ハルト、昨夜と今朝はそれほど騒がなくてホッ。あくまでも“それほど”だけど、騒音レベルが低くてありがたし。
もしかして、昨日ねーちゃんの二の腕に噛みついてアザをこさえたことを反省しているのか
そんなんで静かにしてくれるンなら今日も噛んでいいぞ と思ってしまった。ヒイ。
手回し式のシュレッダー、切れが悪くなっちゃって。
少し噛みこんでくれるのだけど進まないのよ。1センチぐらい進んだら止まっちゃうのよ。
ずいぶん前に買ったときはどこにでもあるというものじゃなかったので、探すのが面倒かなあと思ってむりやり使ってました。
でも今日、「イヤーン、もう使えないー。とにかく探すー」の気持ちになっちゃったので、近くのホームセンターとちょっと大きめのスーパーマーケットに行ってみたら、あら、電動式が主体で種類もけっこうあるじゃないの。
手回し式のも見つかりました。さっそく購入、さっそく使用。
ンまー、するすると快調に動いてくれます。うれしいことうれしいこと。雨の中、長靴はいて出かけたかいがありました。
えへ、ラッキー
しゃーわせ
曽野綾子さんは『現代に生きる聖書』(日本放送出版協会)のなかで、
ある宗教の信仰が本物かどうかを決めるにはいくつかの基準があります。それには、教団がお金をとらない、信仰を強制しない、教祖が自分のことを神とか仏とか言わないことなどがありますが、と同時に、現世での利益を要求しない、現世で報いられることを期待しない、
ということも含まれていると思います。
と言っています。ほかの本でも、
1.入信・寄付の強制をしない。
2.教祖・布教者が質素な生活をしている。
3.生まれ変わりといわない。
4.病気が治ると保証しない。
ということも言っています。確かにねー。
新約聖書には、イエスの死後に弟子たちによってつくられた初代キリスト教会に大きく貢献したパウロの手紙が収められています。
パウロは、はじめはユダヤ教側で、イエスとその教えに従う使徒たちを弾圧していたけど、“神に出会う体験”をして“目からうろこのようなものが落ち”て回心し、キリスト教徒になって布教につとめた人。だから、ユダヤ教側からは裏切り者として、キリスト教側からは疑いの目で見られるというキツイ立場だったし、最後は処刑されているらしい。
そんな人が「コリントの信徒への手紙」で「愛」について書いており、曽野さんは自分の体験を例にしています。
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)から抜粋します。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
この一節を通してパウロが言っているのは、愛は観念ではなく行動だということです。そして行動ということであれば、私たちはみんな間違える。間違えない人は一人もいない。だから相手が犯したことをまず許すこと(寛容)から始めるのだ、と言っています。
「礼を失せず」(見苦しい振る舞いをせず)というのは、他者を無視してはいけない、配慮しなさいということ。つまり、エゴイズムの否定です。私はこの部分にずいぶんショックを受けました。特に根拠はないのですが、私は家族には愛があると思っているし、愛があれば気楽にしていいものだと思っていたのです。しかし、そうすると、自分の感情に溺れたり、辛いときにはわめいたりサボったりするようになる。つまり、見苦しい振る舞いをするわけです。しかし、それではいけない。愛があるならたとえ家庭の中でも、見苦しい不作法な振る舞いをしてはいけない、ということなのですから。
うん、親しき仲にも礼儀あり。
「自分は家族のことを理解しているし、家族も自分のことを理解している」って何となく思い込んでるんだよね。だから、「何も言わなくても気持ちは通じてる、だから家族に対しては傍若無人の振る舞いをしてもいい」と思ってる。
自分が望んでいることを自分から言わなくても家族はそれを察して、自分が思うように家族が動くのが当たり前って思ってる。そんな人ってけっこう多い。
いちばん身近な人ほど大切にしたほうがいいのに、逆のことやってるんだよねー。
「“愛”を実践するならまず家族から、身近な人から」ってのをおすすめしちゃうわ。
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)から抜粋します。
「あなたを訴えて下着をとろうとするものには、上着をも取らせなさい。」(マタイによる福音書)
考えてみると、これも変な順序です。追いはぎをするなら、まず上着を取らなければいけない。それなのに下着を取ろうとするとは、どういうことなのか。
当時は下着は麻でした。比較的安いので、相当貧乏な人でも下着の着替えを持ていました。そして、上着はウールです。(砂漠の昼間の暑さと夜の寒さを防ぐことのできる)ウールの上着はやや高価なものですから、たいていの人は1着しか持っていません。質屋などでも、上着を質草にとっても日没までに返さなければいけないという規定が当時でもありました。夜の寒さがやってきたら、上着がないと人間はなかなか生きにくい、だからそれまでに返しなさい、ということなのです。
