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kan-haruの日記

ITと技術(8) 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(1)

2007年02月28日 | ITと技術
kan-haru blog 2007

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青空文庫
青空文庫は、著作権切れの作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館です。
著者の没後50年を経て著作権の消滅した、明治から昭和初期の作品が蔵書の大部分を占めており、比較的文学作品が多く日本語作品に関しては相当充実しいます。2007年1月現在で約6000作品が収録されています。

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青空文庫の収録のファイル形式は、ほとんどの図書がHTMLファイル形式、圧縮のテキストファイル形式とエキスパンドブックファイル形式(ebk形式)であり、蔵書の格納されたファイルをダウンロードして無料で閲覧することができます。
HTMLファイル形式の青空文庫は、ダウンロードするとそのままインターネットエクスプローラ上にテキスト文字の図書が表示され、図書を閲覧しって読むことができます。また、ダウンロードファイルは、パソコンに保存することもできます。
圧縮のテキストファイル形式の青空文庫を閲覧するのには、ダウンロードして一旦ファイルをパソコンに保存します。保存した圧縮形式(Zip形式)の図書ファイルを、任意の解凍ソフトにより解凍しますとテキストファイル形式に展開されますので、そのファイルをメモ帳などに開いて文庫を読みます。

この、HTMLファイル形式および、解凍されたテキストファイル形式での図書の表示は、ページ区切りがありませんので、先頭から最後までの文章をスクロールにより移動しながら読む形態となります。したがって、長編小説のでは、途中で読書を停止した場合に、再開して読む場合には文章の続基部の位置出しが大変です。
エキスパンドブックファイル形式ファイルの青空文庫は、ページ単位で構成された電子本専用のブックブラウザに表示されるものですが、残念ながら、パソコンの使用できるOSが、Microsoft Windows 95、Windows 98、Windows Meの古い形式のみで、実用には適さなくなっております。

青空文庫の戦時日記
掲載中の若山武義氏手記の「大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回)」の解説には「海野十三敗戦日記」を紹介してあり、この日記は青空文庫の図書カードNo.1255に収録されております。

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今年の1月30日に5年ぶりに新しいOSのWindows Vistaが登場し、XAML(eXtensible Application Markup Language)の登場により、XMLを用いた GUI 構築技術により、6千冊の青空文庫が、マイクロソフトの新しいテクノロジーのソフトを使って、文庫本の表示をページ区切りや段組表示を自由に選び読みやすい様にし、さらに表示文字のサイズを任意に選べて、ページめくりなど新感覚の電子図書の閲覧が出来るようになりました。
XAMLは、GUI アプリケーションを記述するための XML フォーマットです。ソフトウェア ベンダーのイースト社が、文字拡大やレイアウト変更を柔軟に行うことができるビューワの「Xamler」を、Windows Vistaに合わせてレビューした「.NET Framework 3.0」で開発し、Windows Presentation Foundationを使うことで、Webブラウザを介さずに直接HTMLを読み込みXAMLに変換し、青空文庫を表示できるようにしました。

「Xamler」の動作は、Windows Vistaの他、「.NET Framework 3.0」をインストールすることにより、OSがWindows XPとWindows 2003 Serverでも青空文庫を閲覧することができます。

「Xamler01」により青空文庫「海野十三敗戦日記」を読んで見る
まず、青空文庫を電子図書として読むためには、イースト社のビューワ「Xamler01」が必要で、同社ホームページからその2に記載のダウンロード(無料)をします。
次に、パソコンのOSがWindows XPまたはWindows 2003 Serverの場合には、「.NET Framework 3.0」をその2に記載のダウンロード(無料)して、パソコンにインストールします。

「Xamler01」を機動すると、青空文庫の芥川龍之介「羅生門」が表示されます。「海野十三敗戦日記」の閲覧はその2でチャレンジしましょう。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回

2007年02月25日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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学童疎開
学童疎開とは、大戦末期において米軍による本土爆撃に備え、大都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住さることを云います。当初は、個人的な縁故疎開が原則でしたが、1944年(昭和19年)6月30日付の閣議決定「学童疎開促進要綱」により、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開を実施したのです。
その後、1945年(昭和20年)3月に、激化する本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進し、「根こそぎ疎開」を実施し8都市の41万1,360人の集団疎開が行われました。なお、この時高等科の児童についても、可能なかぎり縁故疎開をすすめました。
5月には、B29爆撃で92都市焦土化の拡大により、危険地帯からの再疎開・未疎開の中小都市も学童疎開が実施されました。

私の疎開体験は、「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)参照」と「大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)参照」に触れておりますが、縁故疎開で1944年に茨城県岩瀬町の借間で母と疎開生活に入り、その後栃木県の遠い親戚の農家にお世話になり、もう一組の疎開の親子との三世帯の共同生活の体験をしました。疎開生活の惨めさは、いまだに忘れることが出来ないもにで、触れたくない想いが強いため疎開記録は現時点では残さないことにしております。

疎開の引き揚げ
1945年8月の無条件降伏による敗戦で、東京都では学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を示しました。
学童集団疎開の引き揚げの第一陣は、10月10日に東京に到着し、11月末までには大部分が帰京しました。翌年3月には、神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京しました。私は、前回記述の通り夏休み中に帰京しました。

戦後の国民学校通学環境
帰京後の国民学校は、大森六丁目の通学区である大森第一国民学校が、1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により戦災して灰燼(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)に帰しましたので、戦災を辛うじて免れた隣接の大森一丁目にある大森第五国民学校を間借りして授業が行われました。
仮住まいの住居からの通学(地図再掲参照)は、周辺住宅20世帯ばかりの焼け残り地域の住居⑩から、内川⑲を渡り美原通り(現三原通り)⑧の内川橋⑳脇を京浜国道(現第一京浜国道)②の合流点まで北上して、右折すると東京湾に接したところに大森第五国民学校⑫があります。

当時の通学路の環境は、日本特殊鋼⑱と大森瓦斯会社⑰の両社が大きな戦災に会わず建物が残り、入新井第五国民学校⑮から北部の街区も、戦災を免れて住居が残ることができました。
地図の白色部分は全て灰燼により焼け野原で、入新井第五国民学校⑮から南部の澤田通り(現環七通り)④の南北、京浜国道②の東西、産業通り③の東西や内川の南北は、蒲田から六郷に至るまで建物は何も無く、京浜電鉄(現京浜急行)①の大森山谷(現大森町)駅⑦も戦災で消失しました。
毎日の通学路は、見渡しが良い焼け野原を見ながらの通学で、時たまアメリカ軍のジープやトラックがスピードを出して京浜国道を通過するという、今では想像もつかない何とも異常な時代でした。とにかく、9月から戦後の国民学校新学期がこのようにして始まりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第3回

民主主義
進駐軍では将官級の人でも一人で自らジープを運転して、兵隊さんに伍して疾走して居る。我が閣下級なら必ず副官がつき、専門の運転手が運転してる。途中で閣下が居ようが、上官が居ようが、アメリカの兵隊さんは敬礼一つするではない。平気で嬉々として談笑して居る。
然し公式の時は別だ。全く秩序整然として美事である。愛敬に充ちた欣然たる態度で敬礼をする。無秩序のようで秩序あり、これが形式にこだわらぬ本式の民主主義であろう。我が一つ星の兵隊さん、たまさかの休みの外出は、同僚は勿論星一つ兄貴にも、シャチホコたって敬礼する、右を見ても左を見ても挙手注目の仕通しであり、分秒の油断もすきもない。うっかり忘れたら大変、公衆の面前であろうがなんであろう共、ビンタの制裁である。初年兵はビンタのもらい通し、二年兵になって、今度は兄貴となって初年兵をなさけのビンタで教育する。

