて言ったって、それはできないことなのです。それはあくまで相手が感じるものですから、慈悲を説くなんてこともできない。相手が「ああ、ありがたい」と思ったことが慈悲なのです。

 そうすると、はたらきかける側にとって「相手が慈悲として受け取るであろう」と想定できるものは何か。僕が思うに、そのもっとも端的なものは〈許す〉ということです。人が人を許すこと――これは難しいんですよ。なぜなら人を許すには、自分を許さなきゃならないのですから。

●人間ができる慈悲行は〈許す〉こと

玄侑 おっしゃる「許す」ことというのは、南さんふうに言い直すと、「目の前のあなたに向き合った〈私〉が、ここでもう一度〈私〉を組み立て直すよ」というような感じでしょうか。
 あ、それに近い。
 私は、ある人間の実存において、彼の犯した罪の意味を汲み取れるかどうか、ではないかと思うのです。これが「許し」の根底にある態度ではないか。そう考えると、その〈許し〉には、他者に対する究極的な想像力がはたらいているのではないでしょうか。そうでないと許せないんですよ。この究極的な想像力を、たぶん「慈悲」と呼ぶのだと思います。そして、この究極的な想像力をストレートに動員できるから〈仏〉で、これは「人間」には起こらないと思うんです。
玄侑 究極的な想像力によって、未来における改悛を想像するのですね。それはたしかに人間には難しそうですね。もともと原始仏典では「慈悲」というのは仏のものだし、『法華経』のなかだって菩薩のものですしね。
 

 「許す」という言葉、人間が使ったらすごく傲慢な感じがするなあと思っていたのですが、「目の前のあなたに向き合った〈私〉が、ここでもう一度〈私〉を組み立て直すよ」という意味にとらえるならば納得しやすいかなあと思いました。
 やっぱり“「慈悲」というのは仏のもの”、人間には難しいんだねえ。

 


ビール日和だからポコリットへ

2013-05-24 11:31:56 | おいしい

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 昨日は、ベルフラワーの切り戻し、ラベンダーの鉢の取り替え、3種類の挿し木をしてベランダを整理。
 武蔵浦和と南浦和の図書館へ自転車でゴー。
 そんなことをしていたら4時近くになったし適度な運動でのどが渇いたので、「これはビールを飲む以外ないではないか」。
 飲むならおいしいのをと武蔵浦和のpoco rit.(ポコリット)へ。

 おや、何かやってるなと思ったら、「ぐるなび」掲載用の写真撮影。珍しい場面に出くわして何となく嬉しい。
 おいしいビールをおいしく飲みながら、タウンガイド本の取材では自分で写真も撮ったなあとか、道の駅のおみやげ紹介用の食品撮りのときは、料理写真家として有名な佐伯義勝さんの仕事ぶりを目の当たりにしたなあなんて思い出にふけっておりました。
 4月に開店したpoco rit.、天井が高くて気持ちのいい空間だし、積極的な接客で、すぐにお客さんがついてご繁昌。


国内へは原発再稼働、国際公約では再稼働不要で大丈夫と明記

2013-05-22 12:30:00 | 原発

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 国民も世界もなめすぎじゃないの?

 でもこんな政権の支持率が70%とかって……支持してるのが国民なんだよねえ。
 なめられて当然なのか?
 それでいいのか?  


「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」から 1

2013-05-21 15:33:24 | 昔の話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 最高気温が28℃って、もう初夏ですな。
 先ほど今年はじめてベランダの日よけを使ったら、あら快適。
 うーむ、あしたはすだれを設置しよう。

 それはさておき、4月22日にご紹介した、「現代人の祈り 呪いと祝い」(釈徹宗 内田樹 名越康文 サンガ新書)でふれられていた南直哉というお坊さんの発言を知りたいと思ったので、「同時代禅僧対談〈問い〉の問答」(南直哉 玄侑宗久 佼成出版社)を読んでみました。
 いやー、面白い。
 お二人とも禅宗のお坊さん。プロフィールを簡単に述べます。
●南直哉 みなみじきさい 1958年(昭和33年)、長野県生まれ。早稲田大学第一文学部美術史学専攻。大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度し、大本山永平寺へ入門。19年間の修行生活後、超宗派の若手僧侶の修行道場「獅子吼林サンガ」主幹を経て、福井市霊泉寺住職、青森県むつ市の恐山菩提寺院代(山主代理)をつとめる。
●玄侑宗久 げんゆうそうきゅう 1956年(昭和31年)、福島県生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、さまざまな仕事を経験したのち、1983年に京都の天龍寺専門僧堂に入門。福島県福聚寺(臨済宗妙心寺派)住職。2001年に「中陰の花」で芥川賞を受賞。