つまり、下着は着替えがあるから取られても何とかなる。しかしイエスは、人の生存にかかわるようなウールの上着さえも、あなたは求められたら与えなさい、と言われているのです。ここは、当時の習慣を知らないと、なぜ順序が逆になっているのかがよく分からないところです。
正しい知識がないと正しく解釈できないのねえ。
しかし、奪うにあたっての下着と上着の順序なんて気がつかなかったわ。
昨日あたりからハルトのボケがまた進んでしまったみたい。
昼間、目を開けて寝てるよ。
夜中0時過ぎぐらいから2時間近くも「ヒュイィーー」「ヒャウーー」と叫びながらウロウロドタドタと徘徊。どきどき遠吠え。
そのたびになだめ、でもすぐに再開し、なだめ、再開し……エンドレスかよと思うぐらい繰り返して疲労困憊したのは ワタシじゃ。
ひっぱたいてしまいたいという気持ち、湧きましたともさ、ええ。
そのたびに「理性の愛、理性の愛」と唱え、「これが人間だったらこんなもんじゃすまないだろうなあ、ハルでよかった」「うちのジーさん、ぼける前に死んでくれてありがとさんだったねー、イッヒッヒ」「うーむ、アテクシが酔っぱらって記憶をなくしてるときって、こんな感じなんじゃなかろうか 皆様ごめんなさいです」などと心をまぎらわしているうちにやっと寝てくれた。
ほっとして横になったのもつかの間、5時前から「ワン ワン」と
はいはい、夜中にあんだけ騒いでも早起きは変わらないのねー、元気なじじいじゃ。がっくり。
エサと散歩をすませても、まだ吠えてたのよ。
今日は夕方と夜に長めに散歩させてみようと思ったのだけど、ハルって長めに散歩すると興奮しちゃって、家に戻るとかえって暴れまくるんだった。
どないせえっちゅうんじゃ。
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)から抜粋します。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書)
どうやったら向かい合った相手の「右」の頬を打てるかというと、右利きの人の場合なら手の甲で打つのです。
この手の甲で打つことは、相手に非常な侮辱を与えるものであったということになっています。
(ユダヤ法では、手の甲で打つと手のひらで打つ2倍の賠償金を払わなくてはならないと定められていた)
しかしイエスは、手の甲で右頬を打たれるほどの侮辱を受けても、さらに左の頬を向けなさいと言われます。人間どうしの関係あるいは判断においてなされた侮辱などということは何でもない、問題は神から見て自分がどうであるかということであり、本当に自分が侮辱されなければいけないものかどうかは神が決めるというのです。
神に対して恥じることがなかったら打たれていればいいし、さらに左の頬をも差し出せばいいのです。つまり評価を人間の目でしてはいけない、人間関係において決着をつけてはいけないのです。これは大変難しいことで、私たちはこのような見方はすぐにはできません。けれども、こういう見方もあることを知らなければならないのです。
神の目で見ることは不可能だけど、せめてロングスパンで見られるようになりたいねえ。
しかーし、「右の頬」を打つとき、打つ人のほうはどのようなかたちになるかなんて気がつかなかったよ。
手の甲で打つのが非常な侮辱であることも知らなかった。
聖書だけでなくどんなことでも、知らずに見過ごしていることって多いんだろうなあ。
あたしは本や物事を表面だけでとらえてし判別しがちだってことに、もっともっと気をつけよう。人間のなかでも非常に頼りなく幼い目で評価していることをうーんと自覚して、忘れちゃいけないなあ。
「理性の愛」での曽野綾子さんつながりで書きます。
聖書の言葉や言い回しって、私には「こりゃーどういう意味なのよ、わかんないなー」というのが多いのだけど、聖書についての曽野綾子さんの解説では「へー、そうだったのか」と驚くことや納得することがたくさんありました。
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)からいくつか抜粋します。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書)
これにはみんながびっくりするのです。“心の貧しい”という表現は、日本語ではあまりいいことではなく、心の貧しいようではだめだと言われるくらいですから。
心の貧しい人というのは、「自分の貧しさを知る」という態度のことで、(中略)つまり何も持っていない人のことです。才能も教育もなく、親や親戚の引きも社会の保護もなく、健康でもないといった、何もかもない人、そういう人だけが幸いである。なぜならば、その人だけが本当に神に祈り、神に自分の運命をゆだねようという謙遜の気持ちになるからだというわけです。逆に言えば、私たちは不遜だということなのです。
何も持っていない人、自分がいかに貧しいかを知っている人を、なぜ“心の貧しい人”と訳したんだろうなあ。 そっちのほうが不思議だなあ。
“戦慄の血液検査” に行ってきました。
はい、ハルトはいつものように泣き叫び吠えまくり、待合室の椅子の下にンチまでもらしてしまって、 相変わらずの大迷惑をおかけしてしまった。ごめんなさい。
肝機能改善薬の「ウルソ」を約1カ月服用しての血液検査の結果、かなーりの改善が認められました!!!