彼我の差
今は解体してなくなったが、世界に精強を誇った皇軍は、此のような不文の制裁制度がなくては、其の階級と秩序を維持する事が出来なかったと今更ながら不思議に思う。之に反しジープにガールを同乗させて疾走するアメリカ兵と比較して国民性の相違とばかり片付けられぬものがあると思う。
総て能率的な速度、働く時は真剣に働く、遊びと休憩は徹底的に、其の生活は僅かの無駄がない。平等の内に秩序あり、差別の内に平等あり、我等真に今後学ぶべき処あまりにも多い。

進駐軍としてアメリカの兵隊さんに来てもらった事は一番我等は幸福であった。「民主主義は輿論の政治である。菓子にせば、カステーラあり、栗まんあり、羊かんありである。全体主義は英雄も統制主義である。ビスケットであり、乾パンである」とある人の言である。ファッショのムッソリニーもろくも朽木の如く倒れ、梟雄ヒットラーのナチスも、順調の時は真に東西南北を敵にして、破竹の勢華々しく戦ったが、大勢に抗しかね、遂に首都ベルリンに悲惨にも矢盡き刀折れ、其の最後は悲壮であった。我が英雄東條閣下は、輿論を無視し、人情を無視し。統制の為め統制し、所轄自暴自棄、自殺し損ねて今囹圄の身となり、戦犯の首隗として世紀の審判を受けつつある。

戦時中は、民衆は全く見ざる、聞かざる、云わざるの三猿主義であった。「物云えば唇寒し秋の風」処の沙汰ではない、強烈な圧制である。議会人に中野正剛先生のような剛骨の士が今三、四十人もあってくれたら、負ける戦争にしてももっと立派な負け方があった事と思う。特に「太平洋の橋」と自任して終生日米親善に尽くされた新渡戸博士、野口博士等々御健在であってくれたらと、今更痛感漢されるものである。

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ITと技術(7) 自宅のパソコンがある日インターネットに突然つながらなくなった

2007年02月23日 | ITと技術
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インターネットが見えない
2月20日、いつものようにパソコンの電源を入れて起動したところ、インターネットエクスプローラにWeb画面が表示されないトラブルが発生しました。
自宅では、複数台のパソコンをLAN接続で使用しているので、ネットワークのトラブルを想定して。別のパソコンの電源を入れて見ても同様にインターネットが見えません。
トラブルは、パソコンでなくネットワーク側にあるので、トラブルの切り分けのため、パソコン間のデータのやり取りを調べたところ正常に作動しており、パソコンとネットの接続のルータは正常なことが判明し、問題の要因はルーターの外部のインターネット側にあるので、そこの切り分けの調査に入りました。

自宅のパソコン環境
自宅のパソコンは、サーバー機とデスクトップ機に、モバイル用のノートパソコンの3台のパソコンと、インターネットプロバイダー間をNTT Bフレッツによる光ケーブルでインターネットに接続されており、うち、1台のパソコンには、企業との間を光ケーブルで専用メールの接続ルートを使用しております。
そこで、専用メール接続のパソコンから、テストメールの発信テストを行ったところ、正常に送信が出来たようなので、ルータの外の光ケーブルとWeb上のサーバーには以上が無いようなので、トラブルはインターネットプロバイダーに何か問題があるものと疑ってみました。


インターネットプロバイダーのメールサーバーの保守
実はこのトラブルに遭遇した前後に、インターネットプロバイダーの保守点検により、2月21、22日の両日の0~7時の間メールサーバーを停止するとの知らせのメールを受けていたことを思いだし、インターネットトラブルとの間が接近していたため、何かの影響があるのかとプロバイダーのサポートセンターに電話をしましたが、混雑のため接続が不可のため確認できずに外出しました。
出先から、再びサポートセンターに電話して、確認したところ保守との関係が無いことが分かりました。

インターネットルータの不思議
インターネットルータとパソコンの間の接続に、以前から若干問題があり複数台のパソコンのうちの1台が電源投入時にインターネットにつながらない事象が時々起こりました。この時には、パソコンの電源を入れなおしたりして凌いでおりましたが、ある日中々いうことを効かず接続不能となった時がありました。かなり以前に聞いていた、ルーターが接続できないときには、ルーターの電源コードを抜いて5分以上放置して電源を入れると正常になるということを思い出し、このおまじないを実施してみると接続が出来ました。

インターネットルータへのおまじない
今回のトラブルは、光回線、Webサーバーには異常が無く、パソコン同士はインターネットルータ間をデータの授受が行われているので、見掛け上の異常の特定が出来ません。
そこで、3台共インターネットに接続のパソコンに対して、帰宅後上述のインターネットルータへのおまじないの実施を試み、ルーターの電源コードを抜いて5分間放置してから、電源コードを接続して、全てのパソコンの電源を投入し立ち上がると不思議なことに、全てのパソコン上にインターネットが表示されました。

トラブルがおまじないの試みで解消したのは、原因がインターネットルータとパソコンとの接続の相性にからむ問題の様なので、接続性の完全な解決にはルータの交換が必要なようです。
最近、ITの技術が進歩して、高速・高機能化が進み、さまざまなハードとの接続が微妙になってますので、時にはハードの状態をリセットすることが必要であり、今回のおまじないのルーターの電源コードを抜いて暫く時間をおくことが、すなわちリセットになるのです。

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イベント(13) 展覧会 第56回東京都公立学校美術展覧会

2007年02月21日 | イベント
kan-haru blog 2007

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東京都公立学校美術展覧会
第56回東京都公立学校美術展覧会が、2月14日から18日まで上野の東京都美術館で、平成18年度学校文化行事として、東京都教育委員会の主催で開催されました。
最終日の18日の日曜日は、午後2時までの開催でしたが他の日は都合がわるく午前から出かけて美術展覧会を鑑賞してきました。

当日は、たまたま「東京マラソン2007」の開催日と重なり、あいにくと天候は朝から雨模様で気温も低く、JR上野駅から美術館までのわずかな距離ですが体が冷え込む寒さでした。上野駅の公園口で降りた人は、天気がよい日曜日ですとほとんどが動物園に向かうところですが雨のため閑散とし、大部分の人が東京都美術館へと向かいました。

東京都美術館
美術館では、オルセー美術館展が開催されており、「19世紀 芸術家たちの楽園」というテーマでモネ、ルノワール、ゴッホなどの油絵、水彩、素描、写真、金属工芸、ガラスなどのフランス美術を紹介する展示の鑑賞に来た人が殆どですが、東京都公立学校美術展覧会の地下第1と第2展示室へも、展示品に関係する沢山の父兄や家族、友達などが連れ添って見に来ており、日曜の最終日とも重なり大変な混雑でした。

東京美術館については、昨年孫が書道に親しみを感じ出展した8月13日の第61回日本書道美術院「教育部展」が開催された時の鑑賞記(イベント(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」)に記載してありますので、ご参照下さい。

美術展覧会選出作品
美術展覧会出展作品は、東京都の公立の小学校、中学校、高等学校、盲・ろう・養護学校に通学する児童・生徒の図画工作、工芸と家庭、技術・家庭に書写(習字) などの全作品を、まず学校単位で選定し、それを各区単位の所属校に集めて作品を選び、美術展覧会作品として展示されたものです。
美術展覧会作品の選出を千代田区の例で見ると、先ず学校単位で主催のてんらん会(「イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1、2)」参照)が開催され、そこで選らばれた優れた作品を一同に会した区主催の選出作品展(「イベント(12) 作品展 千代田の子どもたち展(その1、2)」参照)が開催され、そこで選出された作品が美術展覧会に千代田区出展作品として展示されるのです。

