K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて (最終回)

2006年08月31日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏の手記(1945年記述)は、終戦を迎え大空襲篇は今回が最終回ですが、戦後61年を経過した今日、戦争を語り継ぎ平和を求めていくためには大変貴重な手記であります。ご提供を賜りました、ご遺族様には大変感謝を申し上げます。
軍・官の無謀と無知に振り回された戦争は、多くの死傷者を出し、平和な家族と離れ離れとなり、暖かな生活を営む住居を灰燼に帰し、一般庶民に多大な犠牲を強いたのです。このような無残で悲惨な戦争は、二度と繰り返してはならないのです。
戦争を知らない人が80%を越しました。戦争を風化させずに、平和について考えていきたいのです。この手記をお読みになられた方は、戦争について語りついていくため、是非紹介をお願い致します。

なお、ブログのカテゴリ欄に、「大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次」を掲載します。
目次は、第1編「戦災日誌(大森にて)」、「手記第2編 戦災日誌中野にて」、「手記第3編 終戦前後目黒にて」および「東京大空襲~あれから61年~」の全29記事と、記事中に参照している写真や全資料のリンク付きの総目次で索引が容易に行えますのでご利用下さい。

また、若山武義氏の手記は、戦災編が終わりでなく、大戦後を記録した戦後編も残されております。戦後篇の手記は、戦災篇よりも長編で、今日では誠に貴重な記録でありますので、これからもカテゴリーを変えて、内容を抜粋して掲載してまいります。

掲載手記から再現
今までの手記を振り返りますと、第一編の「戦災日誌(大森にて)」10回連載では、大森町に住んでいた1944年暮れ頃から東京大空襲も激しくなり始め、4月15日の晩の大森町大空襲の手記場面では、
 「...京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
 「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
 アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面
 火の海。
 立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛
 炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ
 次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
 予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と
 化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。 ...」

 「...一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち
 付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹き
 つけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の
 海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海
 岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とか
 だまりあって駆け出した。
 呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるか
 えって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し
 繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。 ...」

と、大森町の住居は全焼の戦災に遭い、「手記第2編 戦災日誌中野にて」7回連載では、中野に移っての5月25日の手記には、
 「...今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始
 めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海と
 なり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタ
 ンに
  ピピユーピピユー
 物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
 「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
 と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止め
 たけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢い
 に皆退避し初めた。 ...」

 「...決して離れるなよと注意して、差当り火の手のない東養豚所まで来たら、再び
 第二の焼夷弾が怪音と共に降って来た。 ...
  ...さあ来いとばかり一散に飛び出した。約二、三十人の人と魔物に追われる気持ち
 でかけ出して、畑を横切る時、ガアーッと落雷の如き物凄き音、
  アッ、爆弾
 と直覚、トタンに背後で轟然炸裂した。アッもスッもない。無我夢中でスッとんだ。吹き
 飛ばされたとおんなじだ。 ...
  ...何とか此の危機をのがれたいとする、焦虜と不安と恐怖の地獄の釜のなかにたた
 きこまれた騒ぎ、このまま人生一巻の終わりになるのかと、泣くにも泣けぬ、我れ初め顔
 色を失ってしまった。 ...」

と、中野でも大森町についで2度とも住居消失の戦災を蒙りました。仕事のため住居を求めて目黒に移った、「手記第3編 終戦前後目黒にて」9回連載では玉音放送で終戦を迎えた記録です。
若山武義氏が、大森町大空襲の戦災期を記述し始めてから、終戦を迎えるまでの期間は僅かに8ヶ月足らずです。この間に、大戦のため庶民である一般国民は、何度も住いを焼かれ、何度も死ぬ思いをしながら爆撃の火の手を避けての避難を繰り返すという戦災被害を受けられました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第9回
続東久邇宮内閣
仮りに民間人が内閣を組織して、敗戦の真因を軍官の批政の結果なりと痛烈に批判して見よ、たちまい一発の御見舞を受ける処である。それが宮様なればこそ、かくツケツケ仰せ給うのである。全くひそかにヤミをやり生きて来た我々庶民は、総ざんげするのは忘れ、真に本当だ、まさしく其の通りであると、戦時中圧制されて来た軍、官に、初めて反撥し、批判する余裕が生じたのである。
然しさればとて過去の事で茲に泥試合は許されないが、お互深く反省せねばならぬ事は当然である。此の敗戦と云う冷厳な事実を、臨時議会で、首相の宮様が具体的数字を挙げての御説明に、初めて愕然として驚き、真に無暴な戦をしたものだと憤慨せざるを得ぬ。

かって、世界に初めての十六吋巨砲の陸奥、長門の巨艦を造り上げて米英を吃驚させて軍縮会議の素因を造り、更に其の制限範囲内に最優秀装備の重、軽巡洋艦を造り上げ、軍縮撤廃後、我が海軍が全智全能、その精魂を傾けて尽した怪物巨艦武蔵、大和等々、我が無敵艦隊の
  赫々たる戦果、勇壮なる軍艦マーチ
ああ、夢の夢、今はかげも形もなし、其の威容をむなしく海底に誇り居ようとは思わなんだ。
初めて知り唖然とし、只々呆然とし、泣くになけぬくやしさである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第8回) へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第8回)

2006年08月29日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
北区平和マップ
北区では、今月から区内の戦争や平和に関する史跡などを紹介した「北区平和マップ」の配布を無料で行っております。
平和マップは、A2版を折りたたんだポケットサイズで、かって北区には軍施設や軍需工場が立ち並んでおり、その史跡や平和像など24箇所を写真と解説文で紹介したもので、無料で配布しており25日に入手してきました。

平和マップには、かって北区の面積の10%を占める多くの軍需施設が、北区全域のイラスト マップ上に写真と記事で示されており、どこにどんな軍施設や軍需工場があったのかが一目で分かるように作られておりますので、史跡を訪れるには非常に良いガイドです。
主な軍需施設の史跡は、王子駅近くの王子区役所、中央公園付近には東京第一陸軍造兵廠の赤レンガ建造物の面影が残っており、石神井川の南の滝野川には陸軍用地標石や憲兵の詰め所跡があります。また、環七通りの北側には、陸軍兵器補給廠や射撃場跡があります。

軍需施設跡の他に、北区に1916年から1953年まで住んで居た、彫刻家の北村西望氏(1884-1987)が製作された長崎の平和記念像の分身が、「北トピア」に1990年に建立されており、飛鳥山公園には、平和の女神像が人類の平和と幸福を願って、1973年に建立されております。



無謀、無知な戦争の犠牲
若山武義氏の手記にも戦災記録が克明に記載されておりますように、軍と官による無謀、無知な行為により、一般庶民は激烈な都市大空爆と原爆により多数の死傷者や家屋の戦災を蒙り、沖縄決戦では多くの民間人が激戦に巻き込まれるなど、戦争は勝つものと信じて何も知らない国民は悲惨な戦災の犠牲を蒙りました。
戦争は、想像を絶する大空襲を受け、当時の国民学校(今の小学校)の学童は、家族と離れて生活する縁故・強制の学童疎開が始まり、戦争のため小国民も犠牲を強いられました。

平和マップ配布の資料室には、「子どもの世界でとらえた戦争と平和 終戦50年」東京都北区平成8年3月15日発行 東京書籍印刷の図書が置いてありました。裏表紙に疎開先の学童が、病気療養の帰京した先生に送った絵手紙の、田植えの手伝い(1945年)が描かれてあるのを見て、当時6年生での疎開体験の田の草取りの想いをブログに記述したばかりであり、戦争記録を風化してはならないと購入してきました[大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回) 2006年06月08日掲載参照]。

この手記の掲載と北区の資料作成の思いは、何度もくどく繰り返しておりますが、二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと、戦争記録を風化せずに平和について考えてもらいたいためなのです。

その他北区発行の戦争に関する資料・図書
北区では、「北区平和マップ」の他にも戦争に関する資料を配布しており、その一つに、「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」を発行し、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が記念誌の無料で配布しました[大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 2006年06月08日掲載参照]。現在、記念誌の残数を北区区役所で有料頒布しておりました。

