武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。
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「ボクは坊さん。」(白川密成 ミシマ社)で笑った、考えた。
「葬式仏教じゃイカンよね。日常にもっと仏教を」と考えているらしい密成さんの、お坊さんになるまでのエピソードやお坊さんライフが笑えて、でもほろりとしたり考えさせられたり。
仏教論も引用もまじめなんだけどわかりやすい。
こんな坊さんが増えてくれたら、仏教って生きるための指標となるもの、生活哲学みたいなもんだと親しんでくれる人が増えるんだろうなあ。
で、思わず笑ったところをご紹介。
★高野山大学に入学したあと、正式に仏門に入る儀式である得度式を受けるために頭をそったとき
散髪を終えて店の外に出ると、その前では、僕が得度式のために散髪をしているという情報を聞きつけた先輩たちが待ちかまえていた。彼はある“儀式”を僕に敢行しに駆けつけた。その儀式とは濡れたタオルを僕の頭に投じ、ピタッと張りついたタオルの端を引っ張って遊ぶ、というそれだけのささやかな儀式だった。それだけのことで、僕は一切の身動きを封じられてしまった。うっすらとはえた髭と同じぐらい短い髪が、タオルとマジックテープのようにからみあっていたのだ。大笑いした後で、特になにも言わずミニバイクで颯爽と走り去る先輩を見つめながら、とんでもない場所に来てしまったと後悔しながらも、なぜか僕の顔はにやけていた。
★高野山大学で軟式テニス部に入り、他大学に試合に行ったときのこと
試合前の練習を開始した僕たちのコートのまわりを、対戦校の学生たちが囲んだと思うと、誰かがこう叫んだ。
「ボーサン、ボーサン、坊さん倒せ!」
すると何十人もの学生が声をそろえて、それに続く。会場は「坊さん、倒せ」の大合唱だ。(でも先輩たちは何ごともないように平然と練習を続けている)
試合が始まっても、僕たちが坊さんであることを揶揄するようなヤジが続いたが、ちょっとしたハプニングがおこった。一番、ヤジのうるさかった選手が僕たちの目の前で足がつって、うずくまったのだ。それはテニスの試合ではよくあること。しかし、その後が普通ではなかった。
なかなか立ち上がれない、その選手を僕たちは全員で取り囲み、合唱して「拝んだ」。 今まで元気いっぱいではしゃいでいた彼は明らかに、血の気が引いた表情をし、会場は低いどよめきに包まれた。
★正式な真言宗の僧侶になるために必修の修業「加行(けぎょう)」をしたときの食事
昼と夜は「おかず」がでるのだけれど、やはり生き物は一切口にしない。
印象的だったのは、「そうめん」「冷や奴」「ごはん」という組み合わせで、すべてが純白の美しい献立だった。
空海さんのことばが多く引用されていて、そのなかでも、ほんとにそうだよねと思ったのはこちら。
★先入観を取り払って、素の心で何かを見つめられたときには、ほとんどあらゆるものが自分にとって意味があることかもしれないと思ったときに引用した空海さんの言葉(現代語訳)
「心が迷いにとざされているときは、めぐり合うものはすべて禍(わざわ)いであり、さとりの目を明らかに見ひらいていれば、会うものはすべて宝となる」
「法句経(ダンマパダ)」の現代語訳を読んでみようと思いました。
桜の蕾が開きはじめました。
まだまだほんの少しですが、この暖かさで急速に咲きそう。