  小学書写 (写真拡大)       (写真拡大)         (写真拡大)

このようにして選ばれた作品は、どれを見ても素晴らしいものであり、全ての展示品は展覧会のテーマにあるように、「素晴らしき 子供の想像の世界」をのびのびと表現されておりました。

      中学書写 (写真拡大)          (写真拡大)

東京都の公立学校は、平成18年度の資料で見ますと、学校と生徒数が小学校1,328 校の1 分校で児童数555,245 人、中学校639 校の1 分校で生徒数217,332 人、高等学校(全日制・定時制)、205 校2 分校で132,769 人、盲・ろう・養護学校59 校1分校で在学者数8,701 人と子供が少なく学校数が減少しているとはいえ、結構なマンモス振りです。

   小学図工 (写真拡大)      (写真拡大)           (写真拡大)

美術展覧会選出作品との縁
このような多数の学校の児童・生徒の選出作品との繋がりは、思ったより近くにあり、大田区の選出作品の中に、自宅からわずか200m程度の距離にお住まいの小学校の女子児童の書写が選ばれ、東京都美術展覧会に展示されておりました。

   小学図画 (写真拡大)      (写真拡大)           (写真拡大)

この小学校は、学校統合により二校が一緒になった学校であります。今から30年ほど前の時代ですが、統合前の大森第二小学校時代に小学3、4年生の頃の図画が選ばれ東京都美術展覧会に展示されたという、何かの縁があります。

小学家庭 (写真拡大)      (写真拡大)            (写真拡大)


中学図画(写真拡大)      中学技術・家庭(写真拡大) 盲・ろう・養護学校(写真拡大)

美術展覧会の展示風景
美術展覧会の展示は、各区から非常に多くの選出作品が処狭しと展示してあり、どの作品も優劣が付けがたい作品であり、会場も混雑もしておりとても短時間でじっくりと鑑賞が出来る状態ではないので、一回りした展覧会の雰囲気を示してみました。

     特別展示(写真拡大)              (写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第2回

2007年02月19日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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私の戦後
私が太平洋戦争の終戦(1945年8月15日)を迎えたのは、若山武義氏の戦災日誌(手記)連載開始のブログ解説(「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)」参照)などに記述の通り、小学(当時の国民学校)の6年生であり遠い親類の栃木県の農家に縁故疎開先でした。学校は夏休み中で、15日の昼に校庭に集まるようにとの召集がかかり、朝礼台のラジオを前に全員が整列して放送を聞きましたが、小型のラジオのため音声が届かず、なんの放送かも分からないまま、解散となり家に戻りました。

当時のラジオは、真空管式の家庭用の四級(並四と呼ばれていた)かせいぜい五~六級までのものしか一般には行渡っておりませんで、電波の伝播も良好でなく雑音も多いため、ラジオ直前にいる20人程度にしか聞こえない代物でした。
終戦を国民に知らせる8月15日の天皇陛下の玉音放送は、14日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決定し、大東亜戦争終結の詔書を発布され、これを昭和天皇の肉声によって朗読したものを、録音して15日正午に放送したものです。
玉音放送についての若山武義氏の手記は、「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」に掲載してありますので、ご参照下さい。

東京に戻っての敗戦直後生活環境
資源も資力もない日本が無知無謀な戦争に突入したため、国民一億が欠乏の危機を迎えることとなり、とにかく食べる物が無く生きるのが精一杯の時代でした。
戦争が終結したので、生活の基盤造りをしていくため、東京には夏休みの間に引き上げてきました。東京に引き上げの国鉄に乗るのも大変で、とにかく品川から京浜電鉄に乗り換え学校裏(現平和島)駅で下車して周囲を眺めると、南北に走る京浜電鉄と京浜国道の沿線にかけては、幅がおよそ500mにわたり入新井2丁目付近から蒲田・六郷までベルト状にバラック建て一つも無く焼け野原(1945年9月撮影の米国陸軍空中写真大森町周辺戦災加工地図(単に地図と称す)、1947年7月9日撮影の大森町上空の航空写真(国土地理院)、六郷橋から第一京浜国道の焼野原参照)で、その悲惨な風景を見て呆然自失で言葉は何も出ませんでした。取り合えずは、元会社事務所建物に4世帯共同住まいでの仮住環境にもぐりこみました。

戦前の居住宅(地図⑨)に近い京浜電鉄大森山谷駅(現大森町駅、地図⑦)や大森第一国民学校(地図⑪)は、1945年4月15日の大森町空襲(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7、8回)」参照)で消失して廃墟となりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第2回

物量と能率
試みに京浜国道に暫く立ってて帥覧。進駐軍の巨大な大小幾多の土木機械を装備したブルドーザを初め、異種類のトラックが無数に大地を轟々と揺るがして疾走する。軽快なジープが錯綜して走る。その後を、遠慮しながら、我が国の名物木炭自動車が、あえぎあえぎ遅れまいと走る。荷馬車の挽手は悠然と車に乗って、馬をヒッパタキヒッパタキどなりながら続く。大事な鼻づらを引っぱられた牛が迷惑想なつらして、天平泰平と漫歩する。リヤカー索く人、押すひと、自転車の前後に荷を積んで汗をながして力一杯踏んで走る人。現代戦と云う、洵に彼我戦力相違の縮図である。
本当に物量と能率に完敗したのである。「敵を知り、己を知る、百戦あやうからず」と云う言葉は、戦争中講演に、新聞に、雑誌におなじみの金言である。これでは、あまりにも敵をしらず、己を知らなさ過ぎる。勝つことをのみ知り、負けることを知らなかった、無智なのか。

第三次近衛内閣当時、日米交渉が停頓して悲観すべき時、イギリス、チャーチル首相は議会に演説して曰く、
 「アメリカの製鋼能力九千万屯に対し日本の能力一千万屯にすぎず、日本の懸命なる政治家は、よもやアメリカと開戦の愚はなすまい」
と。御自分は対独戦に手一ぱい汗を流しながら、忠告なのか、斯く皮肉ったものである世界の情勢は更に知らず、国内の機微が全然知らぬ我々は、今更死児に薬である。今次の世界大戦は、民主主義と全体主義の戦いであると云う。其の勝敗を決定したものは速度と生産力である。貧弱な資源しか持たぬ国、全体主義のイタリヤ、ドイツ、日本は完敗したのである。

機械力と精神力
総て物量と機械力にのみたよるアメリカと、二・二が五の精神力で必ず勝つと自信せし処に、我が軍閥の、あまりにも重大なる誤算をなしたのであろう。それは、個々の業績に就いてなら、明治開国以来、先人のたゆまざる努力により、敢えてアメリカに遜色のないものの多々ある事も真実であろう。個対個の戦なら絶対負けない処であろう。我々に宮本武蔵あり、荒木又右ェ門あり、三四郎あり、日の丸弁当に竹槍三千本の勇将あり、我々と雖も物干し竿でB29を叩きおとす位の気概なきにしもあらずであった。然し全体の総和となると其の水準が遥かに及ばぬものあまりにも多き事を。
アメリカの兵隊さんは全部自動車を運転し、且つ故障は自ら修繕し得る。我が兵隊さん百人に自動車運転の出来る人果たして何人あるであろうか、更に満足な修繕の出来る人ありやなしだ。

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小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その2