また、区役所の資料室には、各種の図書・資料が閲覧してあり、記念誌配布の際に、東京空襲関係の図書「真っ赤な空は忘れられない 戦争体験の記録」昭和63年(1988年)3月15日東京都北区編集・発行、(有)鯨吼社制作が置いてありましたので入手しました[大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 2006年06月11日掲載参照]。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第8回
東久邇宮内閣
終戦内閣としての任務終了せりとして、今後の後始末は他の適任者にと云う理由に鈴木内閣は総辞職した。敗戦の困惑、国家内外の難問題累積、一歩其の収拾を誤まらんか、亡国とならんとも限らない。皇国の興廃の岐路、真実 卵の危機である。此の際、幕末の勝安房先生の如き卓越した人は居ないものか、何もかも安心して任せられる人がないものかと、我々庶民の目でさがしてみたが、政党には勿論、今更軍人ではなし、では重臣はと指折って見ても、これはと思う人は一人もない貧困さである。処が東久邇宮殿下に大令が降下したのでホット安心、全く嬉しかった。昔はともかく、明治以来初めての宮様内閣である。

而して初の内閣記者団との御会見の席上、何が故に戦争に負けたかの理由として
 一、戦力の壊滅的打撃と戦災の被害が想像以上甚大なる為め其の生産力の低下。
 一、官僚統制の為め、法律法令の乱発、全部とは云わぬが我が国情に適せぬ統制の為め、
   国民が働きたくも働けぬ程苛酷であった。
 一、軍、官はなかば公然とヤミをやり、国民はひそかにヤミをやった。
 一、国民道義の低下。  
等数項目を挙げて御説明遊ばされた。

何れ来るべき議会に数字を挙げて、国民の得心の行く様説明をするが、大体空襲が想像以上激烈であり、故に戦力が壊滅的打撃を受け、新に真に恐るべき原子爆弾の出現と、ソ連の参戦を直接の原因とし、国民はあまりにも多き朝令暮改の法律法令の乱発に手も足もしばられて、働きたくとも働く気力を失い、且つ官僚統制が全部とは云わぬが、大部分、我が国情に沿わぬ統制を行う事が却って戦力の増強を阻止し、軍、官は半ば公然と、民間はひそかにヤミをやり、為に国民の道義頗る低下したるが重なる素因である。丁度父親が派手に商売をやっていて、うんと儲けて居たとばかり思うて居た処、ポックリ死なれた。あると思う資産がなく、却って数えきれぬ程の借金で、その始末に処置なしと呆然たると同じであると、くだけて仰せられた。然して、新日本建設には真に国民全部総ざんげをしなければならぬと、力強く仰せ給ったのである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第7回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて(最終回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第7回)

2006年08月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
降伏文書調印
61年前の9月2日は、東京湾上の米戦艦ミズリー号の甲板で、外相の重光葵と参謀総長の梅津美治郎が日本の全権として、連合国への降伏文書に調印をしたのであります。
調印の署名は、重光、梅津、マッカーサーに続き、米国、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドの代表の順で署名されました。
日本では、政府・軍の指導者には屈辱との受け止めが多く、だれが代表として降伏文書に名を残すのかの人選は難航しました。
政府代表の人選は、首相の東久邇宮稔彦と副総理の近衛文麿が断り、外相の重光葵が決まり、軍代表の梅津美治郎は、本土決戦を唱えた本人であることから激しく抵抗したが、東久邇宮が「天皇のおぼしめし」として指名されたのです。

日本は、8月14日に御前会議でポツダム宣言を受諾し、15日の天皇の「玉音放送」で国民に伝えたが、9月2日までは、正式に戦争が終結したとはいえなかった。
8月8日に宣戦布告したソ連は、9月初めまで、樺太の南半分や千島列島、北方四島などを占領したのです。

(国立国会図書館ウエブサイト)
降伏文書調印に関する詔書 1945年9月2日
降伏文書


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第7回 
続 ポツダム宣言
まさか連合国と雖も、餌を興えずして卵をのみ獲るとはよもすまい。如何に苦しかろうとも、罪の償い、立派に其の責務の賠償を果したい。其の責務を果たしてこそ、三千年の父祖に、負けるべき戦争をおこした罪を詫び、子孫をして再び此の戦争の愚をなめさせないようにと。

 日本国国民ヲ欺瞞シ、之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ
権力及勢力ハ永久ニ除去セザルベカラズ
これは敢て連合国の指示を俟つ迄もなく、我々の手にて除去に努力せねばならぬ。
これ等の権力、勢力亦思想は、一石一草と雖もあますなく除去して、その上でなくては本当の民主主義が成り立たぬと思う。

 日本ニ対スル聨合国ノ緒目的ガ達成セラレ且ツ日本国民ノ自由ニ表明セル意志ニヨッテ、平和的傾向ヲ持チ且ツ責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聨合国ノ占領軍ハ直チニ撤収セラルベシ
敗戦の今日、軍閥は勿論解体されるだろう。戦争で儲けた新旧財閥、之も壊滅せしめなけ
ればならぬ。戦争中軍閥と共に国民を奴隷にした重臣、官僚群、華族などの特権階級は寸刻も早く追放せねばならぬ。而して全国民の九割を占める勤労階級の自由に表明せる意思によって、平和的責任ある政府を一日も早く我等の手で樹立せねばならぬ。かくてこそ、聨合国を安心させ、我等国民も初めて安心し得るのである。

 聨合国ハコノ条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ、右ニ代ル条件存在セズ。
とある。どうせ勝てぬ戦争なら、もっと早く終戦の機会はなかったのか、と思う。今更昨日が今日にはならぬから、愚痴は一切申すまいとは思わぬではないが、凡人の悲しさ、敗戦と云う千仭の谷底になげ込まれた上、今日迄、あまりにまっ正直に政府と軍とを信用しきって来た我々庶民は、この発表された「ポツダム宣言」に「右ニ代ル条件存在セズ」とあるけれど、お上の都合のよいようのに訳してあるのでないだろうか、丸々うのみに信用出来るかなと迷わざるを得なかったのでえある。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第8回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り

2006年08月25日 | 風景・風物詩
今から52年前の1954年(昭和29年)に、阿波踊りに負けないお祭りにしようとして始まった『よさこい祭り』は、1992年に札幌の『YOSAKOI ソーラン』や東京・原宿の『スーパーよさこい』など、祭りの規模はさまざまですが、現在、全国100以上の町で、子供、学生、年齢、男女を問わず、それぞれの地域の祭りとして盛り上がりを見せています。

ハマこい踊り
ヨコハマカーニバル ハマこい踊りの、よさこいのパワーは高知より横浜に広がり、1998年の第20回ヨコハマカーニバルからスタートしました。
開催当初、7団体だった参加団体も、8月19、20日開催の第28回ヨコハマカーニバを迎えた大会では合計73団体(出場チーム一覧)が参加して、年々参加チームも増え、夏のヨコハマ最大の市民参加型祭になっております。
「ハマこい踊り」のルールは、
 ・30人以上のチームで参加すること
 ・楽曲に「赤い靴」を入れること
 ・手に「鳴り物」を持って踊ること
この三つを必ず守りながら、各チームはそれぞれ自慢の演舞を披露いたします。

第28回ハマこい踊りの開催概要
第28回ハマこい踊りの概要(会場地図)は、19、20日開催のハマこい踊り「炎舞2006」エキシビションが、横浜高島屋屋上会場、横浜駅東口スカイビル・そごう間2Fデッキ会場、横浜美術館会場、二俣川駅改札前会場、とパルナード・ダイエー前会場の5会場で行われました。また、19日には沢渡中央公園会場で、ハマこい踊り「炎舞2006」コンテスト が行われました。(19日エキシビション・コンテスト演舞スケジュール20日エキシビション演舞スケジュール)
神輿&ハマこい踊りのパレードは、20日にオープニングパレード、神輿パレードとハマこい踊りパレードが、沢渡中央公園を出発し、鶴屋町3丁目交差点、横浜駅西口を経てダイエー前での区間で行われました。(ハマこい踊りパレード演舞スケジュールオープニング・神輿パレードスケジュール)
第28回ハマこい踊り開催のグランプリハマこい大賞は、大人の部が「子鳩子兎 メンズプラザアオキ 横浜百姫隊」、子供の部が「城南建設グループ&JDS舞魂神童子」が入賞しました。

