ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

はためくものは猫の服

2013-02-26 13:06:06 | 犬猫

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 おむつのようでおむつじゃない、ロンパースのようでロンパースじゃない、それはなにかとたずねれば~、猫の服、傷なめ防止服。
 ということで、まだ作っております。言いたかないが、“これで完成型か”なんて思ってたのがまだまだだったのさ。
 7着作った時点で3着はすぐ使用不可能になり廃棄。1着は洗いすぎで破れた。勝率5割以下たあ情けねえわい。クウ~。
 マジックテープもねー、縫いつけタイプと間違えて接着タイプを買っちゃったりしたしなあ。アホじゃ。
 で、また作りたしましたよ2着ほど。これでなんとかなってほしいよ。

 では、すてきな幸太君による“ふぁっしょんしょー”をどうぞ。


まといつくものがうざくて、ただうずくまるしかないときもあった……。


動きにくくて呆然とたたずむしかないときもあった……。


頭を打ちつけたくなるときもあった……。


うつろなまなざしでかたまったままのときもあった……。


「大いなるものよ、我をお見捨てたもうのか」という言葉がリフレインしていた……。


でも、賢いボクは悟った!


わが心よ、あるがままにあれ
ボクは今、平穏に包まれている……。
 

あーっ! 目立つところに干さないで! 
おむつみたいでいやなんだよう!


 おや、ふぁっしょんしょーならぬグチ劇場でしたか。すまぬ。
 えっ、何でいつもより写真が小さいのかって?
 そりゃー縫い目がめちゃくちゃで恥ずかしいから~。エッヘン


自分を笑えれば大丈夫

2013-02-24 10:16:49 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 「こんがらがってる自分、悩んでる自分を笑ってしまおう。自分を笑えるようになれば大丈夫」
 「ちっぽけな自分を笑えるようになって、そんなちっぽけな自分をかわいいじゃないかと思ってあげられるようになれば、もうOK」
  私はけっこうこんなことを言ってます。ほんとのことなんだもーん。
 でも、どうして大丈夫なのかは上手に説明できなかったんだけど、 大丈夫の理由の一つが新聞に載ってました。
 東京新聞2月23日「老いを楽しむ 下 ユーモアのすすめ 人間が持つ崇高な力」(柏木哲夫)から抜粋します。

 上智大学名誉教授のデーケン先生はドイツのユーモアの定義に二つあると言っておられる。にもかかわらず笑うこと、そして、ユーモアとは愛と思いやりの現実的な表現であるというのである。「老いているにもかかわらず笑う」ことができれば「老いもまた楽し」という境地になりやすいのではなかろうか。
 有名な精神医学者V・フランクルは「ユーモアが人生をいかす」と言っている。
 強制収容所での「耐えがたい苦しみ」に耐えられず、人々が次々と死んでいく中で、人々に生きる力を与えた三つ、それは祈り、音楽、ユーモアだという。日々祈る人、音楽を愛する人、ユーモアのセンスを持っている人が生き残ったということである。
  フランクルはユーモアの効用として、「自己距離化」という概念を述べている。
 ユーモアによって、自分自身や自分の人生を異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれると彼はいう。
 

  そうなのよ!
 「苦しい状況にある にもかかわらず それを笑う」ことができれば、「苦しい状況」を異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれるから、「苦しさから少し離れることができて、そんな状況をつくってしまった・そんな状況に入り込んでしまった自分を“おばかちゃんだねえ”と愛しく思える」境地になりやすいのよ。


  ユーモア(Humor)の語源はラテン語のHumores(体液)である。人間が生きていくためにどうしても必要なリンパ液、すなわち体液がユーモアの語源であることは興味深い。


 おお、そうなのか。どうしても必要なユーモアのセンスは、人間が生まれもっているものだと思っていいよね。だから、だれでもそのセンスを発揮することができるんだから、大丈夫!

