お客様とのセッションのときなどに「自分の賢さを上手に使ってあげましょうね」などとお伝えすると、「私は頭が悪いから」とおっしゃるかたが結構おいでです。その反応にはびっくりします。だって、より良く生きようと思い、そのきっかけを探しに「ふうるふうる」に来てくださっているのに、そう思う頭が悪いわけがない!
単に学校の成績が良くなかったり、苦手な科目があったりということが頭が悪いということに結びついているみたいです。でもね、頭がよい、賢いってことは、学校の成績とイコールじゃないですよね。あなたはどのように考えますか?
最近、頭のよさ、知識、教育などについてふれている文章に立て続けに出会ったのでご紹介します。
●「死ぬための生き方」(佐藤愛子 海竜社)
アタマがいいと一口にいうけれど、アタマのよさにもいろいろあるのだ。例えば記憶力がいいことを、世間ではアタマのよさの第一に挙げる。小学校、中学校、高校などではとにかく記憶力さえよければアタマがいいと太鼓判を押される。だが大学に入り社会に出ていくと、記憶力のよさだけで勝負はつかない。記憶力抜群のアホ(としか思えない)がいるのである。
それは記憶するばかりで、「考えない」というアホである。知識は頭に詰め込めばいい、というものではない。身につけた知識をもって、深く考える。知識を咀嚼し、血とし肉としてこそはじめて「アタマがいい」ということになるのだ。
記憶力がいいからといって、教養が深いとは決められない。たとえいかなる物識りと自任していようと相手かまわず記憶力のひけらかしなどするべきでないということを認識してこそ、教養ある人といえるのである。
さすがに佐藤愛子さん。わかりやすい言葉でズバッと言ってくれてます。
●「わかることは変わること」(佐治晴夫・養老孟司 河出書房新社)
養老 本当の自分があるという考え方は、これだけ普及した。僕も実際、そういう教育の下で育ってきたんですよ。そうしたら教育の価値がどんどん下がった。それは考えてみたら当たり前だなあと思ったんです。
なぜなら、本当の私があるということは、自分の本質は変わらないということですね。(教育しても)本質は一切変わらないで、人間の飾りみたいなところが変わるだけ、ということになるでしょう。そうすると教育の価値が下がるのは当たり前ですね。
自分というのは、いわば外枠からできていくものだというのが本来の日本の考えです。だから年をとればとるほど、ある意味で自分ができてくる。本当の自分って初めから置いてあるものではないんです。
司会 お二人がいつもおっしゃることは、「学ぶ」とか「習う」ということは自分が「変わる」ということで、学んだことや習ったことはそこで初めて理解するのであり、自分が変わらないのであれば何の意味もない、まさしくそうだと思います。
養老 変わらないけれど頭に入っているものを、ただの「知識」というんです。
もっといえば、ただの知識じゃないものは、自分の中に入ったときに自分の行動を変えるということです。もはや知識ではなくなって、その人の現実に変換しているということです。
何かを学んだことによって自分が成長していかなければ、それは単に知識が増えたということ……耳が痛いです。
●「個人と国と国際と」(犬養道子 岩波ブックレット)
頭の中に知識の断片を詰め込むのは教育ではない。知識は、少々極端に言うならあとでよろしい。発見しつつ、自分の才が引き出されるのを感じつつ、学ぶということがどんなに楽しいことかを一人ひとりが知ったなら、大仰に言えば一つの字も覚えないで学校を出ちゃったっていいのです。その人はあとで必ず、みずからすすんで知識を身につけるはずだからです。
犬養さんがここでいっている「知識」とは、頭に詰め込まれているだけの知識ではなく、自分や周りをよりよく変えていける知識、養老さんに言わせると「その人の現実に変換していけるもの」ということですね。
単に学校の成績が良くなかったり、苦手な科目があったりということが頭が悪いということに結びついているみたいです。でもね、頭がよい、賢いってことは、学校の成績とイコールじゃないですよね。あなたはどのように考えますか?
最近、頭のよさ、知識、教育などについてふれている文章に立て続けに出会ったのでご紹介します。
●「死ぬための生き方」(佐藤愛子 海竜社)
アタマがいいと一口にいうけれど、アタマのよさにもいろいろあるのだ。例えば記憶力がいいことを、世間ではアタマのよさの第一に挙げる。小学校、中学校、高校などではとにかく記憶力さえよければアタマがいいと太鼓判を押される。だが大学に入り社会に出ていくと、記憶力のよさだけで勝負はつかない。記憶力抜群のアホ(としか思えない)がいるのである。
それは記憶するばかりで、「考えない」というアホである。知識は頭に詰め込めばいい、というものではない。身につけた知識をもって、深く考える。知識を咀嚼し、血とし肉としてこそはじめて「アタマがいい」ということになるのだ。
記憶力がいいからといって、教養が深いとは決められない。たとえいかなる物識りと自任していようと相手かまわず記憶力のひけらかしなどするべきでないということを認識してこそ、教養ある人といえるのである。
さすがに佐藤愛子さん。わかりやすい言葉でズバッと言ってくれてます。
●「わかることは変わること」(佐治晴夫・養老孟司 河出書房新社)
養老 本当の自分があるという考え方は、これだけ普及した。僕も実際、そういう教育の下で育ってきたんですよ。そうしたら教育の価値がどんどん下がった。それは考えてみたら当たり前だなあと思ったんです。
なぜなら、本当の私があるということは、自分の本質は変わらないということですね。(教育しても)本質は一切変わらないで、人間の飾りみたいなところが変わるだけ、ということになるでしょう。そうすると教育の価値が下がるのは当たり前ですね。
自分というのは、いわば外枠からできていくものだというのが本来の日本の考えです。だから年をとればとるほど、ある意味で自分ができてくる。本当の自分って初めから置いてあるものではないんです。
司会 お二人がいつもおっしゃることは、「学ぶ」とか「習う」ということは自分が「変わる」ということで、学んだことや習ったことはそこで初めて理解するのであり、自分が変わらないのであれば何の意味もない、まさしくそうだと思います。
養老 変わらないけれど頭に入っているものを、ただの「知識」というんです。
もっといえば、ただの知識じゃないものは、自分の中に入ったときに自分の行動を変えるということです。もはや知識ではなくなって、その人の現実に変換しているということです。
何かを学んだことによって自分が成長していかなければ、それは単に知識が増えたということ……耳が痛いです。
●「個人と国と国際と」(犬養道子 岩波ブックレット)
頭の中に知識の断片を詰め込むのは教育ではない。知識は、少々極端に言うならあとでよろしい。発見しつつ、自分の才が引き出されるのを感じつつ、学ぶということがどんなに楽しいことかを一人ひとりが知ったなら、大仰に言えば一つの字も覚えないで学校を出ちゃったっていいのです。その人はあとで必ず、みずからすすんで知識を身につけるはずだからです。
犬養さんがここでいっている「知識」とは、頭に詰め込まれているだけの知識ではなく、自分や周りをよりよく変えていける知識、養老さんに言わせると「その人の現実に変換していけるもの」ということですね。