ばんざーい ばんざーい ばんざーい
(5/5) (6/16)
GOT/AST 102 → 26
GPT/ALT >1000 → 115
ALP >3500 → 2482
ALP(アルカリフォスファターゼ)は、「肝機能が低下し、肝臓内の胆汁の流れが悪くなると、胆汁中に存在するALPが血液中に漏れ出し、数値が上がる。」ということなので、肝細胞の破壊が改善されているのだからALPももっと数値がよくなるんじゃないかとほのかな期待を抱いております。そうなってほしいの。
これで、サプリは使わないで、ウルソだけでやっていくことになりました。でも、1カ月ごとの採血は必要……。ヒイ。
とりあえず祝杯じゃー
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)からの抜粋の続きです。
愛というものは心からなる感情でなければいけないと思うところに、今まで説明不足があったと思うのです。奉仕活動やボランティアなどをしていらっしゃる人でも、いつもいつも相手に対して善意を持ち続けることはできないと思います。ときには、瞬間的に憎しみのようなものを持つこともあるでしょう。
それでも、まったくたじろぐことはありません。そのときに自分がどうすべきかということさえ分かっていれば、それは続いていって、ある瞬間に、それが「フィリア」という自然な感情に迎えられて融合することもあるということなのだろうと思うのです。
理性の愛を行動しているうちに、自然な感情からの愛が生まれるかもしれないってことかしら。
うーん、“「フィリア」という自然な感情に迎えられて融合する”ことを期待しないことが肝心だと思うなあ。
うん、“「フィリア」という自然な感情に迎えられて融合する”ことがなくてもいいんだよ。
曽野さんは『幸せは弱さにある いまを生きる「聖書の話」』(イースト・プレス)では、「理性の愛」について次のように言っています。
わかりやすく言えば、「好きにはなれない敵に対しても、理性の力で好きであるかのようにふるまえる」ことです。それだけに、「アガペー」は非常な苦しさ、悲痛なまでの覚悟を要するのです。
嫌いとまではいかなくとも、好きでない人との間に好意を保ち、循環させようとすると、「アガペー」の愛が必要になるのです。
やっぱり「理性の愛」って大切なものだよね。
「理性の愛」の行動をすることって、ウソをつくことじゃないんだよ。人間だけができる「非常な苦しさ、悲痛なまでの覚悟を要する」行動かな。
電力業界の改革に向けた改正電気事業法が11日に参院本会議で成立したから、料金や発電方法で好きな会社を選択できるようになるって。
今日2014年6月12日の東京新聞朝刊記事から抜粋します。
今回の改正は3段階で進める改革の第2段階で、家庭への電力販売に多くの企業が参入できるようになる。
改正後は、2016年末をめどに電力会社の「地域独占」が撤廃されるため、他業種からの新規参入や、営業区域を超えた電力の販売が可能になる。
「再生可能エネルギーだけで発電した電気を買いたい」という顧客の要望に応えた小売会社が出てくるかもしれない。
競争が起きることで高止まりしている料金が下がりやすくなるとはいえる。また、選択肢も増えるため、利用者は生活に合った安いプランを選ぶことができるようになる可能性はある。
しかし、海外の事例をみると、安くならなかったこともある。
とりあえずよかった。
なるべく再生可能エネルギーで発電する会社がシェアを伸ばしてほしいなあ。
改革の第3段階については来年の通常国会で、大手電力会社の発電、送電、小売りの各部門を分社化する法案を提出する見込みだそうです。成立すれば18年~20年をめどに実行することになるけど、たとえば東京電力では先取りして、16年に持ち株会社制を導入して傘下に発電、送電、小売りの三社を設置する方針だって。これは既得の利用者の囲い込みを狙ってるってことだよね。
私が「理性の愛」という概念を知ったのは、作家の曽野綾子さんのエッセイからだったと思います。
「神が人間を愛すように愛す」のが「理性の愛」……それじゃあ理性の愛って、人間にはできないことじゃないのー って思っちゃうけど、曽野さんは具体例をあげて解説してくれているので紹介します。
『現代に生きる聖書』(曾野綾子 日本放送出版協会)からの抜粋です。
(アガペーが)「敵を愛しなさい」の愛、いわゆるキリスト教的な愛です。これはただ、好きなどというものではありません。くじくことのできない慈悲であり、打ち破ることのできない善意です。別の言い方をすれば、「理性の愛」です。