 何回かに分けて抜粋して紹介します。

★第二章 言語
 われわれは〈わかりたい〉わけです。明確な答えを常に知りたい。しかしそれは、答えを得た瞬間に意味がなくなることなんですよ。
玄侑 居心地のいい答えに安住してしまうと、もう「発生の現場」じゃなくなってしまうということですね。逆に言うと、〈異物〉を抱え込むということが、何かを発生させる「現場」を持続させることだと思うのです。

★第三章 出家
●仏教はヒューマニズムではない
 僕が、自分の脳天気な思い上がりにはたと気づいたのは、必死になって考えて、「これは俺が発見した重大な言葉だ」「すごい考えだな」と思っても、ちょっと振り返れば必ず誰かがかなり前にいっている。決定的に大事だと思うことは、ことごとく大昔の人が言っていることに気づいたときですね。「あ、これは俺がいなくても、もうわかっていることなんだな」と思ったときです。
玄侑 いやあ、まったくそう思いますよね。だいたい独創性なんてのは、ほとんどの場合、無知で怖いもの知らずな思い込みですね。だから本当は、理論的に自分のかけがえのなさを説明することは不可能で、本当に自己を縁起のなかでクリエイトしつづける、〈現成(げんじょう)していく〉ということの価値しかないんです。

 世間の人たちは宗教に、「人間としてそこにあること、あなたがいることに絶対的な価値がある」と言ってほしいのでしょう。しかし、それは宗教が言わないことなのです。宗教は、自己肯定の手段としてあるわけではありません。それは自己存在を見つめるものであって、肯定するものではないんです。ですから、〈かけがえ〉があるかないかなんて、はっきり言えばどうでもいいことです。何がそこで起こったのか、あるいはあなたがそこで何を起こしたのか、それが問題なのであって、〈そこにあなたがいること自体〉なんてどうでもいいことだと思うのです。
玄侑 〈かけがえがない〉と思ってくれるのは嬉しいけれど、そこで本人が喜ぶのは甘いなあと思いますね。
南 その意味で言うと、仏教はヒューマニズムではないのです。

 人間が気持ちよくなるために、仏教があるわけではない。宗教というのは、ときに人間を危機に陥れるものであって、平和にするものではないですよ。まともな宗教は、人間を危機に陥れて、「それでどうする?」という話に持っていくのだと思います。ですから、イエスが「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである」(『新約聖書』「マタイによる福音書」10-34)と言ったのは、まったくもってその通りだと思いますね。ブッダも「最終的には涅槃だ」といい、「涅槃て何ですか?」と聞くと、「存在しなくなることだ」と。これは、ちょっと尋常じゃ考えられないことです。


いやあ、すごくまともなことを言ってることにびっくり。でも、そんなことをあえて言わなきゃいけないめんどくささも感じているんじゃないだろうかとも思ったりして。


アルカネットが咲いた

2013-05-18 15:34:04 | よもやま話

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 青い小さい花です。香りがあるということだったけど、この花は香らないみたいでちょっと残念。
  花の色も形もインターネットでいくつか見た画像とは違うので、もしかしたら本当のアルカネットとは違うかもしれません。でも咲いてくれて嬉しい。ありがとう。

 このところの記事、真面目な話が多いので自分でもちびょっとうんざりしております。アー、クッダラネーと笑ってしまうようなことが大好きなんだがのー。残念。
 でも、ベランダは花盛りでなごませてくれます。濃いピンク、淡いピンク、コーラル、黄色、青、白、紫、葉っぱたちも深緑から浅緑までいろいろ。
 今年はガクアジサイがたくさんつぼみをつけているので楽しみ。去年はとっても小さいのが2つ咲きかけただけだったのよ。
  植物さんたち、頑張ってくれてありがとう。あなたたちがいてくれてあたしゃ幸せだ。