2007年02月17日 | 小さな旅
その1記載の古民家のハケの上の農家の旧河内家住宅の南側には、立川段丘を模して小川を配しております。小川の対岸には、ハケ下の一般的な農家を復元した江戸時代後期に創建の旧越智家がありますが、プラネタリウム観覧の時間の都合もありそこには立ち寄らずに、島田薬舗の道沿いに戻り、並んで建てられてる町役場と昔の郵便局を見ました。

・旧府中町役場庁舎
府中町役場庁舎の建物は、1919年(大正8年)から3ヶ年かけて竣工した洋風の庁舎で、屋根の飾り天窓、正面玄関の屋根の車寄せ意匠、背後に接続する和風の付属舎が特徴であり、1987年(昭和62年)2月に東京都指定有形文化財となり、大正時代の建物としての第1号です。

正面玄関(写真拡大)  役場庁舎内部(写真拡大)        (写真拡大)

・旧矢島家住宅(旧府中郵便取扱所)
矢島家住宅の建築年代は、幕末から明治の初めまでの間と推定されております。日本の郵便規則は、1871年(明治4年)に制定され、府中では当時府中番場宿の名主兼問屋の矢島九兵衛が郵便取扱役に任命され、居宅に窓口を設けるなどの改築し、急遽郵便取扱所として開設しました。

     矢島家住宅(写真拡大)     郵便取扱所(写真拡大)  矢島家裏側(写真拡大)

  昔の郵便局(写真拡大)     郵便箱(写真拡大)        (写真拡大)

梅園での野点と大道芸
昔の郵便局を見てから、園内を西に進むと旧町役場脇の梅園で、府中市茶道連盟の方による野点茶会が催されており、その脇を抜け長屋門前の広場では、大道芸人が見物人を集めて芸を演じておりました。
江戸時代後期に旧是政村の村役人を勤めた家柄の三岡家の長屋門は、中央部を門とし、その両側に部屋を総塗込め蔵造りとし、置き屋根形式を採用している点で類例の少ない長屋門で、平成7年3月に東京都指定有形文化財となりました。
長屋門を潜ると、右側にふるさと体験館があり、昔遊びコーナーで昔懐かしい遊びを無料体験できます。

梅園での観梅と花見
長屋門の南側の川を模したやすらぎの池があり、そこから多摩川までの広範な一帯が梅園であり、60種の1100本の梅も開花前の木もありますが、今年の暖冬で各種の梅も花を付け始めて、中には見頃の梅もあり開花したばかりの梅の香があたり一面に満たされておりました。

 5分咲きの梅(写真拡大)  7分咲きの紅梅(写真拡大) 蕾が膨らむ枝垂れ梅(写真拡大)

梅園の南端の多摩川縁の「ロウバイの小路」には、中央部が紫色のロウバイ、花全体が黄色いソシンロウバイ、花が大きく鮮やかな黄色のマンゲツロウバイの68本が、花を付けて4分咲きで開いておりました。
また、梅園には冬枯れの空に黄色の花も見られ、マンサクや福寿草、クロッカスなどの草花も春を待ちわびて可憐な花びらを見せております。

 4分咲きの蝋梅(写真拡大)  可憐な福寿草(写真拡大)  可愛いクロッカス(写真拡大)

園内の風景
寒梅で人が出ている梅園を西から東へと歩きますと、桜の林があり野外ステージの或る芝生公園があり、暖冬で水がぬるむ「水あそびの池」で子どもたちが遊んでおりました。
昼時には、園内でお蕎麦でもと考えておりましたが、旧田中家のうどん店やふるさと体験館際のラーメン屋もやすらぎ亭での軽食店の何れも満員のため、昼食にはありつけませんでした。
そろそろ、プラネタリウム観覧の時間が近ずいてきましたので、博物館本館に向かう途中には、芝生公園に撮影会のためモデルが集合しており、博物館前の道添えに梅の盆栽が展示してありました。


博物館
博物館脇では、太陽観望会が開かれており、天体望遠鏡で太陽黒点などの観察を行っており、行列を作って観測しておりました。
プラネタリウムは、直径が23mの平面床ドーム300席の日本での最大級のもので、12,000個の星や惑星、多彩な映像群が生の解説のもとで写しだされ、投影機は地元の株式会社五藤光学研究所(府中市矢崎町4-16 地図参照)製の「GL-AT, ASTROVISION70 70-10P」機です。
アストロビジョンは五藤光学研究所が世界で初めて開発したワンレンズ投影式全天周映画で、映像は客席の全体を天まで覆い、まるで映像空間に包まれたようにリアルな感覚が楽しめます。
14時上演のプラネタリウムの番組は、3月11日までは、「温泉発!~太陽系火山めぐり~のタイトルで、満天の星空のもと温泉を楽しんでいたはっつあん。そこへ怪しげな地質学者が現れ、温泉&火山談義に花を咲かせます。話題はとうとう太陽系のさまざまな星にある火山へと広がっていくというもので、約1時間の上演でした。

プラネタリウム鑑賞後、博物館の常設展示の見物を取りやめて、15時13分発の分倍河原駅行きの京王路線バスにのり、分倍河原駅を臨時停車する準特急で新宿に出て、やっと遅い昼食にありつけました。

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小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その1

2007年02月15日 | 小さな旅
今冬は、12月と1月の世界の月平均気温が、1891年に統計を始めてから最高記録を更新したと発表され、記録的な暖冬に見舞われています。この暖冬に誘われて、春の花の開花も例年より早いようで、各地からの梅祭りの便りも聞かれます。
早いようでしたが、暖かい陽気と梅祭りの誘いにのって、1月11日の3連休の中日の日曜日に府中の郷土の森博物館の梅園に出かけてきました。

府中市郷土の森博物館
府中市郷土の森博物館(東京都府中市南町6-32)は、今年が丁度20年の誕生を迎えました。博物館は、敷地がおよそ13.7haもある広さを誇り(空中写真参照)、敷地の南面には紅梅の「八重寒紅」や白梅の「八重野梅」「唐梅」「白加賀枝垂」などの梅が60種の1100本も植えられた見ごたえのある梅園(園内マップ参照)があり、第20回郷土の森梅祭りが2月1日から3月11日まで開かれております。
郷土の森博物館へのアクセス(地図参照)は、新宿から京王電鉄の特急、準特急で19分の府中駅または、JR南武線と乗り入れている分倍河原駅および、JR府中本町のそれぞれの駅から路線バスが出ております。

博物館とプラネタリウム観覧料金
郷土の森博物館の観覧料金は、大人200円、子供(4才以上)100円で公園(梅園)と博物館常設展示室の見学と園内に復元した古民家も見られます。また、博物館にはプラネタリウムの施設があり、大人600円、子供300円の観覧料(博物館の観覧込み)で見られます。プラネタリウムを観覧するには、上演時間を指定して入場します。
プラネタリウムの投影開始時刻は、月曜日から金曜日には14時と15時30分上演ですが、日・祭日・休日には11時にも上演され、3月11日までの土・日・祭日・休日には親子星空散歩の「ムーミン谷のオーロラ」の特別番組が12時30分に上演されます。

復元古民家の見学
郷土の森博物館には、14時上演のプラネタリウム観覧料を払って入場しました。
園に入ると、正門前広場の右側に博物館があり、広場を左折した「けやき通り」の左手には、府中市から移築復元された8棟の古い建物が点在しております。先ずは、園内の古民家の見学から始めることとし、一番手前の小学校から見て歩きました。

・旧府中町立府中尋常高等小学校校舎
現府中市立第一小学校(府中市寿町2-6)に、1935年(昭和10年)に建設され、1979年(昭和54年)の新校舎の建設を機に解体され、郷土の森博物館の開設に先立つ1983年(昭和58年)に、延床面積が5,870㎡もあった校舎の中心部分を復元したものです。
復元校舎には、近代教育のあゆみの展示や昔の教室の再現と、府中ゆかりの詩人、村野四郎の記念館が併設してありましたが、時間の都合で内部の見学を見送りました。