ハマこい踊りエキビション横浜東口会場見物
よさこいのパワーとハマこい踊りの雰囲気の一端にでも触れられれば良いとの思いで、8月20日の昼下がりの午後1時頃に、京浜急行の横浜駅に向かいました。京浜急行の横浜駅は、それまで1本のホームでしたが7月22日より開設された下り専用のホームに始めて下車しました。
乗車駅の大森町に掲げられていた、ハマこい踊りのポスターを見ると、横浜駅東口のスカイビルとそごう間2階デッキでもハマこい踊りエキビションが見られることを知り、少しでも空いた会場で楽しめたらとの欲な思いから東口エキビション会場に直行しました。
東口エキビション会場は、思った通り空いており、浜風にあたる涼しい環境でゆっくりとハマこい踊りを味わえました。贅沢な環境でよさこいパワーの雰囲気を垣間見ることができましたので、夕刻から開始の横浜駅西口周辺での踊り歩きや音楽隊、神輿などのパレードの行進の見物は、混雑が激しく浜風の無い暑さを思って諦めました。

横浜東口会場での入賞ハマこい踊り演舞
・子供ハマこい大賞 城南建設グループ&JDS舞魂神童子
 2005年ハマこいデビュー!城南建設グループのご支援により子供達の踊り大好きパワーで立ち上がりました。



・子供の部 タカナシ乳業賞 ぴょん2天手子舞
ぴょんぴょん天手子舞は、2001年の春に海老名のダンスサークル「RDT・ティンカーベル」のメンバーを中心とした子供だけのチームとして結成されました。(演舞)
大人の部 高知よさこい祭振興会賞 相鉄Team des Shabary
デシャバを観るとついつい笑顔になってしまうようなそんなチームです。(演舞)
・大人の部 神奈川新聞社賞 Funny
私達Funnyは子供から大人まで幅広い年齢層で結成されており、家族で参加しているメンバーも多くいます。(演舞)
・大人の部 やっぱ横浜西口じゃん横浜シァル賞 破天荒
メンバー全員が県立希望ヶ丘高校卒業生ということで、チームの特色はなんといっても若さです。(演舞)
・大人の部 やっぱ横浜西口じゃんザ・ダイヤモンド賞 Team KIRIN
横浜生まれ、横浜育ち!今年もTeam KIRINは「キレ」の良さを皆様にお届けします。(演舞)

よさこい祭り
『土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい』
今から52年前の1954年(昭和29年)に、阿波踊りに負けないお祭りにしようと『自由な祭り』として始まった『よさこい祭り』は、現在、全国100以上の町で、子供、学生、年齢、男女を問わず、それぞれの地域の祭りとして盛り上がりを見せています。
この、本家の第53回よさこい祭りは、8月9日の前夜祭から、10、11日のよさこい祭りの本番と12日の後夜祭までの延べ4日間に亘り15会場の繁華街を踊り歩く、170チームが参加のさすが老舗のお祭りです。

よさこい祭りの衣装は伝統的な法被・着物から、現代的なコスチュームまで、バラエティに富んでおります。また、踊りは昔はいわゆる正調よさこい鳴子踊りが主流だったようですが、最近ではそれに加えてロック調、サンバ調、クラブ調あるいは演歌調など、各チームがアレンジしたさまざまな楽曲と振り付けが披露されます。
「よさこい祭り」のルールは、
 ・1チームあたり150人以下であること
 ・鳴子を持って前進する踊りであること
 ・曲を自由にアレンジができまるが、必ず「よさこい鳴子踊り」をどこかに入れること
 ・地方車は、1チーム1台とする

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会  へ
次回 風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会

2006年08月23日 | 風景・風物詩
夏の風物詩盆踊りは、500年の歴史を持つ民俗芸能です。その土地ならではの歌と踊りが、日本の夏をいろどってきました。日本人にとっては和の付き合いです。
大森町でも、各町会で開催され大森西三丁目町会では7月28、29日に行われ多数が参加して賑やかな盆踊りでした。また、隣接の三輪町会でも8月18、19日に開催されました。
ローカルな地方の盆踊りは、伝統的にやぐらの上の太鼓方、音頭とりならびに踊り子は浴衣を着用するのが普通であり、同じグループである場合は揃えの浴衣を着ることが多く、団扇を背中の帯に差し込んで踊る こともあります。

また、18、19日には東京の日比谷公園でも丸の内音頭大盆踊り大会が開かれ、共催の読売新聞社の19日の朝刊記事によると、日比谷公園盆踊大会は、2003年に日比谷公園開園100周年を記念して71年ぶりに復活した盆踊りで、今年は4回目にあたり「東京音頭」の本歌の「丸の内音頭」につられ、浴衣姿の女性など約1万5千人が参加したとあります。
そこで、第二日目の19日には、日比谷公園盆踊大会を見に行ってきました。

日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会
大森町を出て、都営三田線の日比谷駅には19時少し前で、盆踊会場の大噴水場に着いた時には、丁度櫓舞台のアトラクションが終わったところでした。
参加者は盆踊が始まるまでは、大噴水池の南側にある大芝生上に座り込み、周囲の松本楼やまい泉などの模擬店から食べ物を購入したりして、くつろいでおりました。
二日目も、前日に劣らぬ多くの参加者が見られ、地元町会でのローカルな盆踊りとは異なり、日比谷公園盆踊は都内各地からの来場者1万人による噴水を中心にした、都民の大同の和の付き合い大会です。


盆踊開始のアナウンスと共に、大噴水池の周囲に群集の大きな輪が作られ、櫓舞台上の地元太鼓方の音頭で、最初に売りの「丸の内音頭」から盆踊りが始まりました。
日比谷公園盆踊は、都心会場の広範な都内各地からの参加であるので、浴衣姿もかなり見られましたが、カジュアルな平服の参加でよい のが盆踊りの特徴で、外国人や小さな子供も数多く の参加が見られました。
盆踊りの後には、歌手のアトラクションがあり、盛会のうち夏の夜が更けていきました。

丸の内音頭(wikipediaから)
1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。「丸の内音頭」のレコードはビクターから発売され、A面が藤本二三吉、B面は三島一声でした。
東京音頭は、作詞西条八十、作曲中山晋平で、1933年(昭和8年)、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、爆発的に流行しました。勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡り、レコードの売り上げは当時、120万枚に達したといいます。

[丸の内音頭歌詞一部]
踊り踊るなら 丸くなって踊れ おどりゃ 心もおどりゃ 心も丸の内
雲は九重 御稜威(みいつ)は空に 音頭とる子は 真ん中に
大手うれしく 顔三宅坂 ほんにお前は 数寄屋橋
揃うた揃うたよ 踊り子の手ぶり ビルの窓ほど よう揃うた

盆踊りの起源(wikipediaから)
盆踊りとは元々は仏教行事である。平安時代、空也上人によって始められた念仏踊りが、盂蘭盆の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事という意識になっていったようである。 室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2) へ
次回 風景・風物詩(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り へ>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」

2006年08月21日 | イベント
第61回日本書道美術院「教育部展」が、8月13日から19日まで東京都美術館で開催されました。今まで書道などの芸術には縁が薄かった家系にあって、孫が始めて書道に親しみ出品しましたので、展示会初日に見に行ってきました。

東京都美術館は、動物園正面入り口の手前右手にあり(サテライト参照)、教育部展は地下三階の第二彫塑室にて展示されてました。

東京都美術館
これまで美術館には、あまり馴染みがなかったので、この際東京都美術館についてWikipediaで調べてみました。
美術館は、美術作品を中心とした文化遺産や現代の文化的所産を収集・保存・展示し、また文化に関する教育・普及・研究を行なう施設であります。しかし、日本の東京都美術館は、1926年(大正15年)に北九州の石炭王と言われた佐藤慶太郎からの寄付により建立された東京府美術館以来、美術品のコレクションはほとんど持たず、美術界の要望もあって国展や二科展といった公募展やフランス現代美術などの企画展の貸し館事業を中心としてきました。