戦争絶滅受合法案

2013-05-17 07:54:40 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 「戦争絶滅受合(うけあい)法案」というものをご存じでしたか?
 私は井筒和幸映画監督が東京新聞「いいたい放談」に書いているのを読んで知りました。
 これ、20世紀はじめごろにデンマークのフリッツ・ホルム陸軍大将が起草したということで、長谷川如是閑が雑誌『我等』(1929年1月号)で紹介しました(もしかしたら長谷川如是閑の創作かもしれないとも言われています)。
 さて、フリッツ・ホルムは「各国の議会に送付し、この法案を成立させれば、世界から戦争がなくなることは受け合いだ」と言ったそうです。

「戦争絶滅受合法案」

「戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。
二、国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。
三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。
四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。
五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

 上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべきものにして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し健康状態に就ては召集後軍医官の検査を受けしむべし。
 以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。」
 
 つまり、戦争が始まったら10時間以内に、一から五にあげた者たちから年齢や健康状態に関係なく最下級の兵卒として招集し、一番危険なところへ行かせて実戦に参加させるというもの。
 第一に国家元首、第二に国家元首の男性親族で16歳以上の者、第三に総理大臣、国務大臣、次官。大臣はみんな行くことになります。官僚のトップも行かなくてはなりません。
 第四は国会議員。ただし戦争に反対したものは除外。第五は宗教のトップ、管長、高僧で戦争に反対しなかった者。
 これらの者たちに加えて、それぞれの妻、娘、姉妹等を看護婦や使役婦として最前線の野戦病院で勤務させる。

  もうねえ、こんなの当たり前に各国で制定してほしいよ。
 ノーブレスオブリージュという概念をつきつめて、それを法制化したらこうなるんだろうね。
 ノーブレスオブリージュって、ウィキペディアでは

「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、日本語では「位高ければ徳高きを要す」などと訳される。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。

 貴族制度や階級社会が残るイギリスでは、上流階層にはノブレス・オブリージュ(英語ではノーブル・オブリゲーション)の考えが浸透している。第一次世界大戦で貴族の子弟に戦死者が多かったのはこのためであり(皆志願して従軍した)、フォークランド戦争にもアンドルー王子などが従軍している。
 日本においても、戦前の皇族男子は基本的に軍務につくことになっていた。しかし日本ではノブリス・オブリージュの精神は馴染みが薄いもので、一般富裕層は大事な子供を危険な軍務に就かせる事を嫌って徴兵を忌避するため大学に行かせるなどした。また、若者も厳しい軍隊生活を嫌って大学に入ることを望み、太平洋戦争になっても殆どの大学生は志願せず学徒出陣が実施されるまで戦地に赴かなかった。文系では徴兵されることとなったため、学徒出陣が始まってからは理系学部の受験数が激増したという。

  と解説されているけど、「権力・地位・財産の保持者には社会的責任が伴う」なんてこと夢にも思わないような「第一~五に該当する者」は、戦争が始まったらまず戦場の最前線に行って殺し合え、家族も最前線へ、ということになったら、わが身大事で戦争なんか起こせないよね(そこをなんとか逃れるのが権力と財産を持っているものなのかもしれないけどさ)。 
  戦争の時には国家元首をはじめとする権力者たちや支配者たちは戦場に行かず、安全なところにいて、命令を発し、実際の殺し合いをするのは徴兵された国民。 
 これって、原発事故でも同じだよね。「戦争絶滅受合法案」にならって、「原発事故受け合い法案」をつくりたいよ。