私たちはしばしば、愛するということが自然発生的な感情の結果であると思っています。でも、そうではないのです。本当の愛は、私がこの人に対してどうあるべきかということをする、そのことが愛なのです。つまり、努力の結果です。あるいは、そこに裏表があってかまわないということです。
いやな姑を持つ嫁がいる。愛するということは、その姑が嫌いなままでいいのです。しかしもし姑が自分の母だとしたらどうするかということを理性で行動することなのです。また反対に、いやなお嫁さんがいたら、その嫁を特に好きにならなくてもいい。ただ、さしあたりその嫁が好きであるのと同じような理性的な行動をとるのです。
自分が本当に好きになれないとその人を愛さないのではないか、というようなことは、むしろ問題ではありません。愛とは、その相手に対して何を思うかではなくて、何をするか、何をしたかにあるのです。
曽野さんは、赤十字の活動も「理性の愛」を体現していると言っています。戦場において、敵味方にかかわらず負傷者を助けるわけだもんね。
しかし、「くじくことのできない慈悲であり、打ち破ることのできない善意」というのも実行が難しい……。
ま、「理性的な行動」をとるように努力していこう。
幸太君の昨日の半日入院で判明したことは、インシュリンを1単位注射しても血糖値が下がらなくなったってこと。
推測通りでした。少し増やすことにして、昨夜と今朝の2回とも1.5単位を注射しましたが、低血糖症状などは起きなくてご機嫌も普通。とりあえずよかった。
もし急激に血糖値が下がって低血糖のショック状態になってしまったら、応急手当としてブドウ糖を飲ませることが必要なのだけど、獣医さんによるとガムシロップが手軽で良いとのこと。3軒ほどのお店でガムシロップを見てみたら、ブドウ糖を含まないものもあるみたい。
成分に「異性化糖」とか「ブドウ糖果糖液糖」、「果糖ブドウ糖液糖」と表示されているものが多いけど、「異性化糖」はデンプンを酵素で糖化させてから、含まれるブドウ糖の一部を別の酵素で果糖に異性化(変化)させたもの。
で、異性化糖は、
・「ブドウ糖果糖液糖」……果糖含有率(糖のうちの果糖の割合)が 50% 未満のもの。
・「果糖ブドウ糖液糖」……果糖含有率が 50% 以上 90% 未満のもの。
・「高果糖液糖」……果糖含有率が 90% 以上のもの。
・「砂糖混合異性化液糖」……上記の液糖に 10% 以上の砂糖を加えたもの(その液糖がブドウ糖果糖液糖なら砂糖混合ブドウ糖果糖液糖)。
に分けられるそうです。(ウィキペディアより)
ということは、「ブドウ糖果糖液糖」ならばだいじょうぶということかな。
でも、ブドウ糖を溶かして飲ませるのがいちばん安全かも。とりあえずブドウ糖を購入しました。これを幸太君に使わなくてすむことを願っています。
幸太君、1か月に1回の半日入院で、9時に動物病院へ。
このところ、糖尿病による四肢の神経性麻痺がちょっと悪化した感じ。
これは糖尿病に関係あるのかどうかわからないけど、爪が伸びるのがとっても遅くなっています。毛が抜ける量がかなり増えたのは、季節的なものかしら。
インスリン注射、今は1回に1単位だけど、1.5単位に増やしたほうがいいかもしれません。今日の血液検査でどうするかを決めます。
いつも幸太君がいる場所をついつい見てしまっている自分に軽く驚いています。こんなにしょっちゅう見ていたのねえ。
あ、全然関係ない話ですが、今は動物病院じゃなくてペットクリニックというのねえ。横文字のほうが何となく高級な感じがするからかしらん。
前回ちょっと触れた「理性の愛」についてです。
ヘブライ語を読めないギリシア語圏の人々のためにギリシャ語に翻訳して『新約聖書』を作るとき、神の無限の愛、人間に対し普遍的に提供される愛を表現するために、「アガペー(真の愛)」という言葉を選んだんだそうです。
ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的に四つあって、ほかの三つは、ストルゲー (家族愛) 、エロース (性愛) 、フィリア (隣人愛、友愛) 。
「アガペー」は、人間への神の愛で、神が人間を愛することで神が利益をえるわけではないために「無償の愛」と表現されるのだけど、人間同士も「神が人間を愛すように愛す」ことが望ましいこととされているそうです。
で、人間同士も「神が人間を愛すように愛す」のを「理性の愛」と表現しているみたい。
「汝の敵を愛せ」の「愛」はこのアガペー。ほかの3つは、自然な感情から生まれる愛ということですね。
次に続きます。