開設当時の建物は老朽化した上、来館者や使用団体の増加に対応できなくなったので、1975年に現在の建物が建設され、それ以降貸し館以外の自主事業として、独自の現代美術コレクションを構築・展示し、都民への教育活動もあわせて行う自主企画展覧会の開催や美術図書室の運営を行うようになりました。
1995年に東京都現代美術館(Wikipedia)が開館すると、収蔵品や図書はそちらに移管され、再び公募展への貸し館とマスコミとの共催による企画展を中心に行うようになりました。
2002年以降は東京都歴史文化財団が運営を行っております。
なお、東京都美術館はまたもや公募展数の増加や作品数の増加などで、展覧会を十分に捌く物理的能力に限界をきたしており、公募展側の要望もあって国が巨費を投じて六本木に新しい貸し会場の国立新美術館(Wikipedia)を設置運営することが決まりました。

第61回日本書道美術院「教育部展」
教育部展は、第二次世界大戦後に一番最初に誕生した書道団体の財団法人日本書道美術院が主催で、第51回全国競書大会と併催開催です。
教育部展の出品作品の規定は、小学生、中学生と高校生が対象資格であり、作品は本紙寸法がタテ100Cm、ヨコ24.5Cmの用紙に語句・書体が自由課題の書道を、タテ135Cm、ヨコ36Cmの軸表装にしたものと定められております。


第61回教育部展の展示作品


第61回教育部展の展示作品は、高校生の入賞作品が96点、中学生が131点、小学生が186点で、その他小・中・高生の全ての秀作が147点、優作が193点、佳作が220点を数えました。
教育部展の展示作品展示その1
教育部展の展示作品展示その2
教育部展の展示作品展示その3
教育部展の展示作品展示その4
教育部展の展示作品展示その5

第51回全国競書大会の作品は、入賞作品が600点を超え、展示室に入ると多量の展示品に圧倒されました。
第51回全国競書大会作品を展示場入り口より見る

小学生作品は、どれも伸び伸びした大きなひらがなと漢字混じり文字で、しかも大変上手に書かれているのには感嘆しました。中学生以上の作品では、書道に縁が薄い者にとっては、書道の達筆さには羨ましくもあり驚嘆ばかりでした。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル へ
次回 イベント(5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2)

2006年08月19日 | 風景・風物詩
富岡八幡の由来を「御由諸」から抜粋しますと、「1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。」とあります。

富岡八幡二の宮神輿の渡御り(神幸祭)は、永代通りの深川不動堂参道入り口付近で見物する予定で、途中伊能忠敬の銅像や15日の例大祭祭典に繰り出す宮元(富岡一丁目)の神輿などを見ながら目的の場所へと進みました。
伊能忠敬銅像
江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁は、測量開始から200年を迎え、50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ忠敬翁が注目を集めていますが、翁は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していたことから縁りの地であるこの八幡宮の境内大鳥居横に銅像が建立され、平成13年10月20日に除幕式が行なわれました。深川周辺には忠敬翁隠宅跡のほかにも、翁が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、忠敬翁終焉の地などが点在しています。

二の宮神輿の渡御り
・清澄通りから深川不動前へ
午前10時30分頃から永大通りの永代橋方向の片側車線を通行止めにして、二の宮神輿の渡御りの準備が整いました。永代通りの深川不動前と清澄通りの間の歩道には、神輿に水を掛けるためのトラックが2台駐車し、トラックの荷台には一杯のビニールシートを敷き水を満載し、町会の多数の若者が荷台上で満を持しておりました。

二の宮神輿
二の宮神輿の由来は、元禄時代に豪商紀伊国文左衛門が奉納した総金張りの神輿が関東大震災で焼失したため、68年後の平成3年に日本一の重さ4.5トンの一の宮神輿(風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)参照)が奉納されました。一の宮神輿があまりにも大きさのため、平成9年に屋根幅が1m36cm、高さ3m27cm、重量が約2トンで担ぎ棒の縦棒が5m60cm、横暴が4m70cmの二の宮神輿が奉納され、3年毎の本祭り(子・卯・午・酉の年)の翌年陰の御本社祭り(丑・辰・未・戌の年)に各町会の氏子達がお揃いの白い半纏を着て渡御りが行われます。

二の宮神輿の渡御り(二の宮神輿渡御り順路)は、7時に宮出し後枝川から豊洲の各町会での渡御りが済んでから、二の宮神輿を釣船橋までトラックで運び9時30分にスタートして、牡丹、黒船橋を過ぎて門前仲町の交差点を右折し永代通りの深川不動堂参道入り口付近で折り返しとなります。
渡御りの予定時刻に、先導のお囃子巳美会の山車の先導で二の宮神輿が進んできました。
富岡八幡祭りは、「水掛け祭」とも云われ永代通りでも、盛んに二の宮神輿に水が掛けられました

水掛け祭
神輿が通る沿道のお店や住民から神輿と担ぎ手を清めるための「清めの水」が浴びせられることから、「水掛け祭」とも呼ばれ、元々は担ぎ手の足元位の高さに水を撒く様でしたが、1年で一番暑い8月の祭りですから、担ぎ手をクールにさせる意味も有ったんでしょう。それが何時しか勢い余って神輿まで水を掛ける様になったのが始まりだとも云われております。

折り返しからUターン後も水が掛けられる二の宮神輿

・深川不動前から清澄通りへ
深川不動堂参道入り口付近で折り返しからUターンすると、宮元のスタートなので先頭を地元の きれいどころの通州会による深川音頭の踊り連から始まり、お囃子巳美会の山車に富岡八幡の神官巫女が続き、門前仲町の交差点へと進む二の宮神輿に水が掛けらました。
神輿は、永代橋を渡り亀島橋まで進みます。

・午後の二の宮神輿渡御り
午後の二の宮神輿渡御りの順路は、区役所まえからスタートして大門通りで折り返し、三石橋を渡り三つ目通りから清洲橋通りに出て清澄通りに左折します。清澄通りからは、交差点で葛西橋通りに左折して、さらに三つ目通りに左折して永代通りに出て汐見橋を渡り宮入りするという長大なコースの渡御りとなります。
午後は、次の予定により富岡一丁目のおそばやさんで軽い昼食をとり、富岡八幡祭りともお別れして、東西線門前仲町駅へと向かいました。

永代橋の落橋噺
六代目三遊亭円生の噺、「永代橋」によると、文化4年8月15日の祭礼が雨で延び延びになって、やっと晴れた19日に執り行われた。当日大変な人出であったが、午前10~11時ごろ一橋公が舟で隅田川を通ったため、橋止めをした。11時頃橋を通る事を認めたが両岸とも同時に開けた為、群衆が殺到し中央でぶつかり人の重みで崩れた。後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央に達すると河に転落して、最後の人間は濡れなかった。いずれかの武士がこの最中に危機を察し、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、日に輝く刀を見た群衆が危機を察し、後ずさりをしたため、その後人が落ちなかった。この事でどれだけの人が助かった事か知れない。大変な人助けであった。また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言う。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ
次回 風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会  へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)

2006年08月17日 | 風景・風物詩
深川八幡祭りは、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つで、3年に一度八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、昨年が本祭りで大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する他、大小あわせて120数基の町神輿が担がれます。
深川八幡祭りと呼ばれる富岡八幡宮の例祭は、毎年8月15日を中心の日曜日に行われ、今年は8月13日が当たりました。

深川不動堂
今年は、二の宮神輿の渡御しが13日に行われましたので、上野に午後出かける前に渡御し順路に合わせて大森町を出て、日本橋を経て門前仲町に9時半頃に着きました。
先ずは、東西線の門前仲町を出て深川不動堂参道「正門」から本堂へと進み、左右に立てかけられている大きな「わらじ守」を見て、「本堂」を参詣しました。

深川不動尊の由来は、江戸時代元禄年間に江戸町人を中心として不動尊信仰が広まり、成田山ご本尊、不動明王を江戸で参拝したいという気運から、1703年に江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれました。このご開帳の場所が深川永代寺境内で現在の深川不動堂付近であり、これが深川不動堂の起りと云われている。
明治に入って神仏分離令によって、永代寺は廃寺になり境内は深川公園になった。1869年(明治2年)に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、1881 年(明治14年)には本堂が完成しました。


関東大震災・第二次世界大戦と2回にわたって本堂が焼失しましたが、ご本尊は焼失を免れました。1951年(昭和26年)に、当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺を、1862年(文久2年建立)を深川に移築して本堂が復興しましたが、この時の建物が現在の本堂になっています。
しかし、江東区最古の木造建築のため痛みが激しく、平成4年の興教大師850年御遠忌を記念して平成の大改修を行い、諸伽藍も一新され平成3年に大改修落慶法要が盛大に行なわれました。