  府中尋常高等小学校(写真拡大)        (写真拡大)

・旧田中家住宅(府中宿の大店)
田中家は幕末から明治にかけて、甲州街道府中宿を代表する商家で、明治天皇行在所にもあてられ、その御座所として使われた奥座敷の部分が昔のまま残されておりました。奥座敷、表店、土蔵、表門など白壁が美しく、建築的評価が高い建物です。
なお、当時の田中家の屋敷図や写真資料が残っておりましたので、残存していない建物部分を含めて、屋敷全体を復元されました。現在、表店(おもてみせ)部分などの新築復元部を休憩所やそば処として利用しております。

  表門・土蔵(写真拡大)      奥座敷(写真拡大)       土間(写真拡大)

・旧島田家住宅
島田家は旧甲州街道・府中新宿の商家です。移築・復元したのはその店蔵(みせぐら)部分で、1886年(明治19年)から足掛け3年の歳月をかけて建築されました。同家には、この店蔵の普請帳が残され、建築実態の詳細が分かり、1階が店舗で、2階と屋根裏が倉庫になっています。
復元には、普請帳を参考にしながら屋根の下も含めたすべてが厚い土壁で覆われた置屋根構造の建物で、伝統的な左官工法で再現し、足掛け3年をかけて完成されたものです。
島田家では、寛政年間から金物を、天保年間からは薬種を扱って(薬輔店先薬を入れる引出しの階段参照)いました。

   島田薬舗(拡大写真)   島田薬舗の裏側(拡大写真)     (写真拡大)

[ひな人形展示]
梅祭りの期間中、旧島田家店先に歳時記展として、ひな人形が展示してありました。展示のひな人形の中一つは、「1933年(昭和8年)に買って貰い、母が毎年2月20日頃お雛様を出して、3月7、8日に丁寧にしまうのが通例でありました。ところが、1945年(昭和20年)の小学6年学童疎開中の冬に病気となり上野の家(寺)に帰され、3月9日の東京の大空襲では、翌日寺に沢山の死体が集められ父が供養した」とあり、当時の戦禍を見てきたおひなさまも展示されておりました。

    ひな人形1拡大      ひな人形2拡大        ひな人形3拡大

・旧河内家住宅
旧河内家は、元は1844年(天保15年)に大沢村(現三鷹市)から人見村に移築された、茅葺屋根の農家で麦などの畑作りや養蚕を営んでいました。人見村は、府中市の北東部の立川段丘を東西に走る人見街道沿いに開けた村で、明治末期に広間を部屋に区切り、棟の空気抜き室、格子欄間、簀子天井を設けた改造は、保温・通風・採光をよくして養蚕に適するためのものです。その後、1929年、1958年に大きな改造がありましたが、府中で養蚕が最も盛んであった明治末期の姿に復元されました。

  旧河内家住宅(拡大写真)  部屋の区切り(拡大写真)      土間(拡大写真)

立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(たちかわがいせん)によって多摩川の沖積低地と分けられています。この崖線のことを、この地区では「ハケ」と呼んでおります。旧河内家は、立川段丘にあるのでハケ上の農家(説明板)と云われます。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回

2007年02月12日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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悲惨な太平洋戦争
今から62年前の3月10日の未明には、太平洋戦争による東京大空襲により、B29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲を受けました。

太平洋戦争での東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ100回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります(「東京大空襲~あれから61年~(その1)」参照)。

若山武義氏の大空襲体験手記
今日、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきました。私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性を感じていた折、私の父と同じ勤務先に勤めておりました、若山 武義さんが1955年に書かれた手記で、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料が、ご遺族の石川様宅に保管されておりました。
この手記を、ご遺族のご好意により本ブログに掲載することとなり、
  1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1編) 11回連載
  2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編 7回連載
  3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて 9回連載
の戦時編の3編27回に亘り、解説付きで掲載を既に完結(2006年8月31日)しております。

若山武義氏の戦時編の手記で記載の1945年8月15日には、人間殺戮とも言える物量爆撃の低空大空襲、ソ連の参戦、広島・長崎への原子爆弾による洗礼などに抗しきれず、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を迎えました。
軍部、官部の無知・無謀な大戦により大日本帝国が壊滅し、敗戦を迎えた日本国民は、食うことに精一杯の大変に悲惨な生活を味わらされることになりました。

若山武義氏手記続編「戦後史編」
若山武義氏の手記は、述べ100頁にも及び、8月15日の終戦から後も1946年11月23日まで手記が続けられた、戦後一年余りの一市民が見聞した貴重な敗戦体験記を、掲載させて頂きます。

昭和20年代の史記は、殆ど無しに等しいもので大変に貴重な記録資料であり、史実を知ることも重要なことです。
これから連載をしていく若山武義氏の戦後史手記と、掲載完結の戦後編手記を目にとめられた方は、ご関心をお持ちの方にご紹介して戴ければ、無知で開戦した悲惨な戦争記録を知り、平和の尊さを少しでもご理解願えれば、手記を書かれた若山武義氏とご遺族の方のご意思が活きて参ります。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第1回

進駐軍に学ぶ
マッカーサー元帥は連合国最高司令官と厚木に飛来し、我が本土に一歩を印し
 「メルボルン-東京、其の道は誠に遠かった。」
と。百敗に屈せず、最後の土俵際に踏み止まってから、戦勢攻守地位を変え、連戦連捷、遂に我が国を屈伏、無条件降伏せしめたのである。
我が軍は中国軍と八年の久しきに亘り戦ったけれど、遂に勝つことは出来なかった。マッカーサー元帥の率いるアメリカ軍と二年九ヶ月戦って完敗したのである。

我が山下将軍は、シンガポールを攻略して、入城式はロンドンでやると称して、直ちに戦没勇士の慰霊祭を行うた。これに呼応して、海軍報道部長は「観艦式はニューヨーク沖で」と放送して、我等を迂頂天に嬉しがらせたものだ。
其の当時の我が戦捷の勢いでは、何人も必ず実現するものと信じたのに、無理もなし、今は夢の話である。今や戦に敗れて何が残る。焼け放題焼けて惨憺たる此の帝都の有様を見ただけでも情けない。無謀な戦争をやったものだと悲憤せざるを得ぬもの私一人ではあるまい。

進駐軍アメリカの兵隊さんは総じて明朗闊達、極めて無邪気で、親しみこそ出来るが、負けて悔しいと思う処がさらさらないから不思議だ。何が故に、此の人達相手に、米鬼だの鬼畜だのと罵り、尊い血を流して殺し合わねばならぬ戦争をやった理由がどこにあったのかと、今改めて思わざるを得ない。
其の日常の生活も、物のゆたかな処で育った故か、我々の如きコセコセした処がない。総じて教養の程度も相当距離があるし、形式ばった処がない。仕事は仕事、休息は休息とはっきりする。すべて、社会的亦団体的訓練に洗練された能率であり、徹底した仕事振りである。