  私はイギリス流ユーモアが好き。「いかなる状況(本来好ましくない状況)にも笑いを添える」「自分自身も笑いの種にする」というセンスが好き。
 「悲しみ」や「怒り」を笑いに変え、「自分を笑いの題材にする」ことをやっていきたい。窮地に陥ったらニヤッと笑ってジョークをぶっ放したい。
 そうできる余裕をもちたいねえ。いろんな視点をもちたいねえ。


こんな連係プレイはいやだよう

2013-02-21 18:28:24 | 犬猫

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 朝方、猫の幸太君が廊下でゲロッピ。薄いけど長さだけはあるペット用カーペット4メートルぐらいのものを2枚洗濯。
 乾いたので夕方取り込んで敷く。うん、やっぱり気持ちいいね。
 で、20分もしないうちに犬のハルちゃんがゲロッピ。
 オオーウ!!!
 汚れたのは1枚なので、それを洗濯。

 こういう連係プレイはやめてちょー!
 もちろん写真は自粛。


生きていて楽にならなきゃだめだ

2013-02-18 12:32:42 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 東京新聞2月17日「あの人に迫る」で1925年生まれの作家・西村滋さんがインタビューされていました。10代はじめに身寄りをなくし、不良少年として12歳で感化院へ。大変な生活をしてきた西村さんが、見知らぬ人にかけられた言葉を教えてくれました。

 あんまり苦しいから子どもながら死のうと思って。名古屋の納屋橋から飛び込もうとしていたら、「しゃれたまねをするな」とひっぱたかれた。酒の匂いのするおじさんです。屋台で舌が焼けるような甘酒をごちそうになって、こんなようなことを言われた。死んだら楽になったことが分からないだろ。生きていて楽にならなきゃだめだ


  そうだねえ、本当にそうだねえ。


ちょっとした言いわけでござります

2013-02-15 09:37:17 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 ずいぶん昔に読んだのでイメージしか覚えていないのですが、4コママンガのサザエさんに次のようなものがありました。
 カツオ君が歩いているときに「この野郎、三味線の皮にしちゃうぞ」みたいな意味の声が聞こえてきて、びっくりして駆けつけてみたら男の人が満面の笑みで猫をかわいがっている。その横でおばあさんがあきれてる。
  私はこのおじちゃんのセンスが好き。照れ屋でいいおじちゃんやなあと思っちゃう。でも、「好きならちゃんとかわいいって言わなきゃいけない」とか、「照れてるにしても言葉がひどすぎる」などと思う人がいるだろうな。そういうセンスの違いや受け止め方の違いは必ずあるもんね。そして、どっちが良い悪いということはないと思う。

 それはさておき、このブログを読んでくださって、「乱暴な言い方だからそういうのはやめるほうがいい」とか「言葉が汚いからきれいな言葉を使うべき」などと言ってくださるかたもいる。
 自分としては全文をひどい言葉で埋めているつもりがなく、使っていてもレトリック、言葉のあや、照れ隠しなどで意識してわざと使っているのだけれど、人それぞれセンスが違うからどうとらえられてもしかたがないなあと思いました。文章の流れから言葉の奥にあるものを感じてもらえないのは私の書き方がまだまだ未熟だから。もっと上手に書けるようにしたいです。トホホ。
 
 ただ、言葉を言葉どおりにしか理解できないのは現実世界を生きるのに難儀だろうなあと推測しております。アスペルガー症候群で当事者もまわりも大変困ることの一つはそれだし、身の回りを見ても諍いの原因が自分の価値観や見方だけにこだわって他者のそれを認めないことであることが多いみたいだし。
 一つの見方しかできないのは自分の世界を狭くしてしまうし、狭くなっているのに気がつけない。レトリックがわからない、言葉のあやがわからないのはコミュニケーションでの困難もかなりなものになるし、たとえば本を読んでも「物語」を楽しめないことだから寂しいなあと思っています。
 私はもっともっといろんな価値観や見方を知って、いろんなことをもっともっと受け入れられるようになりたい。
 