もんじゅ、使用停止命令が出たけど

2013-05-16 10:22:04 | 原発

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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  原子力規制委員会が昨日(5月15日)、日本原子力研究開発機構に対して高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)伸しよう停止を命じることに決めた。組織的な問題点が改善されたと認められるまで運転は禁止となるということだけど、認められたら運転再開ってことだよね。
  昨年11月に点検漏れが発覚した機器約1万点のうち、約500点は停止中の安全にもかかわる機器だったって。そのうえ、今年2月の規制委による立ち入り検査で、新たに点検漏れが見つかった。
 点検漏れ発覚後の聞き取りで、機構幹部は「試験が優先で点検は二の次」、現場担当者は「点検漏れがわかったあとの点検で問題がなかったので、違反との意識もなかった」と答えたとのこと。

  もう廃炉にしようよ。日本原子力研究開発機構そのものがおかしい。高速増殖炉自体がとっても危険なのものなのに、それをこんなに危ない組織にまかせたらいかんでしょうが。


もんじゅ、「一万件もの点検漏れ」とは!

2013-05-15 14:07:43 | 原発

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 ああもう、次から次へと原発はだめというあかしが出てきてるよ。

  東京新聞5月14日朝刊社説「もんじゅ未点検 核燃サイクルは回らず」から抜粋します。
 
 何と一万件もの点検漏れだという。高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)を運営する日本原子力研究開発機構の信じ難い怠慢だ。これでなお動かそうというのか。
 
 核燃サイクルは、破綻したのも同然だ。
 原発の使用済み核燃料を再処理し、原爆の材料にもなるプルトニウムなどを取り出して、再び核分裂を起こさせる。使えば使うほどプルトニウムは増え、永遠に循環する核燃料の輪ができる。これが核燃料サイクル計画だ。
 もんじゅはその輪の要である。1991年に運転開始。4年後、発電を始めてすぐに、冷却材のナトリウムが漏れ出す事故が発生し、長い停止を余儀なくされた。
 2010年5月に運転を再開したが、8月に核燃料の交換装置が原子炉容器内に落下する事故があり、再び止まったままだ。実用化にはほど遠い技術なのである。
 ほっておいても、1年に約200億円の維持費がかかる。冷却などに必要な電気代だけで、10億円にも上るという。
 そのもんじゅで、1万件に上る点検漏れが見つかった。その中には中性子検出器など最高度の安全が求められる重要機器も含まれているという。
 原子力規制委員会は、速やかにもんじゅの運転再開を認めないという指示を出すべきだ。国民にとって信頼できる組織かどうか、重要な試金石である。
 もう一つの要である青森・六ケ所村の再処理工場もトラブルが続き、完工は19回も延期されている。核燃サイクルの輪がつながる見込みは薄い。
 使用済み燃料は、ただの危険なごみになる。既に出してしまった核のごみ処理が、これまで以上に急がれる。
 ことはもんじゅにとどまらず、日本の原子力政策にかかわる重大事だ。未来を見据えたエネルギー計画が必要なのである。

 

 簡単に補足します。
  日本で商用稼動している原子力発電所は全て軽水炉(低濃縮ウランもしくは若干のプルトニウムを混合したウランの酸化物を燃料として用いる)だが、福井県の「もんじゅ」は高速増殖炉というもの。
 ウランには、燃えるウラン(ウラン235)と燃えないウラン(ウラン238)があり、燃えるウランはわずか0.7%
  高速増殖炉は、原子炉のなかで燃えないウランからプルトニウムという燃える核物質を作って燃料に使い、しかも同時に新たなプルトニウムを生み出すという特殊な原子炉のこと。
 高速増殖炉で燃やし終えた燃料(使用済み燃料)からプルトニウムと燃え残ったウランを取り出して(再処理)、燃料として使うようにしようというのが核燃料サイクルである。
 99.3%もの燃えないウランを活用できるはずの
高速増殖炉は普通の原子炉(軽水炉)よりも先に研究、開発が始まったが、費用が高くつくうえに、非常に危険で技術的にも難しく、実験・開発中の原子炉でも事故や故障が続き、いまだにどの国も実用化(商業利用)できていない。

 
原発はいらない。いいかげんにしてくれよう。
 


「全日本おばちゃん党」谷口さんの発言から

2013-05-14 10:35:49 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 “憲法と社会問題を考えるオピニオンウェブマガジン”「マガジン9」に掲載された谷口さんへのインタビューをほんのちょっと抜粋します。

