ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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自分に失礼

2004-02-21 22:25:58 | まじめな話
 ずいぶん陽がながくなりましたね。温かくなり、春めいてきました。ジンチョウゲも咲きはじめ、よい香りが漂っています。春生まれだからでしょうか、ジンチョウゲの香り、大好き! スイセンやフリージアも。そんなことを言ったら、初夏のクチナシ、秋のキンモクセイの香りも好きだし、野バラ、スイートピー……って、好きな香りと春生まれにはあまり関係ないですかね、えへへ。

 去年後半から、「自分に優しくする、自分を愛するって、どうやればいいの?」という質問を下さるかたにお会いすることが多かったんです。

 私もね、ずいぶん長いあいだわからなかったんですよ。「自分を大切にしてはいけない、自分を犠牲にして、自分を最後にして他人につくさなければいけない、自分を大切にするなんて自分を甘やかすことだ、苦労すればするほどよい、苦労は買ってでもしろというぐらい、自分を苦しめることはいいことだ」等々、すさまじい思いこみがあったんですよ。
 そういう価値観を受け入れざるをえなかった人って、けっこう多いようですね。生きるためには自分がいる状況に適応することが必要だし、過剰適応しないと生き延びられなかったというような。

 自分を大切にすることや気持ちよく生きるのって、わがままなことや罪なことではないということがわかった・理解できたというのは、ほんの少し前のことなんです。はっきりとした形になったのはホントに数年前。

 あるとき、そうですね、15年以上も前でしょうか、「もし大切な友達がそんな立場にいたら、あんたはその人にどうするか」と言われました。「できないことはできないと言う。でも、これならできるよ、こうしたいと思うよ、できることはするよって言う」というようなことを答えたら、「それを自分にしなさい。できないのは、自分にケチだからだ。自分を粗末にするのは楽しいか。もし自分を粗末にすることが安心をもたらすならば、それはそうしないと不安だというパターンにはまりこんでいるからだ。自分を大切にできなければ、人に何かをするにしてもそれは偽善だ。自己満足のためにやっているに過ぎない」……。

 私は自分にケチなのネ~、吝嗇の因業ジジイ、いや、ババアなのネ~、と今なら笑えますが、深く深く身についてしまっていた価値観に波紋が立ったときは、もう???。

 まあ、その後オーラ・ソーマやさまざまなワークに出合え、いろいろなことを経験でき、やっと「自分の身体も魂も天からの借り物、身体も心も思考も、たくさんの存在に育てていただいたもの。ありゃまー、自分のものじゃないのネ~」と思えるようになったら、自分の身体や気持ちを粗略に扱うのって失礼だと思えるようになりました。

 それで、とっても大切な人が同じ状況にいたらどうするかを想定してみて、どうしたらいい状況になるかなあ、自分にできることは何かなあと考え、できることをやってみようと思ったんですよ。他人に対してできるなら、自分に対してもできるって思って実行しようと。「私の中の私の大切な人」に向かって、やらせてもらえることをやらせてもらうってことかな。

 私も自分に優しくできずに粗略に扱ってしまいがちなので、このように考えて、尊重するようにつとめています。

 自分を大切にするって、照れくさかったり、甘やかしているんじゃないかなどと罪悪感を感じたりしやすいですけど、それはもう手放していいんじゃないですか?

 自分で自分を大切にできなくてどうすんじゃい! もったいな~い、ですね。