 おや、今日はまともに書いてますなあ、あらみっともなや。

 ↑ というように、まともなことを真剣にしゃべるのは恥ずかしいという思いがあって、真剣に話さざるをえないときもちゃちゃを入れたり自分でつっこみを入れたりしちゃうわけですな。テヘペロ。

 悲しいときこそ胸を張って歩き、悔しいときには笑っちゃえ、苦しいときにはおどけていよう。斜に構えるのではなく、物事はしっかりとらえたうえで気持ちや考え方を少しずらすことで息をつきやすくしたい。
 こんな気持ちがずっとあって、我ながら少しひねくれているかしらんと思っていたけど、「都会の幸福」(曽野綾子 ワック)を読んで、「なんかもやもやするんだよね、なぜかなあ」と思っていたことへの答えのひとつを見つけた気がしました。抜粋して紹介します。

 (羞恥には2種類あり、自分が相手に悪く思われないかという相手への羞恥と、自分に向けられる羞恥である。後者が都会的な羞恥)都会的な感情の一つのタイプは、ものごとが必要以上に拡大化される時に、不安を覚えるという特徴を持っている。
 (知的なこと、高潔なこと、向上心をもつこと、権威に近づくこと、金を持つこと、この道一筋に頑張ること、その他もろもろの)当然世間からはよいことだと見なされているすべてのことにさえ、それがこうじると彼らは羞恥を覚える。つまり、羞恥という形で、彼らはその判断に懐疑の眼を向けるのである。
 羞恥の結果、何がなんだかわからない行動を取る時さえある。真面目にとるべきことをふざけたり茶化したりするのはまだいい方で、重大な場面にはそれとなく居合わせないようにしたり、一蓮托生をすることや団体行動を嫌ったり、早々と諦めたり、とにかくそのことと互角に構えることを避ける態度が多い。
 実はそれが、その人にとって一本筋の通った美学の表現なのである。その懐疑の姿勢が、成熟した人間の精神の馥郁たる香りになる。
 都会的羞恥心はまた、次のような作用を及ぼす。
 彼らはやたらに外国語を使ったり、むずかしい言葉で語ったりすることを避けて、できたら軽くユーモラスに、日常的な和語で、しかも時には、不真面目に不道徳に表現しようとしたりする。外見や表現にこのような反語的ためらいがあるということは、ことに大切な要素なのである。
 言うまでもなく、それは真実内面まで、不道徳で不真面目だということではない。ただそこには「照れる」という一般的な言葉で表現される慎みがあるのである。いや、有限の生を受けた人間の能力の限度を知った上で、自分の言行に信頼をおかない、いや、おけない、という自覚を持つと、自然に、ためらいながら、照れながら、ふざけながら、できるだけ見場悪く言うようにしたくなるのである。
 (自分が「知っていること」を「知られること」の恥ずかしさは)人間を知るが故の不信感に根づいたものであり、人と人とが接触する場合に当然起こるはずの相克を予定してあまり期待しない、という姿勢を身につけたものでもあり、単純な価値観への一種の抵抗の姿勢でもある。

 うーむ、こう表現してもらえるとわかりやすいなあ。
 ぁ、私がそういう粋なヒトであるということではなくてですね、えー、つまりは曽野綾子さんの文章を私のつたない書き方や行動の言いわけに使っちゃいました。ごめんなさい。


酔っぱらって書いていた「家庭は経営するもの」

2013-02-12 08:33:06 | びっくり

 中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 今朝起きてみてびっくり。
 よれよれの字でなんかメモしてある。
 テーマは「家庭、家族」だった。

 いっしょにやっていく。
  会社でも家庭でもそれは同じ。

 なにをいっしょにやっていくのか、
 いっしょにやっていくには何が必要なのか、
 などなど腹蔵なく、でも思いやりと礼儀をもって話し合っているうちに合わないところもわかってくる。
 「だからこそいっしょに」になるか、
 「じゃ、いったん解散」になるかはどっちでもいいのよ。
 何を選んでも、それは自分にとって必要十分条件なのよ。
 GOOD LUCK!