  実は、こういう場を立ち上げたのには、私たち女性の側の自戒の念もあったんですよ。これだけ男性中心の「オッサン政治」の世の中になってしまったのは、もちろん彼らだけが悪いわけじゃない。おばちゃんも「私ら難しいことわからへん」とオッサンに任せきりにしてきたことに対しては反省しないとあかんと思うんです。
  だから、「おばちゃんの"底上げ"がしたい」というのもおばちゃん党の狙いの一つなんですね。知識的な底上げもそうやし、議論の仕方とかもそう。「なんで私、書き込んでもあんまり『いいね!』してもらわれへんねんやろ」とか考えるだけでも、いろんな気づきがあると思います。
 
  今までのフェミニズムとかジェンダーとかを掲げた運動は、あまりにも一部のエリート、そしてキャリア女性のための運動であったなあ、という気がするんですね。それ以外の女性たちにはその概念が伝わらなくて、むしろ敵対するような感じさえあった。その女性同士の対立構造の陰で、ほくそ笑んでるのはやっぱりオッサン、というばかばかしい状況があったわけです。
  もちろん、そういう「エリートの運動」の形が必要だった時代もあったと思うんですが、これから先はやっぱりそうではなくて、「フツーの女性」の問題、という方向に持っていけたらいいなという思いがあって。あえてフツーの女性=「おばちゃん」を自称するのは、そういう理由もあります。

(でも、「おばちゃん」という言葉に抵抗のある人もいませんか。)

  そこはやっぱり、オッサンの「ロリコン文化」に汚染されてますよね(笑)。「女性は若くなければ価値はない」とか、かつてならクリスマスケーキ、今は年越し蕎麦とか、平気で言ったりするわけじゃないですか。
  でも、考えてみたらなんで、単に中年女性を表す言葉である「おばちゃん」を名乗ることが、恥ずかしいことになってしまうのか。なんで目尻にできた皺が、自分の人生の豊かさやと思えないのか。女性たちも「マダム」と呼ばれるなら抵抗がないとか言いますが、フランス語のマダムは「おばちゃん」でしょう。それ以外の日本語訳は思いつかない(笑)。

  私は「3歳からおばちゃんでした」ってよく言うんですけど(笑)、年を若く言いたいとか思ったことは1回もないです。「女性に年を聞くなんて失礼ですよね」と言われたりもするけど、なんで失礼なのか全然わからない。
 
 家事――家の中をマネジメントするって、ありとあらゆる職種をこなせないとやれないことなんです。それを担っている多くの女性――というかおばちゃんを軽んじて見ること自体がおかしいと思いますね。

  結局、女性が生きづらい社会というのは、社会全体が行き詰まっているということでもあるんですよね。だから、本来的には「女性」というカテゴリにこだわるのでもなく、私らがみんな楽しく毎日、仲良く暮らしていける社会にどうしたらしていけるのかを考えたい。「おばちゃん」というネーミングはそこを包括できるものでもあるのかな、と。「党員」は今のところ女性のみですが、おばちゃんマインドを持った男性には、「オッサン」ではなく「おっちゃん」として党の「サポーター」になってもらっているんですよ(おっちゃんサポーターサイト)。
 
  3年後に大阪で「全世界おばちゃんサミット」を開こうと思っていて。そのときはヒラリー・クリントンにもぜひ来てもらおう、という話を仲間としています。もともと、おばちゃん党を立ち上げたときも、海外メディアからの取材がかなり多かったんですよ。そうやって世界的な認知度を高めて、いつか英語の辞書に、「MOTTAINAI」と同じように「OBACHAN」を載せたい、と言っているところです(笑)。


 「全日本おばちゃん党」は、「シャレと勢いが良いところである全日本おばちゃん党。これからも楽しくやってまいります!」と“今からすぐしよ「10のこと」”も掲げています。

●今からすぐしよ「10のこと」
1.ながら仕事大切
2.いらっときたら共有
3.うちの子もよその子も戦争に出さん!
4.息子をおっさんにしない
5.後進を大切に
6.「おばちゃん」を増やす
7.自分を下げてもひとをバカにしない
8.マダムを「おばちゃん」と呼ぶのだ
9.おせっかいは大切に
10.私のことは政治のこと…だから考える!