彼我の差は効率的機動力
一番驚かされた事は、横浜から厚木までの送油管工事を二日間で仕上げた工事振りである。その周到なる計画と所要物資の豊富、あらゆる機械、器具を自由自在に駆使し、其の無駄のない、最高能力発揮の実行力に驚いたのである。
この工事は、精強を誇った我が工兵さんにしても及び付くまい。況や我がお役所仕事なら、測量だけでも半年、それから書類を作成して、予算がどうの、何がどうので、判コならべるだけでも半ヶ年かかる、三年かかってもどうかと思うと或る人の批評は、我々も尤もと思う。
横浜市が、戦災焼跡整地に、三千人を動員して三日掛りでやっと仕上げた。処が同じ面積の土地を、アメリカの兵隊さんは、只一人で操縦する巨大な機械三台で鼻歌謡い、業卷を衛えながら、押し廻しへし廻し、どんな障害物、焼金庫であらうと何であらうと、メリメリと地下に押し込んで一日仕事、翌日は早速建築だ。一台一人で三千人力である。

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kan-haru日記 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次(カテゴリー別INDEX)

2007年02月11日 | INDEX
kan-haru blog 2008 8月17日21版

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  大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編カテゴリー総目次



  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回 2月12日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第2回 2月19日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回 2月25日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第4回 3月13日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第5回 3月21日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回 3月29日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第7回 4月10日
  大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第8回 4月17日



11 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回 5月3日
12 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第2回 5月15日
13 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第3回 6月9日
14 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第4回 7月11日
15 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第5回 7月13日
16 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第6回 7月15日



21 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回 8月17日
22 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第2回 8月20日
23 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第3回 8月22日
24 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第4回 11月7日
25 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第5回 11月9日
26 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第6回 11月11日



31 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第4編 配給生活談義 第1回 8月17日

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kan-haru日記 ITと技術総目次(カテゴリー別INDEX)2012年版

2007年02月10日 | INDEX
kan-haru blog 2012  2月10日34版 スイス

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< SubINDEX ITと技術 カテゴリー別総目次2006~2011年版

   ITと技術 カテゴリー別総目次2012年版



1~4項INDEXは、カテゴリー別総目次2006~2011年版 参照 (ここをクリックして下さい)
  地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学 8月3日
  がすてなーに 東京ガスの科学館見学 10月18日
  ITと技術(6) 迷惑メールとさようなら その1 12月14日
  ITと技術(6) 迷惑メールとさようなら その2 12月16日



  ITと技術(7) 自宅のパソコンがある日インターネットに突然つながらなくなった 2月23日 
10 ITと技術(8) 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(1) 2月28日
11 ITと技術(8) 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(2) 3月3日
12 ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その1 6月11日
13 ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その2 6月13日
14 ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その3 6月15日
15 ITと技術 Web 2.0時代のパソコン活用のヒント 7月19日
16 ITと技術 Web 2.0時代のIT Webデスクトップに触れてみる 7月21日
17 ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その1 10月26日
18 ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その2 10月28日



19 ITと技術 ロボット大国日本 「今年のロボット」2007 その1 1月15日
20 ITと技術 ロボット大国日本 「今年のロボット」2007 その2 1月17日
21 ITと技術 情報通信研究機構(NICT) 国の情報通信研究所で電波時計の設備を見る 5月31日
22 ITと技術 地図情報コンテンツ Googleマップのストリートビューをブログで使用して見る(第1回) 8月25日



23 ITと技術 確定申告 平成20年確定申告をe-Taxで申請してみる(第1回) 1月17日
24 ITと技術 確定申告 平成20年確定申告をe-Taxで申請してみる(第2回その1) 3月5日 
25 ITと技術 確定申告 平成20年確定申告をe-Taxで申請してみる(第2回その2) 3月6日 
26 ITと技術 確定申告 平成20年確定申告をe-Taxで申請してみる(第3回その1) 3月13日 
27 ITと技術 確定申告 平成20年確定申告をe-Taxで申請してみる(第3回その2) 3月14日 
28 ITと技術 2008「今年のロボット」大賞 2009国際ロボット展で合同展示その1 12月19日 
29 ITと技術 2008「今年のロボット」大賞 2009国際ロボット展で合同展示その2 12月21日



30 ITと技術 プライベ-トクラウド Windows 7とXP PCによるクラウド活用第1回 2月22日
31 ITと技術 宇宙からブログの場所を見る 情報センターJAXAiと「地球観測画像特別展」(その1) 3月21日
32 ITと技術 宇宙からブログの場所を見る 情報センターJAXAiと「地球観測画像特別展」(その2) 3月23日
33 ITと技術 プライベ-トクラウド ブログ機能で簡易なクラウド的活用の個人情報共有の試み第2回 3月23日



34 ITと技術 日本の宇宙技術 講演と宇宙展を見て小惑星物質を持ち帰ったはやぶさの技術に誇りその1 2月8日
35 ITと技術 日本の宇宙技術 講演と宇宙展を見て小惑星物質を持ち帰ったはやぶさの技術に誇りその2 2月10日
36 ITと技術 日本の宇宙技術 講演と宇宙展を見て小惑星物質を持ち帰ったはやぶさの技術に誇りその3 2月12日
37 ITと技術 鉄道模型造り 1年6か月をかけて完成の里山ジオラマを見る 4月21日
38 ITと技術 2011国際ロボット展 隔年開催のロボット展で第4回ロボット大賞の受賞ロボットが合同展示その1 11月21日
39 ITと技術 2011国際ロボット展 隔年開催のロボット展で第4回ロボット大賞の受賞ロボットが合同展示その2 11月24日
40 ITと技術 2011国際ロボット展 隔年開催のロボット展で第4回ロボット大賞の受賞ロボットが合同展示その3 11月26日



41 ITと技術 クラウド活用 ITの個人情報データファイルの多重保存による信頼化とデータの共有化第1回 2月8日
42 ITと技術 クラウド活用 ITの個人情報データファイルの多重保存による信頼化とデータの共有化第2回 2月10日

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大森町界隈あれこれ(N33) 大森町風景・風物詩 諏訪神社節分

2007年02月09日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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節分
今年は、2月3日の土曜日が節分に当たりました。
節分とは、季節の分かれ目を示し、元は「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日をさしていました。特に、立春は冬から春に向かう1年の初めと考えられ、年の境として重視されて、一般には立春の前日を節分としてさす様になりました。春の節分は、新年の前日にあたり現在の大晦日に相当するものです。

豆まき
節分に行われる代表的な行事に、豆まきがあります。節分に行われる行事を、「追儺(ついな)」と呼ばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、706年(文武天皇の慶雲3年)に宮中で行われたのが始まりとされてます。
また、20年ほど前に私の母が健在の頃、毎年節分には柊(ひいらぎ)の小枝を求めてきて、それに鰯(いわし)の頭を刺して戸口に挿す風習があり、夕刻になると家庭では、年男または一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、これから1年病気にならないと言われてみんな自分の年の数だけ豆を食べました。
子供は、与えられる豆の数が少ないのが不満で、撒かれた豆を拾って食べたことが楽しい行事であったのです。
これは、近世以降行われるようになったもので、これも魔除けのための行事で今では家庭では行われなくなりましたが、節分の頃になると懐かしく想い出す風物詩です。

諏訪神社の豆まき
豆まきは、もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近では大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会を行っております。
大森町の諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1~3」参照)や三輪神社(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)でも、毎年豆まき大会を行っております。
今年の節分は、土曜日で、家族が年女に当たり氏子様の諏訪神社で豆まきに出るというので、3時半からの開催の豆まきを見に行きました。

豆まきの参加者は、年男・年女30数名で希望者を3組に分けて追儺式を行います。参加者するには1万円を奉納して、裃を着用し神官を先頭にして本殿に入ります。追儺式は先ず、神主が祝詞をあげ、一同礼拝してから本殿内で内部に2回の「福は内」と外部に1回「鬼は外」と唱えて豆を撒きます。