富岡八幡宮
富岡八幡宮へは、深川不動尊の境内から東へ出て、西側の鳥居を潜り境内に入りました。境内に入るとすぐ右側には手水舎があり、左側の鳥居の奥には、富岡八幡宮17末社の内、平成13年10月25日に改築された三社に富士浅間社、金比羅社、大黒社、恵比寿社、鹿島神社、大鳥神社の6末社が並んで鎮座しております。
御祭神 応神天皇(誉田別命)外8柱を祀られている「江戸最大の八幡様」を参詣すると、本殿前では朝早くから夕方まで、[江東区剣道連盟]の奉納剣道大会が開かれておりました。

正面参道を永代通りに向かうと、右手の神輿庫に日本一の黄金神輿(比較)の御本社一の宮神輿が鎮座してありました。御本社二の宮神輿渡御り順路は、例祭で午前7時30分に宮出しされ、最初の枝川から豊洲の神輿渡御り順路を終え、第二の神輿渡御り順路の釣舟橋を午前9時30分に出て、深川不動堂前でUターンして永代橋を渡り、亀島橋まで進みます。第三の神輿渡御り順路は、12時50分に区役所前を出て夕刻に宮入りをします。
宮出しと第一神輿渡御り順路、第一から第二神輿渡御り順路、第二から第三神輿渡御り順路のそれぞれ間は、神輿をトラックで運びます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市 へ
次回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)

2006年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
疎開先で終戦を迎える
61年前の8月15日は、朝から快晴でじりじりと照りつける暑いなか重大放送があるとのことで、学童縁故疎開先での当時六年生であった栃木県芳賀郡物部村国民学校(現二宮町立物部小学校)からの召集があり、正午前に校庭に全校生徒が整立して玉音放送を聞きました。
当時のラジオの性能は、現在の拡声装置のように全校生徒全員にはっきりと音声が届き、話の内容が伝わると云うものではなく、家庭用のラジオより若干音が大きいかなと思われる程度のもので、ラジオ体操の伴奏を聴くのがやっとの物でした。

玉音放送
玉音放送は、天皇陛下のお言葉であることは承知しておりましたが、列の後列の方に並んでおりましたので、何をしゃべっているのか全く聞き取れないうちに終了解散となり、はだしで疎開先の3家族が居候の遠い親戚の家に戻りました。
それまでは戦局がおかしいとは感じておりましたが、負けるとは思ってもおりませんでしたので、家に戻るまでは終戦を知りませんでした。家に戻ると、回りの大人たちは殆んどお喋りをしておりませんでしたが、玉音放送が終戦を告げるものであったことが分かりました。玉音放送を聴いた物部村国民学校は、二度目の疎開先の通学した学校です。
(国立国会図書館ウエブサイト)
終戦の詔書(玉音放送)

縁故疎開
最初の疎開先は、隣県の母の実家のある茨城県西茨城郡青柳に接した、水戸線(小山-友部間)岩瀬町の駅前通りから旧道を右折した傍の家作を、縁故をたよりに一間を借りて、母と2人の間借り疎開生活が始まりました。
学童疎開は、当初個人的な縁故疎開を原則としましたが、本土が米軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで、急きょ1944年6月30日付閣議決定「学童疎開促進要綱」にもとづき、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開が実施されました。

1945年3月に入り、激化する一方の本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進する「根こそぎ疎開」が実施されました。
また、学童疎開の徹底と併せて本土決戦に備え、千葉、茨城、静岡、和歌山県等太平洋沿岸部の集団疎開学童は、より遠隔の地である青森、岩手、秋田、富山、島根、滋賀県等への再疎開が実施されました。
これにより、P51艦載機による機銃掃射などをさけるため、茨城県の町内から栃木県の農業地帯へと再疎開(地図参照)して、玉音放送を聞いたのが物部村国民学校なのです。

疎開先の岩瀬では、町外れの岩瀬第二国民学校までのおよそ2Kmの通学路を、ちびた運動靴で通学しましたが、物部村国民学校での通学は、一変して約700mを素裸足で通いました。岩瀬と物部とは、わずか10数Kmしか離れておりませんが、幹線道路もなく田園地帯の田圃であるため、上空にはP51の姿はありませんでしたが、生活環境がかなり異なりました。出征兵士で戦場に取られた留守宅に出かけ、田の草採りや農家のお手伝いなど、地元の子は当たり前に精を出して働きましたが、東京育ちの未経験者には立ち往生でした。
疎開生活は、縁故疎開では疎開先との複雑な人間関係、食糧不足、言葉や習慣の違い、いじめ等に悩み、集団疎開では少国民錬成の場としての厳しい規律・上下関係、空腹、食べ物を巡る葛藤、いじめ、蚤・虱等に悩まされ、幼い学童の心に消し難い傷痕を残しました。
61年前を振り返りますと平和を維持し、家族が離れ離れの生活で、幼い体で慣れない風習に暮らす疎開生活は、二度としたくないと強い思いを抱いております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第6回
ポツダム宣言 
其の発表された全文のうちで我等が一番直接関心を持つ(前後するが)
 我等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民ヲシテ滅亡セシメントスル意図ヲ有スルモノニアラザルモ、我等の採勢ヲ虐待スル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニタイシテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ
これで、負けたら我等の死か奴隷かとの考は先ず解消し安心であるが、戦争責任者に対しては当然以上当然である。
 日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障害ヲ除去スヘシ、言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立サルベシ

これで今次の戦争は、民主主義と全体主義の戦であるとの点が我々にも初めてうなづける。のみならず、今日迄、御無理御尤も、無理が通れば道理がひっこむ、長いものにはまかれろ、泣く子と地頭には勝たれぬ、見ざる、聞かざる、云わざるの、今日迄の我々の生活そのもが、真実の奴隷生活ではなかったかと初めて気がついた。戦争に負けると奴隷にされると耳にたこの出来る程きかされた処が我々庶民は無自覚にも、知らず知らずに、軍、官、財閥の奴隷生活を今日迄強制されて来たのではなかったか、如何に戦争中とは云え。
 日本軍隊ハ完全ニ武装解除セラレタ後、各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且ツ生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

これが、我等の敵は日本国民ではない、好戦的日本軍閥であると区別した所以である。
 日本国ハ、ソノ経済ヲ支持シ且ツ公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムガ如キ産業ハ維持スル事ヲ許サルベシ、但シ日本国ヲシテ戦争ノ為メ再軍備ヲ為ス事ヲ得セシムルガ如キ産業ハ此ノ限リニ非ズ
 右目的ノ為ノ原料ノ入手ヲ許可サルベシ、日本国ハ将来世界貿易ヘノ参加を許サルベシ。
敗戦の上は賠償は当然の責務である。今は朝鮮、満州、台湾、樺太を衰失し、国土は徳川時代に狭められ、資源の貧困、八千万の人を養うに足りぬ。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第5回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第7回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第5回)

2006年08月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
明後日の15日は、61回目の終戦の日を迎えます。
若山武義氏の貴重な東京空襲の戦災体験の手記も、終戦の日に合わせて休載しておりましたが、今日から他のカテゴリーの記事と交えながら掲載を再開します。
手記は、第一編「鎮魂! 大森町大空襲」が連載11回、第二編「戦災日誌中野にて」が連載7回、第三編「終戦前後目黒にて」の連載が今回まで5回を数えます。

若山武義氏が手記を記述した所は、たまたま8月9日に掲載の記事「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」に出てくる、現在工事中の「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接の住居地に居住中に書かれたものであり、また、その場所は大戦中の空襲体験時の勤務先事務所の所在地でもありました。まさに、大森町は若山氏の戦中の大森大空襲時の焼夷弾の雨を目の前に落とされ、爆撃延焼の猛火を潜り命辛々逃げ惑って、人知れぬ思わぬ苦難を強いられた貴重な体験記であります。