 うーん、けっこういいこと言ってるような気がする。酔っぱらいバンザイ
 しかし、必要十分条件って言葉、こんな使い方でいいのか?
 たぶん、家庭科教科書をつくっていたとき、教科書の最初の項目が「家庭経営」だったのが印象に残っていたんじゃないかなあ。
 家族・家庭って、何となくみんな仲良くなってる、何となくみんなで暮らしてるってもんじゃないんだよね。だれかの「こうあらねばならぬ」という思いこみで運営されなくてはならないものでもない。

 家族だからこそ礼儀が必要。
 家族だからこそ話し合うことが必要。
 家族だからこそ思いやることが必要。
 家族だからこそ「家族なんだから」という思いこみをはずすことが必要。

 家庭って、経営するものなんだねえ。育児なんて特にそうだねえ。

 昨日、そんなことを考えるチャンスをもらえてラッキーでした。ありがとう。

 しかーし、酔っぱらっているあいだに誰かが私を乗っ取って書かせたとしたら……キョワイ


イカはジェットかロケットか

2013-02-09 15:07:31 | びっくり

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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  8日の読売新聞から抜粋します。

 イカが海から飛び出し、体内にためた水を体外に噴射するジェット推進で加速し、ひれを使ってバランスを整える高度な「飛行行動」を行っていることが、北海道大大学院修士課程の村松康太さん(24)らのチームが撮影した連続写真の解析で確認された。
 イカが水面から飛び出すことはこれまでも知られていたが、一連の過程を連続写真で解析して論文にまとめた点が評価され、今月5日付の海洋生物専門誌「マリンバイオロジー」電子版に掲載された。
 村松さんによると、イカの飛行は、〈1〉飛び出し〈2〉噴射〈3〉滑空〈4〉着水――の4段階に分類できる。飛び出しや着水時には腕や頭のヒレを折りたたんでいるのに対し、滑空中には広げており、体を持ち上げる「揚力」を生みだしていた。一方、スミを吐いたり、速く泳いだりする時に使う「漏斗」を用いた海水のジェット推進も、水中と空中の両方で行っていた。
 撮影したイカはスルメイカの仲間とみられ、時速約36キロ・メートルまで加速して高さ2~3メートルに達し、3秒間で約30メートル飛行したと分析された。村松さんは「捕食者から逃げるため、飛行能力を発達させたのだろう」と話している。
 

 詳細なイカの飛行行動を明らかにしたのは世界でも初めてだそうで、今回の研究で、イカは高度に発達した飛行行動を持つことがわかったとか。
 私がびっくりしたのは、身近な存在であるイカのことが意外に知られてなかったってこと。そして、飛んでいる姿がとても美しいこと。
 詳しい説明と画像は、北海道大学総務企画部広報課のPRESS RELEASE (2013/2/7)を見てね。

 水面から飛び出すときは、水の抵抗を小さくするためにヒレを外套膜に巻き付けて腕もたたみ、吸い込んだ水を噴出口から勢いよくはき出す。
 空中では水を噴射し続けて空中でも加速し、ヒレと腕と腕の間にある保護膜を広げて揚力を生み出す。
 水の噴射が終わると、バランスをとりながら空中を滑空する。
 着水時は、水面から飛び出すときのようにヒレを外套膜に巻き付けて腕もたたみ、少し前傾姿勢をとって着水の衝撃を小さくする。

 うーん、合理的だ。

 

 

 

 

 

 

 


野沢菜漬けは酸っぱい白菜漬けだった?!