・・・・・・・・豆まき第2組・・・・・・・・・・・・・豆まき第1組・・・・・・・・・・・・追儺式芳名

豆の入った枡が渡され、本殿前で記念写真を撮り、観客が待っている神楽殿に上がり、追儺クライマックスの豆まきが行われます。

・・・・・神社正門・・・・・・・・・・・・記念撮影第2組・・・・・・・・・・・・・記念撮影第1組

神楽殿での豆まきは、豆、お菓子、みかんやのりが撒かれ、観客がわれ先にと取り合います。

・・・・・・・豆まき風景1・・・・・・・・・・・・豆まき風景2・・・・・・・・・・・・・豆まき風景3

撒かれた縁起物の品物を、うまく取れた人は、今年1年は運がよい年に恵まれることを願う、春の風物詩です。
3組の豆まきが終わると、社務所で祝い善が振舞われ、諏訪神社のお札とお赤飯、紅白のお菓子やのりを貰い、厄病を払い元気な1年を過ごせる儀式の参加です。

縁起物の豆が飛んできたきた

今回は家族が豆まきに参加したので、その厄除けにあやかろうと思ったのですが、運悪く節分の直前に内科の検査と重なり、豆や祝いの赤飯などを食することが出来ず残念なことでした。
また、2年前には、年男で豆まきに参加したいと思っていたのですが、手の怪我により参加を断念したりで、豆まきには何か縁が遠いのですが、節分は戦前の小学生時代から家庭で豆まきをした遠い想い出の懐かしい風物詩なのです。

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(1月分掲載Indexへ)
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イベント(12) 作品展 千代田の子どもたち展(その2)

2007年02月07日 | イベント
kan-haru blog 2007

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戦時中の小学校図工・習字授業の想い出
戦時中であった65年前の小学校時代の図画・工作の授業の記憶は、あまり好きな科目でなかったためハッキリとは覚えておりません。戦争初期の多少余裕のあった小学低学年時代には、習字の授業時間は結構多くあったような気がします。いつも苦手意識で墨磨りが上手くなく薄い文字を書いていたことが想いだされます。孫が書写で千代田の子ども展に選ばれたのとは大違いです。

当時の図画の画材は、小学1、2年ではクレヨンのみで、小学3年から水彩絵の具により兵隊さんへの慰問の絵を描いてたのです。今日のような創造性とか美的感覚とは全く縁がない時代でした。工作も土粘土のみのお粗末の教材で、とても美術の学習とは云えませんでした。小学の高学年になると、戦時体制が負け戦さに向かい、留守家族の農家への勤労奉仕などにかり出され、図工や習字の授業が行われませんでした。

最近の小学校の図工・書写を見る
孫の親が小学生時代には、仕事の都合で図工などの作品にじっくりと接触する機会はありませんでしたが、昨年11月にお茶の水小学校・幼稚園の展覧会(「イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1、2)」参照)の鑑賞により、最近の小学校の図工、書写や家庭などの作品に接し、考えられたテーマを自由な発想でのびのびと制作した作品を見て大変に感動しました。

千代田の子どもたち展は、千代田区の小中学から選ばれた作品の展示会ですので、どの展示物を見ても素晴らしい創作品です。学校ごとに、個性的なテーマの作品が展示されてます。
前回に続き、小中学と幼稚園の作品を鑑賞します。
・小学6年の作品
小学6年展示コーナーの中の工作には、人の動きや表情をとられて表現してみることに挑戦し、再現したお茶の水小学校の見事に熱中する人から選ばれた感動の作品が出展してありました。

・・・・小学6年展示コーナー・・・・・お茶の水小学の工作作品・・お茶の水小学の図画作品

・小学4,5年の作品
4年生は、丁度10才で大人までには道半ばです。それをテーマにしたお茶の水小学生の選ばれた図画を示しました。

・・・・小学5年展示コーナー・・・・・小学4年展示コーナー・・・・・お茶の水小4年の図画作品

・小学3年の作品
小学3年の作品には、お茶の水小からは個性的なテーマで制作した深海の王様を題材にした図画と創造的に作ってみた工作が展示してありました。

・・・・・・・小学3年展示コーナー・・・・・・お茶の水小展示の図工作品

・小学2年の作品
小学2年の作品には、お茶の水小からは王者に相応しいベルトとメダルをデザインした作品と珍しい動物を絵にした「新動物図鑑」を展示してありました。

・・・・・小学2年展示コーナー・・・・・・お茶の水小学の工作作品・・・お茶の水小学の図画作品

・小学1年の作品
小学1年の作品には、お茶の水小からは図画とお茶の水動物園を模そうした作品が展示してありました。

・・・・・・小学1年展示コーナー・・・・・・お茶の水小展示の図工作品

・幼稚園の作品
共同テーマに、園児個人がテーマに沿って作成した工作を並べて、全体的に纏めた作品の展示でした。

・・・いずみこども園・・・・お茶の水幼稚園・・・・・・昌平幼稚園・・・・・・千代田幼稚園

・小学1、2年生の書写
小学1、2年生の書写は、手本を鉛筆書きで書写した作品です。書写内容の本文を、2年生の作品から抜粋したものを示します。


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イベント(12) 作品展 千代田の子どもたち展(その1)

2007年02月05日 | イベント
kan-haru blog 2007

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平成18年度 千代田区立幼・こども園・小・中・中等教育学校作品展「千代田の子どもたち展」(連合作品展)が、千代田区立昌平小学校の多目的ホールで、平成19年1月31日から2月2日までの3日間にわたり開催されました。
千代田区立お茶の水小学校(「イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1)」、「イベント(6) 運動会 お茶の水小学校運動会」、「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照」)の2年生の孫から、作品展に選ばれたので見に来てとの誘いに応じ、2月1日の午後に作品展を鑑賞してきました。

連合作品展
連合作品展は、千代田区教育委員会、千代田区教育会の共済で、千代田区内の幼稚園、こども園、小学校、中学校、中等教育学校から推薦された作品が展示され、子どもたちの表現の発表と鑑賞の場としております。平成18年度の出品校・園は、お茶の水、千代田、昌平の各幼稚園・小学校と、いずみこども園・泉小学校ならびに、麹町、神田一橋の中学校と、九段中等教育学校が出展しております。
出展作品は、幼・こども園が造形作品などで、小学校が図画工作・家庭・書写を、中・中等教育学校が美術・技術家庭・書写を展示しております。


千代田区においては、いずみこども園が、乳幼児育成施設として、「幼稚園」と「保育園」双方の要素を取り入れながら、両園の枠を越えた新しい幼保一元化園として創設されました。
中等教育学校は、東京都から都立九段高校の移譲を受け、区立の中高一貫校の九段中等教育学校が設立されました。

作品展会場 昌平小学校
連合作品展の会場は、隔年で麹町地区と神田地区の小学校で開催しており、今年は秋葉原の電気街の真っ只中で最近ではITの町となった昌平小学校の多目的ホールでの開催です。
昌平小学校(千代田区外神田3-4-7)は、昌平童夢館の中にあり、小学校、幼稚園、児童館、まちかど図書館からなっております。
昌平童夢館は、豪華な建物施設で1996年(平成8年)に落成し、屋上は開閉屋根付きの校庭で天候に係わらず何時でも使用でき、地下1、2階には温水プールの複合施設となっております。