61年前の空襲での民間人被害
61年前の8月6日と9日には、世界で始めて広島と長崎に原爆が投下されました。
当時の広島市内には、34万2千の人口で、爆心地から1.2kmの範囲では50%の人が死亡し、1945年末までに14万人が死亡したと推定されております。また、長崎市の人口はおよそ24万人で、即死者は3万5千人、1945年末までに総死亡者数は7万人以上でありました。
東京大空襲では、原爆は免れましたが、1942年4月18日の初空襲以来、1945年8月15日の空襲までに36万発以上のM69型焼夷弾と爆弾が落とされ、11万7000人が犠牲となりました。
この世界大戦では、全国47都道府県の無差別爆撃で、罪のない一般市民の約56万人(推定)が犠牲となっております。この犠牲者には、地上決戦場となった沖縄県民の犠牲者は含まれておりません。

戦争では、焼夷弾で被爆して怪我をしても、肉親を亡くしても、財産を失っても、国からの空襲被害者への保障は一切ありません。この様に、悲惨で、無残な戦争は二度と起こしてはならないのです。
このところ、世界ではイスラエルとレバノンではきな臭い戦争が起きています。また、北朝鮮やイランでは、核開発が進められております。
日本では戦争を体験しない人が80%を超え、戦争を知らない世代が増えております。大戦後61年を経過して、戦争の記憶が風化してます。
日本国憲法に掲げられている、恒久平和の理念は私達の願いです。世界に非核三原則の維持を訴え戦争を無くすために、若山武義氏の手記などを読んで頂き、平和の尊さを口伝えに広めて頂ければ何よりと思っております。

手記参考情報(国立国会図書館ウエブサイト)
・ポツダム宣言
・カイロ宣言


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第5回
・戦争だけはやめになった
 息つまる緊張がとけると、ああと吐息が出た。対ソ宣戦ではないぞと、判ったような、判らぬような、半信半疑である。
 「おじさん、サッパリわからんけんど、一体全体どうなったのさ」
 「おれもサッパリわからんけんど、戦争だけはやめになった、休戦だな」
 「それではまけたの?」
 「負けたとは思わないし、勝ったでもないようだが、とにかくいくさだけはやめになったと思う、とにかくあしたの新聞見んことには、しっかりした事わからない」
 「戦さがやめになったら、今夜から空襲はないね」
 「無論なくなるさ」
 「ああよかった、それさえなければねぇ」
本当に今日迄毎日毎夜、ある夜の如き、しのつく豪雨のさなかの空襲警報に、ねむれる子供をおこし、夫れ夫れ仕度させ、幼児を背に二人の子の手をひき、防空壕に退避させねばならぬ、其の困苦、毎夜二度、三度、困惑真に想像される。
 あす、お国と我が民族の運命が如何なろうとも、とにかく空襲の恐怖から開放された丈でも「ああよかった」と思う母親がいかに多かった事であろう。

・無条件降伏 
然し狐にばかされたような、なんとしても割り切れぬ気持ちである。むやみやたらに腹がたつ。それが翌日の新聞で、初めてポツダム宣言受諾即ち無条件降伏と知って腰を抜かすばかり呆然自失した。
 「無条件降伏って、どんな事なの?」
妻の問いに対し、「若い女房や娘はみんなラシャメンに連れて行かれる、男は一生奴隷として働かされるのさ」。とにかく大変な事になった。だから戦争は負けられんのだ、負けたら先様の云いなり放題だ。
 不安にあけて不安にくれる、恐怖からデマが乱れとぶ。海軍機がビラを散布し、
 「我ら断じて戦う、工員諸士、職場に就け」と
 交通機関を除いて、ピタリと休止、働らなくなった、動きたくも動かない、腰抜けとなったのである。

 「ピカッ! ドカン!」の死の恐怖からは開放されたが、今度は生きるに新しい不安と恐怖である。湘南方面では、婦女子全部急疎開せよと騒ぎ出し、我も人も落付きがない。
 然し、我々もから騒ぎはして居られない、心を落付けて詔書をよく熟読し、其のポツダム宣言とは如何なるものか、これが問題なのである。大体其の内容は全然我等は知らぬし、戦争中は教えても呉れぬ。終戦前鈴木首相が記者団の質問に答えて
 「カイロ宣言の焼き直しである」
と事もなげに無関心に云うた。其の「カイロ宣言」なるものも、どんなものか全然知らぬ。尤も最後の決戦に必ず提っのであるから、敵は何と宣言し、何を宣伝しようと馬耳東風でよかったのである。敢えて知る必要もなかった。
 敗戦、而も無条件降伏となっては、我が国の運命を規定するこのポツダム宣言の意味をよく知らねばならぬ。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第4回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)

2006年08月11日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
現在の高架上の大森海岸駅(京急出展駅情報参照)は、1970年に環七通りとの立体交差化のため鈴が森から平和島間の高架化により完成し、平成3年に開設した「品川水族館」の下車駅として休日には乗降客で賑わっております。

京浜電気鉄道開通で大森海岸と大森間に電車が走る
最初の大森海岸駅の敷設は八幡駅と呼ばれ、1901年に六郷橋駅と大師駅間で営業を開始した「京浜電気鉄道」が、六郷橋駅から六郷川を渡り旧東海道上の併用軌道を北上して大森村の集落を経て左折し、現在の大森海岸駅付近の八幡駅から西進して、東海道線の大森駅前の南に大森停車場前間が開通(大森停車場終点地図参照)しました。
京浜電気鉄道開通当初は、大森停車場前が終点であり、終点での折り返しは四輪電動車と電動機や運転設備のない四輪付随車を連結した2両編成の電車を、ループ状のレールを敷いて、電動車が先頭になるように向きを変えられる方法が採られました。
この様にして、開通当初は大森海岸と大森間に電車が走ることになったのです。

大森海岸と大森間が支線となる
1904年に、八幡駅(現大森海岸駅)と品川間が複線専用軌道で開通し、それまで併用軌道を走っていた八幡駅から学校裏駅(現平和島駅)間を、大森町裏を通る現在の京急路線上の専用軌道とした上、品川と川崎(1902年伸延)間が全通しました。これに伴い、大森海岸と大森間は僅か800mの支線(支線ルート説明地図参照)となり、駅名を海岸駅(昭和八年地図参照)と改称されました。
なお、現在の大森海岸駅への改称(京浜・湘南電鉄沿線案内図絵抜粋 出展横浜都市発展記念館所蔵 利用許可済)は1933年に行われました。

大森海岸と大森間廃止路線の跡を辿る
京浜電気鉄道開通の終点駅として敷設された大森停車場前駅と大森海岸駅間の支線は、役目を終了して1937に廃止(昭和十六年地図参照)されました。廃止路線跡は、道路用地となり、乗合い自動車が代替輸送で運行されました。
七月の七夕を迎えるある日、かって大森海岸と大森間を電車が走っていた痕跡を辿り探索してみました。
大森海岸駅前の廃止路線跡の道路は、第一京浜道路に接し路線跡に従い大森停車場前駅へと進みます。この道路は、JR大森駅東口の駅前広場のバスセンターから、京浜急行バス路線となり、羽田空港、森ヶ崎、大森東五丁目、平和島、船の科学館、大井競馬場などの多方面方向行きのバスのメインルートになってます。

メインルートの道路の歩道には、かっての面影を偲んで石畳のタイル絵がはめ込まれており、絵にはチンチン電車、大森海岸海苔大森貝塚大森熊手麦わら細工など大森の歴史のシンボルが、歩行しながら見られる嗜好になっております。
道路を、大森駅へと進み前方を望む と、大森停車場のループ線跡を公園にした木立ち が見えてきます。公園は、ループに沿って造形されており一巡してみました。
大森海岸側から見たループ跡の公園
公園を反時計周りにループ右側を直進してみる
公園をループ状に左カーブして進む
ループの頂点から公園内を見る
さらにループに沿って進む
カーブを曲がり切り直線部へと進む

残念ながら路線の片道を歩いて見ましたが、大森海岸と大森間の電車が走っていた痕跡は、大森停車場ループ跡の公園と道路のタイル絵のチンチン電車以外には見当たりませんでした。


公園を後にして、JR大森駅に向かうと七夕の飾り付けされた駅のホームには、日本考古学発祥の地の石碑が建っております。
石碑には、「ESモース発掘百周年記念に建立したもので、アメリカの動物学者モース博士が1879年横浜より新橋へ向う汽車の窓から大森貝塚を発見し、これが契機となって日本の考古学が発達しました。このブロンズは当貝塚出土の土器を約2倍に拡大したものです。1979年12月と書かれてあります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1) へ
次回 大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1) へ>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)