 私には、3、4、5、10が特に大切に思えるなあ。
 ユーモアとおもしろがり精神って大切だぁ。


「腹太の政策」にも賛成

2013-05-13 14:19:49 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
              (↑これをクリックするとホームページに行きます)

  「全日本おばちゃん党」は「はっさく」の次に経済政策の「腹太の方針」を策定。これは、福祉切り捨て、原発再稼働、被災者切り捨て、改憲などを推し進めようとしている安倍政権の「骨太の方針」に対抗しているらしいです。
 
●腹太の方針(とりあえず版 2013年3月16日発表)                               
 「みんなに優しい国」へのシナリオ
 おばちゃんはお勘定を長ーいスパンで考えたいねん。目先の株価や利益が上がっても、人を育てず使い捨てるような渋チンな会社が回す社会では、安心してお買い物もでけへん長生きの秘訣はプチ肥満や。おばちゃんはここに、日本経済を長生きさせる「腹太の方針」を発表しまっさ!
1.借金は次世代につけ回さず、現世で分け分け
 着やせのコツは、体に合った服を着るこっちゃ。大型公共事業や予算のばらまきより、身の丈に合うた絵をかきましょ。足りひんぶんはあるとこからとってや。それでもアカンかったら、始末(注1)しましょ。
2.子どもに目ぇと手ぇと愛を
 子どもにかけたお金はかけ算で返ってくるで。十分に目ぇをかけ、手ぇをかけ、愛をかけたら10×10×10で1000になるやろ。うちの子もよその子らもいじめや体罰で命を落とさんように、教育にこそお金をかけたろうや。家計のなかでエンゲル係数もエンジェル係数も高すぎやねん。
3. おばちゃんと若い子に職と食の保障を!
  子どもが減って働き手が足りなくなる今、おばちゃんと若い子が職につかれへんかったら日本は回っていかへんよ。ようさん(注2)ちゃんと働いていくには、エネルギー源として、おいしい食べもんが必要や。世間には女の人が半分いてるんやさかい、まずはおばちゃんをどの分野でも3割いれてや。でも、働き過ぎもあきまへん。仕事も、脂肪も、「ぼちぼち」がよろしおすな!
4.ステルスよりも豚まん買うて!
 おばちゃんかて、ダイエットも必要やいうことはわかってんで。外国との問題はできるだけ話し合うて解決したら、戦車や戦闘機のお金はスリム化できるやろ? ウエストのお肉をバストに寄せて上げるように、浮いたお金は福祉や生活に回してや。
5.「三方よし」の心根で
  近江商人の知恵「三方よし」を復活させましょ。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」。こっからは「世間よし」を心がけんと、日本の企業は世界から「はみご」(注3)にされるで。世間を知ってるおばちゃんから、がんがん企業にも政府にも指南したるさかい、聞く耳もってや。

注1 「始末」とは、無駄遣いしないこと、倹約すること。
注2  「ようさん」とは、たくさんのこと。
注3  「はみご」とは、仲間はずれのこと。

  では東京新聞5月13日の記事の抜粋を続けます。

 おばちゃん党の強みは、正面切っては闘わないことだという。だから、本物の政党にもならない。
「オッサン政治を真面目に批判してもだめ。庶民の強みは、権力を笑いとばす風刺とユーモアの精神。特に大阪はそういう文化が続いてきた」と谷口さんは説く。

  谷口さんは「いま自分が首相だったら、楽ちんだなあと思う。国内問題から目をそらすために領土問題を強調したり、国民栄誉賞で目くらましをしておけば、国民は文句を言わないから」
 「しんどいことを誰かや社会のせいにしていても、何も変わらない。市民が法を知って権利を主張し、それぞれの立場で闘わないと為政者の思うツボになる」と警告する。
 「今の世の中をおかしいと思っているのは自分一人じゃない。社会について考え、声を出すことも、闘うこと。みんなで、ゆるやかに連帯して、ツッコミ力を鍛えまひょ」

 
 いやー、「全日本おばちゃん党」はフェミニンリーダーシップを実行しているねぇ。すっきやわー。