昌平小学校は、1993年(平成5年)に旧淡路小学校と旧芳林小学校を統合して生まれた学校で、新校舎を旧芳林小学校跡に建設のため、旧淡路小学校の校舎を使用してスタートした後、1996年から昌平童夢館内の新校舎で授業が開始されました。
旧淡路小学校の沿革は、1876年(明治8年)に神田小川町に小川小学校として生まれ、1879年(明治11年)に神田淡路町に移転し小川女子小学校と改称して、錦華(現お茶の水)小学校の男女児を入れ替えました。1912年(明治44年)に東京市淡路尋常小学校と改称して男児も受け入れ、淡路国民学校を経て、淡路小学校と改称されました。
旧芳林小学校の沿革は、1857年(安政4年)に清水家侍臣金子政成が、現JR秋葉原駅西口付近に家塾を開き、芳林堂と命名し芳林小の前身となりました。1875年(明治7年)に芳林小学校に改称、1887年に私立芳林尋常高等小学校に改称し、1895年に東京市代用尋常小学校となる。
1911年(明治43年) に隣接の練成小学校から一部児童を収容し、東京市芳林尋常小学校として開校する。東京府東京市芳林国民学校を経て、千代田区立芳林小学校と改称されました。

千代田の子どもたち展
中学および中等教育学校の美術作品出展
美術出展コーナーを見ると、学校により特色ある作品が出されており、さすがに中学生の選ばれたものだけに、何れの作品も見栄えがします。


・中学校の技術家庭と小学校の家庭出展作品
中学校の技術家庭の作品を見ると、学校による取り組みの違いが出ており、個々の作品にも個性が見られます。小学校の家庭作品を見ると、柄のデザインは思い思いの変化があり、明るくまとまっております。

中学校の技術家庭作品


小学校の家庭作品

・小中学校の書写の出展作品
中学校の書写作品ともなると、作品の文字は美しく書き表しており、小学校の書写作品はのびのびと書かれているのがわかります。

・・・・・・・・・・中学校の書写作品・・・・・・・・・・・・・小学校の書写作品



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kan-haru日記 おしらせ 目次構成のリニューアルにより索引・検索が簡単で便利になりました

2007年02月03日 | Weblog
kan-haru blog 2007.02.03Ⅱ版(2013.11.18)

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K&A kan-haru の日記も2006年3月8日に開始してから、7年8月を経過しました。この間、掲載日記のカテゴリー数も20に達し、投稿記事数も膨大となり、延べ96万人以上の訪問者の方が訪れて頂き、311万件の記事を閲覧して頂いております。

kan-haru の日記は二つのテーマを目的に掲載しており、テーマの一つは大森町に65年住み、戦時期から今日までの大森町での係わり合いのある様々な記録を残したいとの思いで、「大森町界隈あれこれ」を掲載しております。二つ目のテーマは、大森町には直接関係のない歳時記や旅行記、新しい技術に関することやその他一般事項を記録しております。
このためkan-haru の日記のカテゴリー数も多く、日記も数日毎に1件のペースで増加しており、保存日記の検索・索引が容易に行える必要あります。

また、kan-haru の日記には記事関連の多くの図・写真など掲載しており、日記記事と相まって百科事典的な活用ができることも考慮して、記事の検索・索引が容易にできることも必要となってきました。
そこで今回、検索の簡易化を図るため日記の検索・索引目次を整備してリニューアルしました。

kan-haru日記の検索・索引が便利な統合目次
kan-haru日記は、目次を統合して整備しましたので、以下に示す複数の方法により、最新までの全ての日記の検索・索引が行えます。

・総合目次(新設)の構成と索引の仕方
日記を検索するには、カテゴリーを索引し選択するための総合目次と、カテゴリー別の日記を索引し選択するための総目次による2階層で構成されてます。
総合目次を開くには、日記のページ巻頭あるいは巻末尾に記載の「< 総合INDEX へ」を、もしくは、kan-haru日記左欄ガイドの「ブックマーク」板の「kan-haru日記 総合目次」をクリックすることにより表示されます。
総合目次に掲載のkan-haru日記カテゴリー一覧を索引して選択しますと、当該カテゴリーの初回から最新搭載までの日記一覧が記載されている総目次が表示されますので、索引検索して選択することにより日記が表示されます。

・月間INDEX (リニューアル) の構成と索引の仕方
毎月1日付けで掲載の月間INDEX (「番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記1月月間INDEX]」) は2007年2月からリニューアルしました。
月間INDEXには、総合目次と同様にkan-haru日記カテゴリー一覧が記載してあり、各カテゴリー欄毎に前月登録の日記の一覧が記載してありますので、索引して選択しますとその日記が表示されます。
なお、INDEXに記載のカテゴリー一覧は、前項の総合目次と同様にカテゴリーを索引して選択しますと、当該カテゴリーの初回から最新搭載までの日記一覧が記載されている総目次が表示されますので、索引検索して選択することにより日記を表示することができます。

・「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その4)」からの日記索引方
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その4)」を充足してアップデートをしました。
この日記の見方は、前記記述のkan-haru日記左欄ガイドの「ブックマーク」板の「kan-haru日記 総合目次」をクリックすることにより表示される、「総目次」の先頭と最後尾後にリンク掲載の「< ようこそ kan-haru日記へ へ」をクリックすると表示されます。
日記の見方には、各カテゴリーの解説と内容の説明が記載されており、そこに記載のカテゴリーを選択しますと、当該カテゴリーの最新搭載記事の日記一覧が記載されている総目次が表示されますので、索引検索して選択することにより日記を表示することができます。
なお、搭載記事が多いカテゴリーの場合の総目次には、掲載当初(2006年)からの目次を表記できませんので、最新記事年の目次から過去にさかのぼる目次のリンクが掲載してありますので、クリックすると古い年代の目次が表示されます。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記1月月間INDEX]

2007年02月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007 2月12日2版

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今号から月間INDEXをリニューアルしましたので、検索が便利で利用し易やすくなりました。
月間INDEX掲載項目より前月登録の記事の検索が即時に出来るほか、カテゴリー項目からは当該カテゴリーの第1回登録記事から最終・最新の登録までの全ての記事の索引が行えますので、総合目次の機能も有し便利になりました。

K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全ての検索ができます。

[K&A kan-haru 日記の見方について]
ブログ左覧のガイド板「カテゴリー」には、kan-haru日記のカテゴリー名とカテゴリー毎の記事登録数が掲載されております。
カテゴリー名の「ようこそ kan-haru日記へ」欄内には、次に示す日記の総合目次と日記を見るためのガイダンスが掲載してあります。
総合目次は、この月間INDEXと統合しており、同一のカテゴリー別目次を併用しております。
「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」は、この日記を見るためのガイダンスを記載してあります。日記の見方について (その1)の解説には、カテゴリー別の概要説明と共に、カテゴリー項目からは当該カテゴリーの第1回登録記事から最終・最新の登録までの全ての記事の索引が行えるようにカテゴリー別INDEXと結合してあります。
kan-haru日記 カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
・ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完)

[閲覧日記のページから総合目次を見るには]
ブログ左覧のガイド板「ブックマーク」の[kan-haru日記 総合目次]を指定すると、「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」内のカテゴリー別総合目次を参照できます。

[ブログ記事内の参照地図・写真などを拡大して見るには]
次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

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  大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
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  ■ 風景・風物詩(B13) 箱根駅伝 第83回東京箱根間往復大学駅伝競走 1月6日 
  ■ 風景・風物詩(B14) 初詣風物詩 川崎大師平間寺 1月8日
  ■ 風景・風物詩(B15) 初詣風物詩 穴守稲荷神社 1月11日
22 小さな旅 総目次
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  ■ 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その2(湯布院) 1月3日
  ■ 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その3(阿蘇 第1回) 1月15日
  ■ 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その4(阿蘇 第2回) 1月19日
  ■ 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その5(黒川温泉) 1月22日
  ■ 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その6(阿蘇・湯布院を後にして) 1月25日
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次

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