2006年08月09日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
京浜急行電鉄(京急)本線は、1872年に開通した東海道本線と並行し、京急最北駅である都営地下鉄に接した泉岳寺駅から南下して品川駅を過ぎると、東海道線の東側を南北に弓なりに沿った形で横浜駅に合流し、さらに、三浦半島を南下して堀の内を経て浦賀まで通じております。
そのほか京浜急行には、四つの支線があり京急蒲田と羽田空港間の空港線、京急川崎と小島新田間の大師線、堀の内と三崎口間の久里浜線に、金沢八景と新逗子間の逗子線があり、本線と合わせて総延長が87Kmの72駅で営業しております。
ここをクリックすると、京浜急行全線路線図(京浜急行出典)が見られます。路線図内の駅名をクリックすると各駅の情報が見られます。

さらに、泉岳寺駅からは押上駅まで都営浅草線と相互乗り入れの運転を行い、その先押上駅からは京成電鉄の成田空港までと、京成高砂駅からは北総鉄道北総線の印旛日本医大までの直通乗り入れの運転および、京成成田駅から芝山千代田間の芝山鉄道線の5路線で、東京、神奈川、千葉の広範囲な地域を運行しております。

京浜急行本線とJR京浜東北線
大田区の京浜急行は、大田区の南北を貫通している本線がJR京浜東北線(東海道)と並行して大森海岸から六郷土手までの7駅と、京急蒲田から支線の空港線が大田区東南端にある羽田空港ターミナルビル地下駅までを結び6駅の営業をしております(地図参照)。
東海道線が開通した後大森町を京浜電車が走るのは、約30年後の1901年に六郷橋と東海道線の大森間が開通(大森町界隈あれこれ 京浜急行 大森海岸-大森間に電車が走る 掲載予定)しました。
京浜急行は、JR京浜東北線の東側(海側)を並行して走り、平和島付近との距離がおよそ1,050mと一番離れております。JR大森駅に近い大森海岸、JR蒲田駅に近い京急蒲田とのそれぞれの間隔がおよそ750m離れており、一番近い六郷土手では150m程度です。

京浜急行と大森町
京浜急行の大森町駅は、大森町の中心部に位置し、大森町北端部は平和島に、また南部は梅屋敷にそれぞれ接しており、大森町住民の交通の要として重要な交通基幹です。
大森町の交通の便利さは、都区内でも有数な場所であり、都心部に出るには泉岳寺から都営地下鉄線を利用するか、品川駅からJRに乗り換えれば小半時で目的地です。
関西、九州方面への新幹線利用も、いまや品川乗換えまでわずか15分強であり、東海、伊豆方面への東海道線利用も横浜乗換えまでわずか20分程度です。
また、海外、国内旅行の航空機利用も、乗り換えなしで成田空港または羽田空港に直結です。

京浜急行の高架化
現在、京浜急行本線と空港支線の駅は、大森海岸、平和島と六郷土手の3駅が高架駅で、大鳥居、天空橋と羽田空港駅が地下駅ですが、大森町、梅屋敷、京急蒲田、雑色、六郷土手、糀谷および穴守稲荷の7駅が地上駅であるため、京急蒲田駅付近の第一京浜国道や環八通りなどの主要道路がまだ踏み切り交差なのです。前者の第一京浜国道は、箱根駅伝で有名な踏み切りです。
この結果、多くの踏み切りで交通渋滞となり、鉄道による地域の分断を解消するため、東京都、大田区、京浜急行では、平成14年に都市計画事業の認可を取り、京浜急行本線の平和島から六郷土手までと、同支線の京急蒲田から大鳥居までの区間を連続立体交差化を進めることになりました。


既に第Ⅰ期工事の「環八先行立体」工事で京急蒲田第5踏切付近に、仮設高架橋を現行線の山側に建設して先行的に立体化する工事と、梅屋敷駅直近から京急蒲田駅と、京急蒲田駅から大鳥居までの2階(1層部)を構築し、先行立体に接続する工事が行われております。
第Ⅱ期工事は、平和島から雑色までと、京急蒲田から大鳥居までの主に北側をすべて高架化したうえで、環八先行立体の本設化も含め高架化する。いずれも山側に仮線を設け、さらに、京急蒲田駅の3階(2層部)の建設も行われる。
第Ⅲ期工事は、雑色駅北側から雑色駅を含んで六郷土手駅付近までを高架化の工事が行われます。

高架化工事完成後の姿
高架化工事に伴い、京急蒲田、雑色と糀谷には駅前広場が造られ、大森町と梅屋敷にはタクシー乗り場が造られます。また、大森町商店街通りの駅と第一京浜国道間の道路が13mに拡幅されます。さらに、京浜急行本線の山側沿いの京急蒲田から内川までと、環八通りから六郷土手駅付近の既設道路までとに、幅員6mの関連側道が新設されます。
全ての完成予定は、平成31年と云われておりますが、各期の工事が進行することにより、京浜急行の沿線の環境は、大変貌が行われます。
京浜急行の高架化では、この変貌、変遷を記述して行く予定です。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
次回 大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)  へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放

2006年08月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
拡大図
8月6日の日曜日の一日間に限り、「大森ふるさとの浜辺公園」(仮称)一部の砂浜が一般に開放され、ハゼ釣りや砂浜遊びを楽しむことができました。
「大森ふるさとの浜辺公園」は、平成19年に開園が予定される公園で、場所は大森町を流れる内川の東端河口部の大森東三丁目の元東京ガス会社大森工場跡の裏手(通称ガス裏)にあります。
一般開放日の前日の8月5日に探索に出かけてみましたが、一般公開日でないため砂浜には入ることが出来ませんでした。

浜辺公園隣接地は戦後の仮住まい跡
実は、「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接地は、戦後の疎開先から引上げた1945年秋頃から1949年までの間、仮居住宅として複数の家庭が共同住まいをしていた懐かしい場所なのです(「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1) 」参照)。
61年前の内川河口先端にあった、父の勤務先事務所を改造した共同住宅付近地図で見られるように、ガス裏の小道が東京湾の海岸線でした。

元東京ガス会社大森工場の2基のガスタンクは、1基がガスの貯蔵量に応じて上下動する露出型のガスタンクで、片方のタンクは周囲を覆われたタイプのもので、鋳物川口のキューポラや千住のお化け煙突のように、大森町のシンボルでありました。
内川の対岸には、当時日本特殊鋼(「大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)」写真参照)があり、軍需工場であった製品の残渣などの廃棄物で埋め立てられた小島がありました。
現在、日本特殊鋼は既に存続しておらず、跡地にはマンションが建てられ、その小島も大森ふるさとの浜辺公園の敷地の一部として埋没され、戦争の歴史の痕跡は無くなります。

ガス裏の小道
ガス裏の小道は、現在公園工事のため閉鎖されておりますが、昨年の10月には歩行者や自転車通行は可能でした。
戦時中(1943年頃)のガス裏小道の地形を当時撮影の写真(左・小道の脇は海、中・海に接しているガス会社、右・防潮提)でみると、ガス会社の塀際に沿って小道があり、道が海岸線を形成しております。また、今では沖が広大な埋立地で覆われておりますので、無用となった防潮提も残っています。
戦後、ガス裏の小道はハゼ釣りの釣り場で、小1時間も釣ればたちどころに1束ほどの収穫があり、食料難時代の絶好なタンパク質、カルシュム源でした。
当時、小・中学生で引き潮時には露出したヘドロに膝下まで入って、釣りえさのゴカイを掘って自前で調達しました。

仮住まいからの通学
仮住まいからの通学は、小学校は大森第一小学校が戦災で焼失したので大森第五小学校に間借りで、旧東海道(美原通り)の外れまで通いました。当時は、戦後の混乱期で卒業式も行えず、卒業証書や通信簿を貰えませんでした。
中学校は一年生の時は旧制中学でしたが、二年生からは学制が変わり新制中学となり、やはり本校が戦災で焼失してましたので、森ヶ崎の大森第四小学校近くの工場跡地の仮校舎通いでした。