2013-02-07 14:49:47 | びっくり

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 2か月ほど前にしこんでそのままにしておいた白菜漬けを食べ始めました。

 あのー、“白菜漬けの作り方”を調べてみると、「水があがって、水面に白い幕のようなものができる前に食べきること」とか、「白い幕のようなものができたらダメ。それは腐ってる」みたいな解説をしているのが結構あるん。
  こんな解説を読んだとき、ほんとに「あーらびっくり」でした。 
 発酵と腐敗をごっちゃにしないでおくれよう。
 いま人気のキムチだってさあ、発酵が進むのがあたりまえで、発酵が進んだキムチの使い方がずいぶん説明されてるじゃないか。

 それはさておき、白菜漬けですが、白い幕が張ってますわいな。酸っぱいほうが好きだからなんの問題もありまっせん。

 私が育った場所は東京のベッドタウンといわれるように東京にとっても近いさいたま市。
 冬場はそれほど寒くないんだけど、漬け物はふつうに漬けてました。
 台所には一年中ぬか漬けがあり、冬になると大きな木の桶で白菜漬けを漬ける。4人分ぐらいだから、桶は1つだったなあ。私は8歳ぐらいから一人で漬けてました。
 白菜と塩だけを使っていたからそれがふつうだと思っていて、大きくなってから、白菜漬けをつくるときに昆布やら柿の皮やらを入れるなんていうレシピを見たときには、もう「異文化にであったようなショック」でした。もちろん私が蛮人ということで。
 でも今でも白菜と塩のみ。白菜の甘みがあればそれで充分なんだもの。
 
  で今回は、長期間つけ込んだままにしていたのでかなーり発酵が進んで酸っぱくなっています。緑が濃かった外葉もアメ色がかっていて、それを刻んで食べたら、なんかね、白菜の味というよりはいつかどこかで食べた漬け物の味と姿。

 いろいろ思い出してたどり着いたのが野沢菜漬けでした。ほんとにそっくり!
 調べてみたらそれもそのはず、白菜も野沢菜も「アブラナ科アブラナ属」で、その中でもかなり近い関係らしい。

 いつもはそんなに長く漬けておかないのですが、これの前に漬けたものがまだ残っており、それを食べきってからにしたため、発酵が進んだのです。そのおかげでちょっとびっくりの発見(おおげさ?)ができました。おもしろいねえ。


学ぶことの本質とは

2013-02-02 15:54:24 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 『学問ノススメ。 学校では教えてくれない達人の知恵』(徳間書店)の、福岡伸一さんの言葉を抜粋して紹介します。

 あるとき、若い読者から「どうして勉強しなければいけないのですか」という質問を受けました。いくら三角関数や微分・積分を勉強しても、日常生活には役に立たないじゃないですかというわけです。しかし実は、そこに学ぶということの一番大事な側面があると思うのです。
 たしかに私たちは数学や理科を学ばなくても生きていけます。ただ、学ばずに生きていくと視覚や聴覚などの五感だけを頼りに世界を見ることになります。それは実は、世界をゆがめて見ていることになるのです。私たちは視覚でものを見るときに、見たいものを見るだけですし、しかもいろいろな方法で処理して見ているわけです。たとえば虹は7色といわれていますが、本当は連続した色のスペクトルであって、民族によって虹が何色かはちがって見えているわけです。
 (1600年代に)世界は絶え間なく動いているので、その動きを止めることができたら世界のすべてを記述できるのはないかと考えた人がいるのです。そこで考え出されたのが微分・積分という方法です。だから、微分・積分の公式などは本当はどうでもよくて、微分・積分を学ぶことは、それがどのような世界を記述しようとしているのか、そういう形で世界を記述したいと思った当時の人々の思いや考え方を学ぶことなのです。
 自分が持っている五感だけで世界を見るのは、小さなツボの中に入って、その壁に開けた5つの穴から見ているようなものです。世界は本当に絶え間なく動いていて豊かなものなので、学ぶことによっていろいろな見方を獲得しなければ、私たちは世界を豊かなものとして見ることができないのです。それが学ぶことの本質だと思います。

うん、視野を広げる、いろんな視点をもつ、自分の世界を広げて豊かにする、それって楽しいことだもんね。だから学ぶんだ。