大森ふるさとの浜辺公園開放の入場口
公園開放の入場口は、元東京ガス会社大森工場の周囲を張り巡る南端の道路から行きます。南端の道路に沿って運河(サテライト)があり、海の入り口には水門が備わっています。
探索した日は、一般公開日でないため観察が出来なかったので、地図航空写真で大森ふるさとの浜辺公園の完成予想を想像してみました。
公園の工事は、平成17年10月から行われて、平成19年4月が開園予定で、完成すると昔日の大森海岸風景が復元されるとのことで楽しみです。公園には、内川の北岸と結ぶ連絡橋が掛けられ、京急平和島駅方面から公園に来られるようになります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
次回 大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル

2006年08月05日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
大森町商店街(共栄会)では、毎年恒例の大森町サマーフェスティバルが、7月中旬と8月上旬に2日間開催され、地域に根付いた夏のイベントとなりました。今年は、第1弾が7月16日の日曜日に、第2弾が8月3日の金曜日に開催されました。

大森町商店街は、大森町駅前通りの第一京浜国道から東邦医大通りまでの約700mのまっすぐなショッピングストリート(地図緑色参照)です。街路の両サイドには多種多様の商店が軒を並べています。商店街は、大田区商店街連合会「大森町共栄会」(事務局大森西3-13-22)に所属し、商店街通りを挟んで北側商店は大森三丁目連合町会に、南側商店は大森三輪町会にそれぞれ属して、大森町地元住民の日常生活に欠かせない商品を中心とした出店のメイン商店街を形成しております。

大森町サマーフェスティバル第1弾

7月16日の大森町サマーフェスティバル第1弾は、うす曇のなか午後2時から大東京信用組合前で秋田県大森町(提携町)物産販売大森・まちづくりカフェ、縁日が、さわやか信用金庫前でゲームや縁日が、村尾たばこ店前でゲーム、抽選会、縁日が、マコト精密前でゲーム、焼きそばや縁日が開かれました。
また、共栄会館前では、スペシャル催しのじゃんけんゲームが行われ、勝者にはクワガタ虫が賞品として配られ、孫がクワガタを貰い大喜びして持ち帰りました。

サマーフェスティバル第1弾の出し物は、大東京信用組合前の特設舞台で、午後4時から太鼓番社中の四次元太鼓と、午後5時から明治大学バンドの真夏のジャズ演奏が行われました。
大森町商店街通りでは、午後6時から舞舞連と地元児童館の子供達、大田区くすのき連による「阿波踊り」の流しが、東邦医大通り前からスタートして京急大森町駅まで練り歩きました。

大森町サマーフェスティバル第2弾

8月3日の大森町サマーフェスティバル第2弾は、梅雨明け快晴のなか午後4時から大東京信用組合前でゲームと縁日(風景1風景2)が、さわやか信用金庫前でゲームや縁日(風景3)が開かれました。
サマーフェスティバル第2弾の出し物は、大東京信用組合前の特設舞台で、午後4時から三輪ふれあい太鼓に続き、午後4時45分からヤマハのスター楽器のエレクトーン演奏が行われました。

大森町商店街通りでは、午後6時30分から子供の山車(風景4風景5)に続いて、総勢600人およぶ流し踊りの練り歩きが京急大森町駅からスタートしました。流し踊りは、地元大森町や近隣町会および踊りの会と一般参加など多数が参加する、大森随一の流し踊りとなっております(流し踊1流し踊2)。
大森町サマーフェスティバルの最後の余興として、大東京信用組合前の特設舞台で、プロ歌手出演金融機関、関係官庁および地元議員出場によるカラオケ大会が開かれ幕が閉じられました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
次回 大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学

2006年08月03日 | ITと技術
7月19日の午後、所属している会の情報化研究会にて開催の地球シミュレータの見学会に参加しました。
地球シミュレータは、京浜急行「杉田駅」から徒歩15分のところ(アクセス)にある、海洋研究開発機構横浜研究所内の地球シミュレータセンターにあります。
地球シミュレータとは、地球規模の環境変動の解明・予測を目的として、1998年に当時の科学技術庁が開発を開始し、2002年3月に海洋研究開発機構横浜研究所 地球シミュレータセンターに設置されたスーパーコンピュータのことです。

海洋研究開発機構は、文部科学省所管の独立行政法人で、2004年に東京大学海洋研究所から移管された海洋、大陸棚、深海調査の「しんかい」などの各種調査船で研究を行っています。脚光を浴び最近完成した掘削船「地球」は、船底からの高さが130メートルある掘削用やぐらがそびえ立ち、水深2,500メートルの深海域で、地底下7,000メートルまで掘削する能力を備えていますので、地震の発生メカニズムや地球環境の変化の解明等に役立つよう期待されております。

地球シミュレータ
地球シミュレータは国家プロジェクトとして、宇宙開発事業団 (現宇宙航空研究開発機構)、日本原子力研究所、 海洋科学技術センター(現海洋研究開発機構)の3つの法人によって開発され、海洋研究開発機構内の地球シミュレータセンターに建造された地球シミュレータ棟に設置されました。
地球シミュレータは、台風など気象予測の精度を大幅に改善し、災害の予報に活躍することも期待されており、地球温暖化など今後100年間の環境変化のシミュレーションなどの計算にも利用されています。
地球シミュレータの性能は、ベンチマークで実効性能35.86テラフロップスを記録し、2002年時点では世界で最も速い高性能のスーパーコンピュータで、2004年6月に至るまでの5期連続トップを維持しましたが、2004年11月にIBMが開発したBlueGeneに首位を明け渡してからの現在は世界で5位の性能です。

地球シミュレータ システム

地球シミュレータ システム構成
ベクトル型計算プロセッサ8台が、主記憶装置16GBを共有する共有メモリ型並列計算機をノードとした計算機を集めて、640台の計算機ノード群を集めて構成し、クロスバネットワークで結合させた分散メモリ型並列計算機です。
このクロスバネットワークで使われているケーブルの総本数は、640×130 = 83200 本あり総延長は約2400Kmであるそうです。
写真1 地球シミュレータのケーブル配線

地球シミュレータの施設・設備を見る
・地球シミュレータ棟
地球シミュレータを設置してある建物は、幅50m、奥行き65m、高さが17mの2階建てで、床下にある高さ29cm,直径1m,20層の積層ゴムアイソレータが11個で出来ている免震システムの上に建っております。また、棟の周囲は、電磁波の影響を避けるためアルミめっき鋼板による電磁シールドが施されております。
建物の1階には、電気室と空調機があり、空調機の冷却空気は天井の隙間から2階の地球シミュレータに送られ、640台の計算機ノード群を冷却して、棟の側面の壁の隙間から温まった空気が戻されます。
写真2 地球シミュレータ電気室
写真3 地球シミュレータの空調機
写真4 地球シミュレータの冷却口
計算機ノード群が設置されている建物の2階のレイアウトは、中央部に設置の薄みどり色の幅120cm、奥行き130cm、高さ200cmの65筐体に計算機ノードを結ぶ結合ネットワークが収容されております。
結合ネットワーク筐体の周囲を取り囲んで設置されている青色の幅140cm、奥行き100cm、高さ200cmの320筐体に、640の計算機ノード群が収容されております。
写真5 結合ネットワーク筐体(左緑色)と計算機ノード筐体(右青色)
さらに、計算機ノード群収容筐体の外側には、白い筐体に収容されている磁気ディスクとカートリッジテープライブラリが設置されております。
写真6 補助記憶装置筐体
部屋の照明は、光源がマシン室の壁の外側に設置されているハロゲンランプによる、ライトガイド方式という直径が255mmで、長さが44mのライトチューブ19本による特殊照明でソフトな感じのする雰囲気でした。
写真7 地球シミュレータ棟の照明

・地球シミュレータの外部設備
地球シミュレータ棟の避雷システムは、棟とは独立した8本の避雷塔による架空地線方式が採られております。
写真8 地球シミュレータ棟の避雷システム
地球シミュレータの様なスーパーコンピュータでは、多大な電力が必要であり、地球シミュレータの消費電力は約6MWで、年間電気代が約6.5億円であると云われております。
写真9 地球シミュレータの受電設備

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その2 へ
次回 がすてなーに 東京ガスの科学館見学 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする